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『雨』

「僕は、雨男だよ。」
「私も、雨女だよ。」
雨女を自称した女の子は、僕のクラスメイトだ。ただ、授業中に何度も目配せをするほどの仲ではない。それ以前に、授業中に寝ている僕と、真面目に授業を聞く彼女では、そもそも視線を交わらせる機会を作るのが容易ではなかった。
それでも、恥ずかしながら存在を意識している女の子だし、いくつかの可愛いらしい会話を交わすのが、僕の楽しみだ。これもその会話のひとつ。
「私たちが二人とも雨を呼んじゃうなら、天気予報通りに雨が降っても、どっちのせいか分からないね。」
「それもそうだね。でも、雨は僕の味方だから大丈夫だよ。少し雨が降る日の方が、湿度が高くて、野球ボールが手にしっくりくる。だからいいんだよ、少しの雨が降るくらいで。」
「じゃあ雨女の私が応援に行っても大丈夫だね。がんばって。」
試合の前日は金曜日で、帰り際に、彼女はそう言って僕に笑いかけた。女の子の一声で、より頑張れることが一つ発生する。男子高校生の思考回路にとって、複雑なアルゴリズムを要さない、ストレートな結果だった。

 ◆

 翌日は、天気予報通り朝から雲行きが怪しかった。早い時間から野球部だけを乗せたバスで球場に向かった。曇り空の下で、揺れながら少し眠った。その曇り空のまま試合は始まった。

 6回を終え、4対2で僕らの高校は負けていた。
 序盤、一挙4点を失ったが、6回裏に2点を返した。反対側のスタンドで鳴るブラスバンドと声援が「ど、ど、ど、」と、観客の足元を揺らす。それは大きな川の流れを緩める堰のように、長く、幾重にも続く。
 
 小雨が降り始めていた。

 僕はブルペンにいた。今日の試合には、出ていない。このチームには僕以外に、もう一人の投手がいる。もう一人の投手は僕と違い、とても速い球を投げる。かたや僕は軟投派と呼ばれ、速い球は投げれないが、変化球とコントロールで勝負するタイプだった。軟投派の僕にとって、雨は味方だ。
 雨が降り、湿ったボールを握る手の滑りが、先に投げる彼にとって致命的になる頃に、僕の出番が来るのはいつものことだった。

 その出番を待ちながら、そして想像しながら準備をする。
 ブルペンでは試合の行方と、目の前のキャッチャーを代わる代わる見ながら、投球練習をする。なるべく冷静でいなければならない。試合に入り込みすぎると、交代した後に新しい流れが作れなくなる。
 球が速いとか、観客を一目で驚かせる何かがなくてもいい。熱く、冷静に。それが、僕がその時マウンドに立つ意味だと強く認識しているから、そうしている。

 ブルペンは応援スタンドの目の前にある。
 野球をしていて、観客が気にならないと言えば嘘だ。強豪私立でもなく、中堅の古豪でもない僕らの高校では、夏の大会の野球応援は希望した生徒のみが参加する。スタンドは埋め尽くされていない。
 降り出した雨に、女子生徒たちは小さなタオルを頭にぽんぽんと乗せている。スタンドを見上げると、小さな白い花が点在して生息しているようでかわいらしい。その一団には、雨女の彼女もいるだろう。

 近くのスタンドで女の子たちが白いシャツを濡らしていることを、頭の隅で考えてしまう。高校球児が『甲子園』という言葉を頭に浮かべるみたいに、自然に。
 現実的に甲子園にいけるかどうかが問題でなく、頭に浮かべたことはある。「僕らの実力では甲子園は無理」とか、「甲子園を高望みする前に、打倒シード校」とか。記号や指標の一つとして使うためだとしても、『甲子園』の名称を頭に浮かべない高校球児は少ないだろう。そういう意味では、僕も一端の高校球児だった。 
 出番を待つ少しの緊張の中に、雨の日のボールの感触を楽しむ余裕もあった。僕はスタンドの小さな花たちを見ながら、手の中のボールを手首だけを使って、ほんの少しだけ投げ上げ、指先にかかる感触を確かめた。
 
 今日はいい日になる、はず。

 ◆ 

 次第に雨脚が強くなり、両軍の選手に対して、ベンチへ引き上げるように審判団から指示が出た。

 それから、ものの15分後。選手全員がベンチに引き上げ、誰もいないグラウンドのホームベース上で、主審が一人、大雨の中で右手を上げる。降雨コールド。高校野球連盟のルールが適用され、試合は終了、成立した。

 僕らの夏はあっけなく終わった。
 お互いのチームの意思など関係なしに終わった。チーム全員がベンチで突っ立ったままその様子を見た。観客のため息が揃う瞬間は、雨音のせいで聞こえる隙間もなかった。もしかしたら、ほとんどの観客は雨をしのぎにスタンドから去っていたかもしれない。
 グラウンドに誰も立たずに試合終了を迎え、悔しさの置き所が分からなかった。
 引退する3年は呆然としている者がほとんどだった。何人かの後輩が、納得のいかない感情を強く口に出していたが、ベンチの荷物を早く片付けるように促した。
 試合に出ていない、雨男の僕にできることはそれくらいだった。

 ◆
 
 ベンチを片付け、球場の外に出ると、雨脚は少し落ち着いていた。応援に来た生徒たちが、バスにぞろぞろと向かっていた。

 僕はなぜだか恥ずかしくなって、トイレに行く、とチームメイトに告げ、少しその場を離れ、遠目のトイレに向かった。
 アスファルトの上を、金属のついたスパイクを履いたままで歩くと、カチャカチャと音が鳴った。試合後に、スパイクを履き替えるのがおっくうだったのか、それとももう少し履いていたかったのか、分からない。
 土では汚れていないのに、雨で濡れたユニフォームで、履き潰したスパイクを履いたまま歩いた。 

 雨女の彼女に呼び止められた。雨で濡れ透けた制服のシャツに、タオルを肩にかけ、もう一枚の布を添えることで、恥じらいの気持ちを抑えるようにしているようだった。
 僕は顔を隠したいぐらいだったのに。
「かっこよかったよ。」
「僕は何もしていない。」
「いたじゃん。ちゃんと。グランドに。」
「僕にとって雨は味方だったのになあ。雨のせいで、試合終わっちゃったよ。―なんで雨なんか降るんだろう。」
そのつもりもないのに、途中から僕の声は震えていた。僕が顔の位置を正面に戻すのを待ち、そのれから彼女はこちらを向いて口を開いた。
「―雨に、罪はないよね。味方とか敵とか、君が勝手に決めてるだけだと思うな。私は、雨に罪はないと思う。好きか嫌いか、それくらいのことは、あるかもしれないけどね。好きか嫌いかは、個人の自由でしょ?」
 僕はどんな顔をしていいか分からず、うん、としか言えなかった。
「ねえ。私、雨女だから、雨の日のデートになるかもしれないけど。それでもいいなら。そしたら、少しは君もそんな顔しなくなるかな?」
「え?なんて?」
「えー。2回も言わせないでよ。私は雨女で、雨が好きだよ。これは私の勝手だから。」
雨の音にかまけて、聞こえないフリをした僕が、すぐに答えられるはずもなかった。
ただ、彼女に対しては、雨男を名乗り続けていようと思う。雨男を名乗るのも、自由だよね?


(おしまい)


このお話は以下の企画に参加しています。

僕の今まで過ごした時間に、雨はよくそこにいたので、書いてみたいと思いました。どストレートで純粋な恋愛のお話を書いたのは初めてなので、書くのに時間がかかりましたが、がんばりました。
読んでいただき、ありがとうございました。

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カナヅチ猫
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