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『誰がために薪を割る』

 混ざりきっていないカフェオレかと思った。
「猫は液体だ」などという言葉のとおり、離れの薪小屋にあるバケツの中で、一匹の猫が身を丸めて寝ていたのである。熟睡はしていなかったのだろうが、優れたバランス感覚だなあ、と僕は感心した。一見するとバケツは薪小屋の隅にいつもどおり立っていただけで、傍から見る分には猫が入ってるかどうかなんて分からなかったのだ。

 僕が見下ろすと、バケツいっぱいのカフェオレはぬるりと頭だけを起こした。いや、カフェオレというのは僕の初見の感想であって、体毛のほとんどは茶色だが、白との境目はくっきりとしていた。眉間から背中に伸びる茶毛は両前足から脇腹を這い、後ろ足の付け根で白に変わっている。
「腹減ってるのか?」と聞いてみたが猫は何も言わず、茶色いしっぽの先3cmほどの部分でとんとんとん、とリズムを刻んだ。

「にぼし、食べるか?」と台所の引き出しから適当に掴んできて、数本を彼の鼻先に差し出すと、猫はバケツの中で器用に体制を整えて座り、口を開いた。
「お前、こんな田舎で野良やってたのか?」と更に聞いてみたが、にぼしの小骨を砕くむしゃむしゃという音しか返ってこなかった。小屋には大量の薪のストックがあり、屋外よりも暖かい。野良猫にとっては最低限度の暖をとるには足りるのだろう。
「いつからそこを寝床にしてるんだよ」
 疑問形での発言をやめた僕の手の中のにぼしを食べ終えた猫は、バケツの中から動かない。噂の巡りが恐ろしく早い田舎だが、猫1匹がいつからここで暮らしていたのか──この程度のことを僕は知らなかった。まあ、秋以降になると小屋までの行程は風通しが良すぎて、目的の薪を手にしたらさっさと家に入りたいくらい寒くなるのだ。僕としても猫の存在を知り得る術はなかったと言えよう。
「にゃあ」とお礼の一言でも言うかと思っていたが、あまりにも猫が微動だにしないので、僕はそれ以上口をきかず主屋の居間に戻った。

 吹き抜けの天井の隅に設置したオーディオで、The Doorsの『Light my fire』を再生する。日本家屋には似つかわしくない曲がりくねったオルガンの音が部屋中に響き渡る。
 誰も咎めやしない。僕は独り暮らしだ。
 薪ストーブに火を点けて、十二分に薪をくべてから少し眠った。
 すんすんと薪ストーブの上に置いたやかんが音を立てていたはずだが、僕の耳にはジム・モリソンの狂った叫び声が届くばかりで、屋外の風の音も、遠くを通り過ぎる車の音も届かない。

「とんとんとん──あなたはどうして薪を割る? とんとんとん──あなたは誰に薪を割る?」
 二足歩行で跳ねる猫が、薪を両手で打ち鳴らしながら夢に出てきた。僕は夢が夢であることを半分自覚しながら、猫に声をかけてみる。
「そんな小さな薪じゃ、火は長くはもたないよ」
「とんとんとん──あなたはいつまで薪を割る? とんとんとん──あなたは誰と薪を割る?」
「悪いが僕は独りだ」
「とんとんとん──あなたは独りで薪を割る。とんとんとん──あなたは私と薪を割る」
 とんだ冗談だ。猫が薪割りを手伝ってくれるわけがない。それに夢は夢だ。夢の中で猫が踊ろうが喋ろうが、薪は僕一人で割るしかない。なにも問題はない。元より僕はエアコンよりも薪の炎で暖をとるのが好きなのだから。
「とんとんとん──とんとんとん──とんとんとん──」
 猫が刻むリズムは規則性を保ちながら小さくなっていった。僕は夢の中で、(猫にもリズムという感覚が存在するのだろうか)と思慮を巡らせ続けていた。

 吹き抜けの天井は楽器の音を複雑に反射させる。しかし、真律まりが奏でるピアノの旋律は芯が強く、多少離れていようが身体の芯まで届いてくる。
「真律ちゃん、今週はたくさん練習したみたいだね」
「だって、練習してないとやなぎさん怒るから」
「僕は怒らないよ。いつも言ってるじゃないか。それに、どう考えても真律ちゃんのピアノはもう既に僕より上なんだから。教えることはもう何も無いんだよ」
「そんなことないです。私、別に何かの賞を取ったことがあるわけじゃないし──それに、春になったらやめちゃいますしね」
 真律の母からの頼みで、あと半年──彼女が高校を卒業するまでピアノを教える予定になっているが、月謝は既に断ってある。受講生は多くないが、近所の奥様方に重宝されている程度の自負は僕にだってある。
「別に無理してこなくてもいいんだけどね」
「んー。私はこの部屋でピアノを弾くのが好きなんです。だって天井も高いし、木造の部屋でのピアノの響きって、なんだか面白くて」
「どうだろうな。こんな部屋でばかり弾いてるから、何の賞も取れなかったのかもしれない。すまない。僕の力不足だよ」
「んーん。私の問題は私にあるからいいんです。受賞歴はなくったって、ピアノを嫌いになったことだけはないですから。それだけは私の取り柄として、大学に行っても趣味くらいならピアノを弾いてようと思ってるんです」
 真律はピアノ椅子からひょこっと立ち上がり、薪ストーブに向かった。首元だけに小さな台風が襲ってきたような天然パーマの黒髪がリズムよく揺れている。音楽的に生きてきた人間の身体は、ひとつひとつの所作にリズムを纏うようになるらしい。
 そういえば、中学にあがったばかりの真律が一度だけストレートパーマをかけて来たことがあった。それを見た第一声として、「どうしたの?」と発したら、彼女は小刻みに震えながら怒っていたことを覚えている。
 今思えば、失礼な物言いだったとは思うが、パーマが解けるまで──いや、パーマが解けてもなお、僕の音楽教室に通い続けた真律を褒めるしかない。ちょうど思春期の頃から主張が激しくなったそばかすが、今も真律の頬にあるのを確認して、残りの半年真律に何を教えようかと思案する。
「あ、薪少ないですね。柳さん、これじゃ夜には消えちゃいますよ」
「ああ、取ってくる」
 僕が何の指示も出していないのをいいことに、真律は後についてきた。指示をしていなければ咎める理由もないので、二人で薪小屋に向かった。

 小屋の中では風を感じない。くぐもった音も外より少しだけマシな体感温度も、身体の皮膚と空気の境目を淡くするために存在しているかのようだ。
「どの薪が燃えやすいとか、あるんですか?」
「いや、どれも同じだよ。薪割りの前に陰干しして、うんと待ったから。どれもしっかり乾いてるんだ。選り好みする必要はない」
「ふーん」と小屋を見回す真律の横で、僕は軍手の奥まで指を差し込み、適当に薪を掴んでは降ろす。手作りした手提げの木箱に薪を積み、両手で持ち上げると、ククッと薪が擦れ、隙間が詰まる。湿った土間を踏みしめ、歩きだそうとすると「にゃーお」と猫が鳴く。
 僕の次の一歩目には「ねえ!」と真律が小屋の中に芯の通った声を響き渡らせていた。
「ねえ、ねえねえ! 何この猫ちゃん! かわいいんだけど! ねえ、一緒に暮らしてるの?」
「そんなわけないだろう。そいつはこの小屋の住人だよ。煮干しをやったら食うだけ食うけど、うんともすんとも言いやしない」
「え? 今鳴いたじゃない」
「ん、まあ、僕には。うんともすんとも言いやしない」
 僕は木箱を下ろし、初めて鳴いた猫を見下ろした。真律はカーディガンの裾を気にしながら、僕の横にしゃがむ。
「にぼし、欲しいのか?」
「カフェオレみたい」
 僕と猫との質疑応答を無視して真律が呟く。僕は心の中で「猫は液体だからな」と返した。
 丸まったまま顔を上げた猫に「にぼし、いるのか?」と質疑応答を続ける。猫はうんともすんとも言わず、とんとんとんと茶色のしっぽの先でリズムを刻んだ。
「お前、僕には喋らないんだな」と伝えると、猫はむすっとした顔をして、両前足の位置を整えながら視線を外した。

 木小屋から出る際に、真律は「カフェくん、またね」と言った。
 僕は「せめて<オレ>を付けてやれよ。牛乳がないと彼の下半身が意味を持たないように思えるじゃないか」と返したら、「柳さん、JKに下ネタ言うなんて度胸ありますね」と笑われた。
 僕は猫の睾丸と牛乳の関係について考えながら薪を運び、真律のピアノを三十分ほど聴いた。高い天井に到達してもなお跳ね返ってくるピアノの音は、真律の方が僕よりも演奏力があることを証明しているかのようだった。これほど自信を持って弾けるなら、どこの大学に行こうが、ピアノを趣味にしようが、あるいはやめようが、真律がピアノを嫌いになることはないだろう。
 

 猫にも好き嫌いがあるらしい。
 にぼしは食べるが、まぐろの刺身は食べなかった。カフェは相変わらず小屋に定期的に現れた。もちろん、いない日もあった。僕としても愛着がわいてきて、うんともすんとも言わないカフェのために使い古した座布団と段ボール箱を用意した。

 真律にカフェの新しい寝床を見せたら、こっぴどく怒られた。
「専用のこたつくらい作ってあげたらいいじゃないですか。柳さんは薪ストーブでぬくぬくしといて──カフェくんには、それはそれは辛い冬が来るんですよ? カフェくんが今まで何回の冬を越してきたのかは分からないけど、だからといって今年の冬を越せるかどうかなんて、それもまた分からないんだから」
 僕は真律に指導することがなくなった代わりに、指導される側になったらしい。
「こたつなあ。真律ちゃんが卒業したら、その分の時間が空くわけだし、日用大工でもするよ」
「だめです。だめだめだめ! 冬はもうすぐそこなんですから。明日にでも作ってあげて欲しいくらいなのに。なんなら、私も手伝いたいくらいなんですよ?」
「真律ちゃんが金槌を振ってる姿なんて目に浮かばないな。それに、専用のこたつを作ったところで入ってくれるかどうか──使われないなら専用にさえならないんだから」
「カフェくんも、こたつ欲しいよね?」と同調圧力を形成したかったのだろうが、生憎、カフェは小屋にはいなかった。代わりに真律はすんすん言いながら、薪を運ぶのを手伝ってくれた。

 部屋に戻ると、空気が思っていたより冷えているように感じた。追加の薪をくべ、薪ストーブの空気口を調節し炎の勢いを強める。酸素を得た薪がパチパチとガラスの向こうでオレンジ色に燃え盛る。薪ストーブ前面の屈強なガラスは曇ることなく、熱だけを空気に伝える役割を果たすことに徹していた。
「今日は柳さんのピアノが聴きたいです」
「え? いつも聴いてるじゃないか」
「いつもっていつです? 私が言ってるのは本気のやつです。横から手を出して弾いてるやつじゃなくて、本気の」
「真律ちゃんが卒業するまでには一回くらい弾くよ」
「いやです。今日がいいです」
 真律は薪ストーブに両手をかざし、手指を温め始めた。本気で弾くのなら、僕が手指を暖めたいところだ。しかし、真律は丸めた背中をピアノに向けたまま動かない。
 諦めの早い僕はピアノに向かうことした。それに、リクエストに応じたくなるのは僕がただの素人である証拠だ。
 ただし、冷えた指先は機能しそうにない。もちろん指先を思い通りに動かせたとしても、真律のピアノに敵わないことも知っていたが。

 フットペダルとの距離を椅子で調整し、指を落とす。小気味よいテンポで揺れるイントロを鍵盤で叩くと、真律が立ち上がる衣擦れが聴こえた。
「それ、何の曲ですか?」
「The Doorsの『Light my fire』」
 答えた僕は目の前の鍵盤に集中した。The Doorsにはベースがメンバー構成にいないため、中音域のオルガンを基点にしてベース音としてアレンジする。低音進行のメインボーカルの音程ももう一つのベース音となる。
 間奏のオルガンソロはピアノ用にアレンジし、弾き伸ばした音をエスカレーターのように繋げていく。

 アウトロは原曲と同じフェードアウトだ。  
 ぱちぱちぱち、とたった一人からの拍手喝采──の後に一つの不満。
「ねえ、柳さん、それピアノ曲じゃないじゃないですか」
「んん。それでも僕は本気だから」
「あーあー、そういうことするから、私は柳さんには勝てないんですよ」
「まだ言ってるの? 僕はこうやってひねくれてたから、土俵に立ってすらないんだ。真律ちゃんとは違ってね。それに、僕なんかに勝ったところで、何者にもなれないよ」
 真律は何も言わず、僕の横まで来て、先ほどのオルガンソロアレンジを片手で再現する。芯の通ったきれいな音色だ。真律の片手の音ですら、僕には再現できる気がしない。いつからそう思うようになったかは覚えていないが、同じ空間・同じピアノを弾いているのに再現が不可能なのだ。
 もしかしたら、真律がスカートの後ろを跳ねさせたまま初めてこの部屋に来た日からかもしれない。いや、誰でも同じなのだ。ピアノだけでなく、表現の手法に触れた瞬間から、当人にしか出せない表現は必ず存在している。だから、相手が誰だとしてもオリジナルには勝てないのは当然だ。それくらいは分かっている。
 だからと言って、僕は僕自身の弾いた『Light my fire』に僕の癖のような、僕だけの表現が入っているのか自覚できない。例えば、真律には分かるのだろうか。
 真律の右手の甲で、腱がリズムよく浮き沈みするさまを見ながら、僕は足首の腱で知らぬ間にリズムを刻んでいた。人差し指をとんとんと動かすでもない、踵を踏み鳴らすでもない。ただ、真律に悟られないように、足首の腱だけを動かしていた。
 真律の右手だけのフェードアウトを最後まで聴き終えて、課業は終わりとした。

 その夜、僕はひどく酔っていた。
 部屋の中を照らしているのは燃え盛る薪の炎だった。薪が弾ける音が、ガラス越しでも僕の耳に時折届いてくる。テーブルカウンターの薪ストーブから遠い側にウイスキーグラスを置き、僕は木製の天板にうなだれ右頬を冷やした。
 下になった右耳が潰され、音も潰れる。
 僕の頭の中は廻っており、天井から右耳を生やすことができる。僕は天井から生やした右耳で、薪が燃え、形を変える様を見る。
 ぱちぱち、ぱちぱち、ぱちぱち、とん、とん──と────、──どうして────? ──誰に────?
 風が吹いていた。屋外では強く冷たい風が吹いていた。

 下にしていた方の右頭がずいぶん重い。あるいは、僕の右耳はカウンターテーブルに貼り付いてしまって、ついには天井と一体となっているのかもしれない。上体を起こそうとして、背筋に力をいれているはずがどうにも動かない。
 いや、これは夢ではない。僕の左耳には誰の声も聞こえていないのだから。「にゃー」という鳴き声さえも聞こえないのだから。
 左耳は生きているのだ。

 風が強かった。薪ストーブとアルコールに暖められ、一枚羽織ることさえ忘れていた。
「おい。カフェ、いるのか?」
 一歩だけ小屋に入ってぴたっと足を止める。小さな砂の数粒で起こる足ずれの音は要らないのだ。
「カフェ、夜もそこで寝てるんだろ?」
 右耳は部屋の天井に置いてきた。機能している左耳だけを使えばいい。猫は薪を叩かない、猫は薪を割らない。とんとんとん、の音は聞こえるはずが無い。
 にぼしを持ってくれば良かったかと今更気づく。しかし、今ここで僕が小屋を出ると、カフェも外に出てしまう気がした。確信はない。でも、僕はここに立っているべきだった。
「カフェ! 返事はしなくていい。何も言わなくていいから、一緒に寝よう。僕の──違うな。この小屋も、薪ストーブの前も、僕らの家だ」
 返事はなかった。疑問形であっても、疑問形でなくとも、返事はなくてよいのだ。

 薪ストーブの炎の灯りだけを頼りに、鍵盤を叩いた。
 僕はもう右耳を取り戻している。音が部屋の中だけに籠らないように、天井や壁に打ち付けるのではなく、屋外まで通り抜ける音を創るために、炎でオレンジがかった鍵盤に指を落とし続けた。
 曲がフェードアウトを迎える頃、薪は強く白んでおり、冷えた床には揺れない影ができていた。

 翌週、専用のこたつからのそのそと出てくるカフェを見ながら僕は言った。
「僕ら二人にはこの家は広すぎるな。いつか、オレと一緒に暮らそうか」
「柳さん、なんだか言葉遣いおかしいですよ? それに──」
 僕は真律の目を見て、先ほどと同じ意味の言葉を、今度は丁寧に言い直して伝えた。真律は驚いた顔をして、頬のそばかすの辺りを取れるはずもないのに何度も指でこすっている。
「にゃあ」とカフェが真律の足元にすり寄って鳴いている。やってくるはずの寒さに備え、僕は両耳を澄ませて薪を割る。



(おしまい)

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カナヅチ猫
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