〈雑記〉じいちゃんに送った川柳
はい。こんにちは。
じいちゃん(87歳)が入院しました。膵臓がんのステージ2らしいです。
平日の夜、食後の時間に父からの入電があり、伝えられました。目的は入院手続きの書類の保証人欄へのサインのためです。電話口での父の声は淡々としていました。僕も淡々としていました。
三代に渡る父子のやりとりに感慨などありません。祖父も父も口数が多い方ではないので尚更です。まあ、僕だけ突然変異のように馬鹿みたいによく喋るので、代々伝わる遺伝子についてはよく分かっていませんが。
膵臓がんと言えば、発見が難しいことをご存知の方も多いでしょう。ステージ0やステージ1では自覚症状が殆ど無いことが多いようで、ステージ2で確定診断できただけでも早い方なのではないかと思います。
元々は「ここ最近、胃の調子が悪い」と言っており、病院に行ったのが膵臓がん発見のきっかけらしいです。
んむ。確かにじいちゃんが胃の調子を崩すのは珍しいのです。
──これは僕のじいちゃんに特有の話であるかもしれませんが、賞味期限を一切気にせずに生きていても腹を壊さなかった人間なのです。
あるいは、カブトムシ用のゼリーを間違えて食べても「ありゃあ、エサじゃったんか! 色が美味しそうに見えてのう」と平然と言っていたくらいです(カブトムシ用のゼリーを食べたからと言ってお腹を壊すかどうかは知りませんが、それほどじいちゃんは食べ物に無頓着だったということです)。
他にも、ご飯に牛乳をかけて食べたり、納豆に牛乳をかけて食べたり。食卓や冷蔵庫近辺のものは全て食べることができると判断して、口に放り込んでいた記憶があります。
じいちゃんの食べ物に対する行動原理を想像するならば、戦後に幼少期を過ごしていたことに起因するかもしれません。当時は干し芋やスルメなどを味がなくなるまで噛みまくって、成長期の空腹を我慢していたらしいです。また、家の裏にある横穴(井戸のような冷たい穴)に食料(野菜など)を保管し、食物が育たない時期にもなんとか食いつないでいたと聞いています。
ということは、カブトムシのゼリーを食べるくらいなんてことない、のかもしれません。あと、脱脂粉乳と呼ばれるクソまずい牛の乳の出汁に比べれば牛乳は美味しすぎた、と言っていました。そりゃあ、ご飯にもかけるわな、と思います。まあ、僕の実家は田舎なので、直接の戦火の下にはありませんでしたが、記載した程度には戦後の苦労があったようです。
あ、じいちゃんの戦後体験が膵臓がんの初期症状に対して敏感に働いた、という因果を言っているのではありません。じいちゃんの腹に関して僕が思い出したことを記載したまでです。
一方で、安全な食べ物ばかり選んで食べている(賞味期限に敏感な)僕とは根本的に体質が違うのだろうな、とも想像しています。時代は、人も、人の身体も作るのだろうと感じているところです。
して、膵臓がんの検査・治療の一つとしては、内視鏡によるアプローチが検討されます。一般的に胃カメラというやつですね。手技としては、MRCPやEUSにより、病変部の確認、細胞診や胆管・膵管ステントの留置などをすることになるでしょう。ステント留置は姑息的治療の一つにあたると思います(胆汁が流れるようにする処置であって、根治術ではないと僕は理解しています)。
また、リンパ節への転移状況を確認し、外科的手術も検討されます。ただ、じいちゃんは高齢であるので、開腹での摘出は難しいかもしれません。つまり、根治はできない可能性が高いのではないかと思います。
となると、放射線治療や抗がん剤投与での治療が検討されるでしょう。この点について僕の理解はとても浅いですが、副作用の負担があることは知っています。じいちゃんは長期に渡る治療や療養をした経験がないため、負担に対しての懸念があります。
あるいは、時期と本人の選択により、疼痛緩和等を行う(積極的治療をしない)緩和ケアも選択肢に挙がるかもしれません。
つまり、なんとなくですが、じいちゃんはそんなに長くはないと思っています。いえ、正直に言いますが、電話で膵臓がんと聞いたとき、僕はじいちゃんの死を即座に連想しました。それも、時期的にとても近くにあるものとして、です。
翌日、僕はじいちゃんについて考えていました(電話を受けた当日は、数分だけパニック発作の初期症状が出たくらいで普通に寝ました)。入院しているじいちゃんのために何をしようか──いや、じいちゃんに何をして欲しいかを考えました。
思いついたのは二点です。
そして、思いついたので、午後から仕事の休みをとって早速に着手しました(こういう時の行動の早さは特に遺伝ではない)。
①手紙と写真を送ること
先述したように、じいちゃんは口数が多い方ではありません。したがって、僕が実家に帰省した際の祖父母に対する姿勢は極端でした。
具体例でいえば、ばあちゃんとは畑や作業場でよく話し込んでいましたが、じいちゃんとは──リビングを通り過ぎる合間にひと言ふた言を交わす程度です。
会話はじいちゃんの質問から始まります。
「猫の──アレはなんて名前だったかな。元気しとるか?」
「ああ。オペも終わって今はピンピンしとる」
「おお、そうか」
という具合に。
じいちゃんとの会話の大半は、じいちゃんからの質問→僕からの回答→「おお、そうか」or「まあ、ええか」となります。僕だったら絶対にしない問答の流れですね。僕は言いたいことは言ってしまう人間なので。
して、僕はじいちゃんへの手紙を書くことにしました。書きながらすぐに気づきましたが、これは初めての作業でした。だからと言って、僕の手紙の質には影響はありません。ただ、買ってきた用紙を広げ三枚分を書きました。
内容は特にこれといったものではなく、「まあ、ええか」の次に来る会話のような手紙を書きました。それに合わせた写真も添えておきました。体調は優れないとは思いますが、ただ単に「読む」「見る」ことはできるでしょう。
②川柳の添削を依頼した
じいちゃんの趣味は川柳です。おそらく三十年近くやってるんじゃないかな、と思います。
一方の僕は曲がりなりにも趣味で小説を書いており、同じ文芸であると解釈しています。
そこで、川柳に挑戦することにしました。元々興味がありましたし、いい機会です。僕はくそ真面目なだけの文章より、ユーモアのある文章が好きなので、川柳は肌に合っている気もしています。
テーマを設けて、各五首ずつ川柳を作りました。折角なので、以下に貼り付けておきます。
料理)
包丁と まな板取り出し 仁王立ち
母の味 大さじ小さじは 目分量
火にかけて 沸騰させて 空焚きに
どこだっけ ここかあそこか 鍋の蓋
カタカナの 料理が並ぶ 箸はどこ
猫)
人の背で いらぬところに 爪を立て
耳を伏せ 抜き足差し脚 鈴が鳴る
高みへと 登り至るが 足震え
腹が減る 今日も昼寝で 腹が減る
長い髭 つぶらな瞳と 揺れる玉
祖父)
目に入る 孫の気持ちに なってみて
田植えする 子と孫を横目に ただ畦歩き
孫の手を 見つけた頃には 目的忘れ
耳すまし 鼻を近づけ 目を凝らし
背を追って 越して見えるは 生え際か
以上です。
我ながら駆け足で作ったのがバレバレですね。駄作が混じっている気がしています。
ただ、じいちゃんへの手紙を両親に託すのに間に合わせることを優先したので、数を作ることを優先しました。(じいちゃんが入院した病院では面会が登録した二名に限られており、僕は面会にいけません。だから、両親に手紙と川柳を託すことにしました。)
手紙の中で川柳の添削を依頼しました。
これは僕がやりたかったことです。もちろん、病状によっては何も手につかないことも予想しています。なんなら、生命の危機と文芸は極端に離れた位置にある──あるいは、ねじれの位置にあるのではないでしょうか──と思うので、無理強いはしないように手紙には依頼文を書きました。
僕が二十代の後半で、心臓を悪くして入院した時にも、そりゃ生命の危機や痛みを感じていました。ただ、ふとした時に、「暇だな」と思った記憶があります。そんな瞬間がじいちゃんにあれば、と思っただけのことです。
たぶん、家のことやばあちゃんのことなど、他にもじいちゃんの脳を埋め尽くすであろう要件はあります。それはそれでいいと思っています。
僕が文芸に親しんでいるという事実をじいちゃんに適切に伝える必要があったのだと、僕は思っています。
──二日後、じいちゃんから連絡。
「手紙にびっくりした。川柳とは驚いた。看護師さんが来た。それではまた」
といった内容のメールでした。なぜ、リアルタイムに看護師さんの来訪を教えてくれたのかは分かりません。
そして、さらに連絡。
「書くことが難しい。メールで連絡する」
とのこと。手紙と写真と川柳と、物質的なものを送りたくて用意しましたが、メールという電子的なものの便利さは利用すべき時には利用すると良いということですね。
なんなら、87歳のじいちゃんは、絵文字を添えて先のメールを送ってきていました。なんとまあ、僕はメールや通信の文章に絵文字や顔文字を一切使わないんですけどね。
はい。そんなわけで、じいちゃんから何らかの報せがいつかあるでしょう。その時は、川柳が添削されていようがいまいが、次の川柳を作って送りつけてやろうと思います。
おしまい。またね。