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『みぞおち』 #月刊撚り糸

「ティッシュなら後部座席にあるよ」と言ったら、助手席から手を伸ばした彼女が、数秒後にものすごい音をたてて僕の隣で鼻をかんだ。
 彼女にとっての恥ずかしい音の境目はどの辺りにあるのか。僕は気になって、彼女と過ごした生活の中の恥ずかしい音を数えようと思った。あんな音やこんな音──僕は眉の位置が動かないように気をつけながら運転を続けた。

 彼女はもう一度助手席から身体をひねり、後部座席のティッシュに手を伸ばした──と思ったら、元の位置に戻ってきた彼女はグローブを膝に乗せている。僕の高校時代の汗が染みこんでから、かなりの年数が経ったとびきり臭いやつだ。

「すご。使い込んでるね。元の色は茶色? それとも赤?」

「いや、オレンジだ」

 僕の返事を聞き終えると、彼女はすぐにまた後部座席に向けて身体を伸ばす。「んっ」という声が聞こえたあと、彼女の膝の上のグローブは2つになった。僕の大学時代からの汗が染みこみ、尖った匂いのする臭いやつが追加されたのだ。

「これも使い込んでるね。元の色はオレンジ? 茶色?」

「いや、色はそのどちらでもない。けど、僕はその色の名前を知らないんだ。黄色というか、ナチュラルなんとか、みたいな名前だった気がする」

「ふうん。グローブの色って思ったよりこだわりが無いものなの?」

「んん。どちらかと言うと忘れたってのが正しいかな。それは松阪大輔モデルだったから買っただけで、買うときに色についての説明を受けた気がするんだけど、忘れたな」

「へえ」と言いながら、彼女は僕のグローブを眺めている。
 彼女の膝の上に置かれるべきモノではないし、かと言って持ち上げて彼女の鼻に近づくとまずいことになる。
 金のグローブでも銀のグローブでもない。いや、ボロボロのグローブが2つあったところで、僕には金のグローブも銀のグローブも与えられないだろう。


「で、君はその2つをどうするつもりだ?」

「そうね。天気も良いし、公園に行きましょう。カフェはその後でいいから」 

「んん。把握した」

だめだ。臭いから。本当は駄目だ。
 守備用の手袋が野球鞄の中に入っていたかな? と自問してみたが、入っていたとしても洗濯した記憶がない。いずれにしろ、これから手を入れるべき部分が臭いのは間違いない。


 近場の街でデートの時間を過ごそうと思っていたので、公園なんてものはすぐに見つかってしまう。

 問題はここからだ。
 車のエンジンを切り、「僕が持っていくよ」と彼女の膝の上から2つのグローブを取り上げる。後部座席には都合良く消臭スプレーが置いてあるわけもなく、今更何かを吹きかけたところで、何年かの時間が作った匂いはすぐに消えてはくれない。

 彼女は先に車を降り、公園に向かって歩き始めている。いや、スキップをしているのではないかと思うくらい髪を弾ませて、僕の前を行く。
 キャッチボール程度でわくわくしている彼女を、僕の長年の匂いで幻滅させるわけにはいかない。公園の中枢に向かうまでの間に、僕は可能な限りの提案を行うしかない。

「あのさ。野球やってなかったらグローブ使うのって難しいと思うんだ。最初は近くから投げるから、グローブなしでやってみない?」

「やだ」

 却下。
 
「そいえばさ、軟式のボールでも当たったら痛いから、もっと柔らかいボール使う?」

「んーん」

 拒否。

「あ、そいえば。君はテニスやってたろう? 車のトランクにラケット乗せてた気がするんだけどなあ」

「嘘つき」

 図星。

「滑り台ってなんか懐かしくない? まずは遊具で遊ぶか。二人で童心に返るのも悪くないと思うんだ」 

「違う」

 回避不能。

 一連の問答は僕らの時間を埋め、すぐに公園の端のベンチまで辿り着いてしまった。
 僕は両手に持ったグローブを持ち上げ、鼻との距離を近くしてみた。──当然、臭い。

 
「な、なあ。知ってる? 遺伝的に相性の良い相手ってさ、みぞおちの匂いがとっても良い匂いに感じるらしいよ」

「ねえ、なんの話してるの? えっと──」

彼女は僕の手から二つのグローブを取り上げ、鼻に近づける。「あっ」という間はあったのに、すんすんと僕の歴史の匂いを嗅ぐ彼女が小動物みたいで可愛くて、僕はそれに見とれていた。

「私、こっちね」

一つのグローブが彼女の手に嵌められ、もう一方の松坂大輔モデルのグローブが僕に返却された。
 一連の流れからして、彼女は僕のグローブを匂いで選んだらしい。僕は手元のグローブを確かめる。

「うわ、くっせ! やっぱくっせえ!」

「へ? 私は気にならないけど」

嘘をつくな。臭いものは臭いと思う。僕の汗と、グラウンドの土埃と、後部座席の日陰の匂いだ。黒いやつらのコラボレーションだ。臭くないはずがない。

「いや、くさいだろ。むっちゃくさいぞ」

「ふふ、気にしすぎだよ」

なぜ彼女は嬉しそうなんだ。信じられない。──しかし、臭いという反射はそうそう演技で隠せるものじゃない気がする。

「もしかして、僕のみぞおちの匂いがした?」

「んー。おいしかった!」

 彼女は僕の匂いを飲み込んでしまったらしい。
 まあ、僕だって彼女のいろいろなモノを飲み込んでいるのだ。彼女のモノならどんな色だって飲み込める。

「ねえ、ボールは?」

「あ、ごめん。持ってくるの忘れてた。」

 おそらく、後部座席に汚れたまま転がっているはずだ。僕が何度も追いかけた"白球"が。
 僕は彼女と、嵌めたグローブを手でぱんぱんとリズムよく鳴らしながら、公園の道を歩いた。


 

(おしまい)

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カナヅチ猫
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