『ブランコの揺れ方』
お互いにいい年した僕らが、公園のブランコの上で口げんかをすることになるとは思わなかった。この公園に僕らが来たときから数えて、時計の長針と短針が何度か重なった記憶がある。
ただ、時計の針が何時を指していようが、僕らの会話は平行線のままらしい。ブランコに乗ったまま、僕と彼女は前にも後ろにも揺れない。もしブランコを揺らしたとしても、この会話のように平行に動き続けるだけだ。僕らにはブランコを揺らす意味すら無い。
まだ日が暮れていないことだけが、僕と彼女における唯一の救いのように思えた。
「他の選択肢もあると、私は思うの。あなたを雇ってくれるところはこの近くにもあるでしょ?」
「あるかもしれない。ただ、時間がなさ過ぎるんだ。週明けには答えを出さないといけないから」
「それは知ってるけど、向こうに行ってからだって、こっちで働けるように転職活動するとかできるでしょ?」
「転職なんて、行ってからじゃ遅いよ。それこそ、面接のためにこっちに何度も往復してるわけにもいかない」
そもそも転職の機会を逃した僕が悪いのだ。ヘッドハンティングとまでは言えないが、同業他社から条件良く誘われたこともある。しかし、わざわざ転職するにしても業種を変えないという選択肢が当時の僕には無かった。
「私がついて行ければいいんだけど、特に資格も無いし、私こそ転職なんて無理だもん。それに今の仕事、嫌いじゃないし」
「だから、無理しなくていいって。僕だって何も考えてないわけじゃない。異動になっても向こうで資格でも取ろうかと思ってるし、結局また落ち着いたら戻ってこれるって聞いてるから」
そうは言ったが、ここから異動先の街への行き方だって今は一種類しか知らない。ノンストップで車を走らせるには遠すぎるし、新幹線を利用しても途中からは特急列車に3時間も揺られる必要がある。
僕が特急列車に揺られるであろう時間より長く、僕らは揺れないブランコに座り続けなければならないのだろうか。
「さっきも言ったけどさ、僕は君の事が好きなんだ。だから、待っててくれないか。それに昇進のチャンスはこれで最後だろうし、お金はないよりあった方が良い。これは僕らのためなんだよ。君だって分かるでしょ?」
「分かってるけどさ。もう私たち34だよ? だって断る方法もあるんでしょ? 昇進は無くなるかもしれないけど、私は少しの時間でもあなたと一緒に居れる方がいい」
僕の働く会社の昇進システムの慣例上、一度は転勤を経験しなければならないらしい。しかし、一度目の転勤の声がかかるのは35歳までだ。
「僕らの年は僕だって分かってる。君が急ぎたい気持ちも知ってる」
「違うよ。分かってないよ! 分かってないからあなたは<2、3年だけだから、ちょっと行ってくるわ>なんて軽々しく言うんでしょ」
「別に。軽々しくなんて言ってない」
「んーん! 言った! 絶対さっき言ったもん!」
平行線は交わらない。
僕らがこのまま話したところで、僕と彼女が交わることは無さそうに思えた。
「じゃあ、どうすりゃいいのさ。僕がここに残ったら、君は満足なの?」
「うん。私はあなたに行かないで欲しい」
「でも僕は行きたい。つまらない会社だなって思うことはあるけど、もし先があるなら、少しは僕の思うように働けるかもしれない。3年もすれば帰ってこれるはずだ。3年なんて僕らの人生の10分の1にも満たないんだから」
「やだ。10分の1とか数の問題じゃなくて、大事な時期があるって私は思うの」
「大事な時期ってのがあるとしても、僕と君のそれぞれにあるはずだ、と僕は思うけどな」
考え自体が平行なのであれば、いくら先に延ばしたところで僕らは平行線のままだ。
彼女はブランコから下ろした2本の足の靴裏で、じゃりじゃりと前後に砂を擦り続ける。下を向いた彼女の耳が黒髪の向こうに隠れている。
「あなたの言うことも分かるよ? でもこのままだとずっと平行線じゃない。平行な線は交わらないんでしょ?」
「交わらない。平行な2本の直線は交わらない。ユークリッド空間ではね。ん? いや、待って! 僕らは地球上にいるのか──」
「ユークリッド? 地球? ねえ、また難しいこと言ってごまかそうとしてるでしょ」
「いや、ごまかしてない。僕は事実を言いたいだけだ。例えば、君の足元に2本の線があるだろう。その、さっきから2本の足をずりずりして引いた線だよ」
僕が指さした地面を、ブランコの鎖を握りしめたままの彼女が確認する。
彼女の靴の幅ほどの2本の平行線が引かれている。
「あ、うん。私が足の裏で勝手に引いちゃったみたい」
「じゃあ、その2本の直線はずっと交わらないと思う?」
「うん。だって、習ったでしょ? 平行な2本の直線はどこまで伸ばしても交わらないって。ねえ、なんで今更そんなこと言うの?」
「それは2次元ユークリッド空間上での話だ。僕らは地球上に、丸い地球上に生きてるんだよ。その2本の直線をしばらく伸ばしていけば、必ず交わる。地球──球面上では、交わらない2本の直線は存在しない。平行な直線なんて引けっこないんだよ」
「意味が分からないこと言わないで。平行は平行よ。私とあなたの会話も平行線。どこまで行っても交わらないの」
彼女に2次元ユークリッド空間と2次元球面の違いを分かってもらえるとは思えない。ただ、多少なりとも、先を想像して欲しいと、僕は思った。
僕はブランコに勢いを付けて漕ぎ始める。
「例えばさ──」
「数学の話を振っといて、急にブランコを漕ぎ出すってなんなの?」
彼女の言葉をそのままにして、僕はブランコの勢いを強める。
「数学の話は続いてるよ──よいしょ──君もブランコ、漕いでみて」
「え? もう話だけで疲れたから、いい」
「いいから、ブランコ、漕いで。こうやって、二人でブランコで遊べるのも今のうちかもしれないし」
「あ、まあ、そうだけど」
彼女は渋々、垂らしていた靴の裏で地面を蹴る。ブランコが前に揺れるときは足を伸ばし、後ろに揺れるときはぐっと足を曲げて勢いを増していく。
僕は負けじと、立ちこぎで対抗する。
先程まで揺れていなかったブランコが動き、風を受けて彼女の髪がなびく。
「なんか私、久しぶりにブランコ漕いだかも。ちょっとおもしろい」
「それはよかった。僕はもうこのまま飛べちゃいそうだよ」
「ええ? 飛ぶの?」
「小さい頃やってなかった? ブランコ思いっきり漕いで、どこまで飛べるか競争」
「うん。やったことある」
「だよな。なんかさ、めっちゃ飛べる気がするよな。空に向かって、びゅーんて」
立ち漕ぎをしていると、ブランコの振れ幅がかなり大きくなった。前に漕ぎ出したときは、背中が地面と平行になるんじゃないかと思うくらいだ。
背中は地面に、視線は空に。
そんな僕の横で、僕の動きと平行に彼女のブランコが揺れる。僕らは平行に前後するばかりで近づくことはない。おそらく、この公園のブランコで僕と彼女はぶつからない。
「例えば、今から僕らが<せーの!>って、このままブランコから同時に飛んでもさ、ぶつからないよね?」
「そりゃそうよね。私たちは平行に揺れてるんだから。さっき言ったじゃない。平行な直線は交わらないって」
「うん。もし、この公園の端っこまで僕らが飛べたとしても、このくらいの距離じゃあぶつからないだろうな」
僕は更にブランコの勢いを増す。背中が地面と平行を通り過ぎて、本当に空まで飛び出してしまいそうな角度になっていく。
「じゃあさ、僕らがブランコから飛んで、空まで行っちゃったらどうなると思う? 空まで飛んで、そのまま地球を一周しちゃうくらい。ずっと飛び続けるとしたら」
「え? なに? ブランコ漕ぐの速すぎてて聞こえないよ」
僕はブランコの勢いを少し緩める。膝にぐっと力を入れ、ブランコの最大角度を調整する。
先程より安定したブランコを何度か漕いだ僕は、ブランコが最下位置を通り過ぎせり上がり始め、スピードが落ちる前に踏み切る──
ずざ、と両足で、着地成功だ。
それを見た彼女はブランコを漕ぐのを緩め、小さく揺れる。
「僕らが漕いでるブランコから一緒に飛び出して、空をずっと飛び続けたら、どうなると思う? 地球一周してくるまでに、僕と君はぶつかると思う?」
「え? 平行に飛び出したんだから、ぶつかるわけ無いじゃない」
「残念、それは違う。僕らはぶつかる。地球上に平行な2つの直線は引けない。僕らはどこかでぶつかるしかないんだよ」
小さく揺れながら、彼女はブランコから飛び出す先の空を見る。ただ、ただ空がそこにいるだけだ。地球の裏側までは想像できないだろう。
ざざ、と彼女がブランコから垂らした足を地面に付ける。座ったまま、顔だけを上げる。
「ねえ。あなたの言ってることが正しいとしても。飛び出すタイミングや速度が違ったら、どうなるの?」
「どうだろうな。ぶつからないかもしれない。でも、何周かしてる間に、いつかどちらかの速度が変わって、ぶつかるかもしれない。平行な直線は2本引けないんだから、僕らの飛んでる軌道は必ずどこかで交わってるんだよ」
「うん。じゃあ、あなたが言いたいのは、私はあなたとぶつかるまで、ずっと待ってろってこと? 結局、私は待つしかないの?」
「そんなことは言ってないけど。僕は、平行線なんて地球上には無いって、ただ、ただそれを君に言いたかっただけだよ」
ここ数時間で描かれた地面の2本の線を彼女の足が撫でる。ずりり、ずりり。
ずり、ず、ず、ずりり、ざざざざざざ──急に彼女が靴裏で地面の線をもみ消した。
「知らない! もう知らない! 平行がどうとか、私もうどうでもいいもん! ブランコから降りれば良いんでしょ!」
「え?」
誰もいなくなったブランコの座面が揺れる。
僕は彼女とぶつかる。
「もうぶつかった! 私たち、もうぶつかったから!」
「──ああ、はは。ぶつかったね。分かった。ちゃんと話をしよう。ブランコに座ってないで、話をしよう」
僕らはどうせ同じ地球上にいるのだ。ぶつかるのを避けようったって、避けれないこともある。いや、そもそも、僕らは直線上に動いてなどいなかったのかもしれない。
たったこの3時間だけ、ほんの少しの時間だけ、平行線のように見えただけだ。
「帰ろう。僕は君とまた、ぶつからなきゃならない」
僕は彼女の手を引いて歩き始めたが、その手は全く重くはなかった。
(おしまい)
【補足】
「平行線」が存在するのはユークリッド空間上での話です。僕らが習った“平行線”は「だだっ広くてずっと終わりが無い平面上」での話なんです。交わらない二本の直線。(かなり簡単に言ってます。数学会の偉い人ごめんなさい。)
授業中に、ノートに平行線を書いた記憶があるでしょうが、あれは「だだっ広くて終わりがない平面の一部」を書いてるだけなんですよね。
ただ、僕らは地球上にいます。
地球は「だだっ広くてずっと終わりが無い平面ではない」のです。地球は丸っこいし、閉じている限定された空間ですからね。
地球の表面の小さな凹凸を無視すると、二次元球面と見なすことができます。この二次元球面上には、平行な直線は存在しません。
なにいってんだこいつ? と思われるかもしれませんが、それでいいんです。
とにかく、僕らがノートに書いていたのは、理想の「だだっ広くて終わりがない平面の一部」であって、僕らが立っているココは「球面の一部」ってことです。僕らが想像していることは都合の良い空間であって、実際の状況とはイコールでない場合が多いです。
都合のいいこと、わるいこと。分かったこと、分からないこと。利用できること、利用できないこと。
それぞれが存在していますが、元の大前提の違いが何だったか、忘れないようにしたいところですね。
それでも僕らは「だだっ広くて終わりがない平面の一部」と見なせる場所に立っています。これもこれで都合がよかったりよくなかったり。
そもそも球面上での“直線”とは何か。僕らは直線を本当に目にしたことなんてなくて、直線と認識できるものを直線と見ているだけなのですから。
文字数が足りません。
正確な定義を行わずに数学の話を書くと、むずむずして不安になります。
とにかく、正確に、冷静に、認識したいと、思うわけです。色々。
おしまい。またね。
僕の書いた文章を少しでも追っていただけたのなら、僕は嬉しいです。