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017 さよなら、東京

 四月の一週目のこと。
 引っ越しの準備に追われていた。
 夫に突然の辞令が出たのは、その二週間前。わたしの誕生日の三日前で、二〇代のラストイヤーは、北陸で過ごすことになった。
 しかし、三月末の繁忙期に、急な引っ越しなどできるはずもない。夫の異動は四月いっぴだったが、引っ越し日は四月にずれ込んだ。荷づくりや諸々の手続きのため、わたしは、ひとり東京に残った。

 今年は去年より春が遅く、フリースのジップをあごまで上げて作業した。
 いらないものを捨てる。段ボールに荷物を詰める。会社の寮だったので、きれいに掃除する。埃っぽく寒い部屋のなかで、こまねずみのように動き回った。
 気付けば夕方という日々で、二年九か月を過ごした杉並の最後は、慌ただしく過ぎて行った。

 ある夜、ロイヤルホストに遅い夕飯を食べに行った。
 引っ越し先の石川に店がないとなると、無性にクラブハウスサンドが食べたくなったのだ。
 外はすっかり暗くなっていたので、自転車のライトを付けて、井の頭通りを東に進んだ。
 サンドイッチは、おいしかった。
 引っ越し先で不要になるので、ガスコンロは人に譲ったから、無印のレトルトカレーやコンビニ弁当をチンする生活が続いていた。久々の満足した食事だった。
 食べながら、作業の進み具合や今後のことを考えていたら、ラストオーダーの時間。あと二時間で、今日が終わる。 
 まばらな客の中には、閉店まで粘るグループもいたが、伝票を手に席を立った。
 レジのウェイトレスは、疲れた顔をしていた。
「ありがとうございました。またお越しくださいませ」
 会計を済ませると、彼女は目線も合わせずに、マニュアルをつぶやいた。
 いつもは気にしないそのセリフを、気付けばもう一度、頭のなかで繰り返していた。それから、もうここには、来ないんだよなあ、と思いながら、店の階段を下りた。
 まっすぐ帰るつもりだったが、思い立って、高井戸駅のそばの桜並木に寄り道をした。
 そこは、二年前の春、お気に入りの夜の散歩コースだった場所だ。
 適当なところに自転車を止めて、サドルに腰かけた。街灯に照らされた白っぽい桜は、出発の日がちょうど見ごろ、という咲き加減だった。

 東京を出る、数日前の夜のことである。

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