ホドミホドミー、ホドミホドミー。
「お前の高校生活は、楽しかったのか」、と訊かれると、その質問には、YesかNoで簡単に答えられないと返す。10のうち、楽しいこと1、苦しいこと1、残りは虚無だったからだ。虚無はどうやっても虚無だ。オイラーが虚数を二乗(i2=-1)するとマイナスになると示してから数百年、絶対にオイラーを知らないクソガキどもが「マイナスを二乗するとプラスになる!」とか、謎のキラキラした画像に書かれた文字を嬉しそうにスマホの待受にする時代になっても、虚無は虚無のままだ。
その虚無の夜空に、ひときわ輝く一等星、内海がいた。僕の高校生活を語る上で、内海は絶対に必要だった。彼は、唯一、虚無から実在を生み出すことができる男だからだ。(高校卒業後、彼は超新星爆発を起こして大学卒業まで会うことはなかったが、それはまた別の話だ)
高校生最後の夏休みは終わったが、まだ休みボケが抜けない土曜の夜。ひとりソファに転がって虚空をただ見つめていた。別に失恋したわけじゃない。天井の木目を眺め、迷路ごっこをする遊びにハマっていただけだ。小学生の時は、一人野球、一人じゃんけん、一人ピンポン。精神科に行けば、変な薬を処方されそうな遊びを編み出し続けた実績のある僕が、辿り着いたのは精神活動に近い、或いは、修行に近い遊びだった。
木目のラビリンスに、僕は閉じ込められている。そこを抜け出すことは不可能に近い。生への渇望が沸き起こる。あれほど嫌っていた日常を、心から取り戻したいと思うなんてな。畜生。こんなところで、こんなところで死ねるか!僕は、現実世界に戻るんだ。
ブブ、ブブ、ブブ____
僕の気色の悪い妄想を中断させたのは、内海だった。内海はメールが苦手だから、いつもどんな用事でも電話をかけてくる。そもそも文字をちゃんと打てるのか疑問だ。
(仕上げに入ったから、今日、面白いことになる。来いよ)
「なあ、仕上げって何?」
(家来てくれ。21時45分までに。ターゲットがくる)
「なあ、仕上げって何?」
(待ってる)
それっきり、電話は切れてしまった。おそらく、彼の性格上、電話をかけ直しても質問に答えないことは分かっている。それに、僕の友人はみんな九九をすべて言えないが、誰もかれも笑いにおいては精鋭揃いだ。ハズレがない遊びに誘ってくれることは間違いない。心が鳴った。夏の夜に退屈を吹き飛ばす、とびっきりの隠し玉が用意されている。途端に、木目の迷宮を冒険していたことがアホらしくなった。僕は自転車にまたがって夜の帳に駆け出した。
「入れよ」
ドアを開いたのは、内海と僕の共通の知人だった。
「内海は?」
「中でターゲットと電話中だ」
内海の家は、両親ともに夜勤をしている期間があった。それがちょうどこの高校生の時分なのだが、それをいいことに、僕たちは彼の家の二階の居間をたまり場にしていた。階段をのぼり、ドアを開けた僕は、あまりの光景にその場に立ち尽くしてしまった。内海が安っぽい座椅子に座り、裏声で電話をかけている。口に人差し指をあて、僕を見ると、内海は「じゃあ、あとでね」と美輪明宏みたいな声で、電話の向こうの誰かに告げた。
「よう、金沢。きたか」
「なあ、嫌な予感しかしないんだが」
彼の計画は邪悪の具現化と言ってよかった。悪、純粋な悪徳。黒を越えた漆黒。光の脱出を許さぬ重力を持つ闇がそこにあった。
「それで、そのオッサンは、22時にくるのか」
「そう、ロータリー西口にな。普通のサラリーマンだから、俺たち3人で十分だぜ。なあ」
「おう、オッサン、ホテル行くつもりだから、5万くらいは持ってるだろ」
僕は、いわゆる”オヤジ狩り”の現場に、加害者側として参戦することになってしまっていた。全く乗り気ではなかったし、金も別に要らないが、とりあえず面白そうなので見に行くことにした。適当にヤンキーっぽい感じで歩いて、やばくなれば逃げればいいや、そう思っていた。
21:55。そろそろ行くぜ、内海が息を切らしながら言うと、僕ともうひとりの男が立ち上がった。内海は、数年前からハマっている、もう誰もやっていないパラパラを半裸で踊っていた。ナイトオブファイヤーという曲で、「いつかこの音楽に合わせてダイエットを行う仕事で飯を食う」と嬉しそうに言っていた。そのあとにビリーズブートキャンプが流行った時、本当は内海が黒塗りにして踊っているのかもしれないと思い、目を細めてテレビ画面を睨んだ。普通に黒人の怖いオッサンだった。
僕はわずかに緊張していた。これまで、大仏のお面を被って交番に押し入ったり、爆竹をセミにつけて飛ばしたりと、かなりの悪行を働いてきたが、今回のものは段違いにリスキーだったからだ。セミカゼ特攻隊は、自分のもとに返ってくるのがリスクなだけで、あとはただ気持ちが悪いことを我慢すれば楽しめる。こころなしか、僕の足取りだけが重い気がした。
「あの黒っぽい車。たぶん、あれだ」
地下道から半身になってロータリーを見る内海が言った。僕たちは、彼の後ろから頭だけを器用に出して、その車の場所を確認した。すると内海は、携帯電話を取り出し、到着の確認を簡潔に行うと、ゆっくりとパカパカ携帯を折った。
「オーケー。ターゲットで間違いない」
鼓動が高鳴る。これから、僕は犯罪に加担するかもしれない。それ以上に、この異常な状況がアドレナリンを大量に分泌させていたのだろう。「俺のこの手が震えてんのはアドレナリンが出まくってるからだぜ、クビチョンパされてビクビクふるえんのはお前のほう、みときな」、呂布カルマならそんな感じのことを言いそうな夜だ。
一歩、また一歩と車に近づく。男が一人、スポーツタイプの車に乗っている。右ハンドル。窓から腕を出してタバコを吸っているのが見える。ついに僕たちは車の横に到達すると、内海と知人が運転席を一瞥して、止まることなく歩いていった。続けて、すぐ後ろを歩く僕が運転席に目をやると、ミッション失敗の文字が脳裏に浮かんだ。
いや、めちゃくちゃ入れ墨入ってるや~ん。しっかり入れ墨入ってるや~ん。
窓から出した右手いっぱいに入れ墨が入っていた。当時、タトゥーなどはそれほど流行っていなかったので、詳しくはないが、おそらく和彫的なあれだったのだろう。
僕たちはロータリーを通り過ぎて、駅の券売機前で顔を突き合わせた。
「いや、めちゃくちゃ入れ墨入ってるやんけ。どこが会社員やねん」
「出会い系サイトでは会社員って言ってたけど」
内海は、この日の為に出会い系サイトでオッサンを釣り上げて、援助交際を持ちかけていたのだ。そして、のこのこ現れたいたいけなオッサンを脅迫し、ホテル代や援助交際で渡すはずだった金をせしめる、そういう魂胆だったらしかった。しかし、それはもう叶わない。それどころか、このままだとかなりまずいことになる可能性があった。
すると、内海は何を思ったか、駅の公衆電話で、どこかへ電話をかけはじめた。「ええと、事件です。ヤクザが覚せい剤売ってます」
どうしてそんなことが思いつくのか分からない。内海の頭を半分に割って、中を確認すると、脳みその代わりに、どんぐりが2つ3つ出てくるんじゃないかな、割って確かめてみようかな。
警察に場所を伝え終わると、電話を切り、次は、高校生がやってくると思いウキウキのヤクザに携帯電話で電話をかけた。美輪明宏のような声で、兄がどうだの、少し手こずっていただのと巧妙に嘘をつき、あと10分ほど待つことを約束させた。
「マジで覚せい剤持ってたら捕まるよな」
「まあ見てようぜ。面白いから」
僕と知人が話していると、突然、内海は走り出した。駅の階段を駆け下りて、もと来た道を駆けていく。そしてヤクザの車に近づいて、口論を始めた。かなり遠い場所から見ていた僕たちにも聞こえる音量だった。田舎ではかなり目立つ。どうも、内海は、援助交際をとめるためにやってきたお兄ちゃんの役をやっているようだった。
「俺の妹に、手を出すな!」
迫真の演技で叫ぶ内海。両親を早くに失い、兄の手ひとつで妹を育ててきた。そんな妄想が捗るほどの熱気だ。いや狂気だ。内海は一人っ子だ。
「兄ちゃん落ち着けよ」、おそらくヤクザはそう言っていたが、内海は止まらなかった。確実に妹を兄の手ひとつで育てていく覚悟を持った男が乗り移っていた。15から土方をやって、たぶんかなり仕事をがんばっている17歳だ。そのうち一人親方になって、妹を大学に入れるだろう。たぶん、妹は看護師になって、お兄ちゃんは28歳くらいで車から犬を守って死ぬだろう。凄まじいメッセージ性のある怒声に、ヤクザは明らかにたじろいでいた。内海、本当は妹がいるのか。教えてくれ内海。
ヤクザから何かを受け取ると、内海は頭を下げ、ゆっくりとこちらに帰ってきた。時間にして5分程度だっただろう。
「1万円もらった。妹といいもん食えって」
僕は正直、泣いてしまいそうだった。たぶんヤクザは本当に妹がいると信じて、妹思いの兄に同情したのだ。かなりお人好しなやつなんだろう、そうでなければ、美輪明宏のような声の女子高生の実在を信じるはずがない。
僕たちは駅の改札で、顔を見交わせた。何か凄まじい犯罪を成し遂げたような気分だ。これは、ヤクザ相手の寸借詐欺とも言えるのだろうか。それとも、壮大な歌劇か。なんという、なんという夜なんだ。ありがとう内海。いつもお前には驚かされるけど、今夜は凄まじい。
家に帰ると、僕たちは当たり前の顔をしてビールを飲んだ。アサヒスーパードライはいつの時代でも夏の夜を彩る代名詞になる。カッコつけるためじゃない、普通に酒を飲んでいた。中身が完全にオッサンだった。
ナイトオブファイヤー
ホドミホドミー ホドミホドミー
内海の携帯電話の着信音だ。
「うわ、ヤバい。ヤクザだ」
電話はヤクザからだった。内海はビールを片手に電話に応答すると、コールセンターのスタッフのような対応をはじめた。ヤクザは、おそらく内海(妹 非実在)に何かを伝える為に電話をかけてきたのだ。しかし、もう内海は美輪明宏には変化せずに、内海のまま応答を続けた。やがて、ヤクザはだんだんと自分は騙されたのだと気づき、声色が変わるのが分かった。内海は反比例するように、お客様係のベテランババアのように冷静さを増していった。
「はあい、勝手に言ってろボケ。わかりましたあ、さようならあ、切りまあす」
内海は、そう言って強引に通話を終えると、電源を落とし携帯電話を床に投げた。
「どうなったの?」
「さっき通り過ぎた三人やろ、お前ら全員殺すから家教えろって言われたわ」
内海、身震いするようなスリリングな夜をありがとう。死ぬ時はひとりで逝ってくれ。葬式は絶対行くから。僕は心の中でそう言って、アサヒスーパードライに口をつけた。何の味もしなかった。