『姿勢』
彼女は牛乳の入ったコップを片手に立ち、僕の後ろで呟く。
「わっ、飛んだ……。わっ、すごっ、めっちゃ飛んでるね」
飛んでいるのは確かなのだけれど、僕には“飛んでいる”という感覚が頭に浮かばない。テレビの中で、同じ状況を繰り返し見過ぎたせいだろうか。
「いや、落ちてる」
「え? めっちゃ飛んでるじゃん。だって、身体一つで100メートルとか飛ぶんでしょ?」
「飛んでるけど、落ちてるよ。あのジャンプ台の先端は全く上には向いてないからな。ジャンプ台は下に傾いてて、選手はそこから射出されるだけだ。実際のところ、少しも上方向には進んでいない」
ジャンプ台の飛び出し口の傾斜角は、下向き11°程度だ。『スキージャンプ』という競技名ではあるが、実際には飛び上がっているというより、いかに落ちないように距離を伸ばすか、という競技である。
「でもさ、選手はさ、こうやるんでしょ?」
牛乳の入ったコップをテーブルに置いて、彼女が僕の横で滑走の姿勢を取る。変に様になっていて、僕は牛乳を口に含んでいなかったことに安堵する。
彼女は続ける。
「それでさ、ジャンプ台を踏み切る瞬間はこうやって、ぽーん! って蹴って、上に飛んでるよね」
「いや、飛んでるんだけどさ。物理的には落ちてるばっかりなんだよ」
僕の言葉を無視して、彼女はテレマーク姿勢を取る。
「どーん!」
「いや、もっと大人しくランディングしてよ。アパートの下の階の人に怒られるから、勘弁して」
「んー! 飛んだ。私は飛んだよおお」
彼女はランディングにブレーキをかけ、もう一度テーブルの上の牛乳を口に含む。恐らくスキージャンプの選手で、ランディング後に牛乳を飲む習慣の人は少ないだろう。
「んん。確かに選手の動作としてはジャンプなんだろうけど、実際には踏み切っても浮かんではいない。選手は重力に任せて進んでいるだけだよね。同じ場所でしゃがんで、ジャンプの動きをして、飛行姿勢で風を受けて、着地の姿勢を取って。それだけの動作なんだよね。だから、落ちてるだけ」
「ふうん。でも飛んでるよね。例えばさ、長野オリンピックの原田さん覚えてる? 私、小さい頃、原田さんが飛ぶとこ見てて思ったんだよ。飛んでるっていうか、背中がずっと上に引っ張られてるような、そんな風に見えたの。ずっと、ずっと着地しないんじゃないかって不安になるくらいだったなあ」
僕も覚えている。翼が生えている、というと言い過ぎなのだが、彼女が言うように上に引き上げられる力──揚力が映像となって見えたような、不思議なジャンプだった記憶がある。
僕も彼女も子供だったので、恐らく“思い出補正”というやつはあるのだろうが、飛んでいる原田選手を見て両肩の外側がぞくぞくしたことだけはよく覚えている。
「ああ、あれはすごかった。それ以外の感想が思い浮かばないくらいすごかった。それにさ、スキージャンプの記録って、昔は20メートルとか30メートルとかその程度だったらしいよ」
「へえ。じゃあ、飛んでるよね」
「まあ、飛んでる。飛んでますね。はい」
彼女は納得したのか、勝った気分になったのか、「すん」という曖昧な返事のあと、体育座りで僕の横に座る。
テレビでは、相変わらずスキージャンプの競技が続いている。
残り3選手。
ジャンプ競技では、2本目は記録の悪い順に飛ぶルールになっている。表彰台に乗れるか乗れないかの境目、日本人選手がジャンプ台のスタートゲートに座る。
その表情はゴーグルで読み取れないが、僕らは画面を見て固唾を呑む。
ランプの色が変わり、ふうっと息を吐く。
選手は両腕で身体を前に押し出し、しゃがみ込んでたった数秒のための助走姿勢を取る。肩についた日の丸が、風を受けてはためく。
早くもなく、遅くもない、一瞬しかないタイミングで踏み切る。
今──
「わ、飛んでる」
そう呟いた僕の横で、座っていた彼女が急にテレマーク姿勢を取る。
「どーん!」
「おい。やめろ。下の階の人に迷惑だから」
「ええー。だって、いくら上手に飛んだって、着地が上手くいかないと台無しでしょ? 」
「ああ。そうだな。──どーん!!!」
僕もテレマーク姿勢を取る。
「うるさい。はしゃぎ過ぎ」
不公平にも彼女には怒られてしまったが、テレビ画面に表示された記録を見て、僕らはハイタッチした。
残りあと二選手。思いっきり飛べばいい。僕らは祈りながら見ているから。
(おしまい)