怠惰との決別
自分は優れた人間だ。
そう思っていたことはないだろうか。
表面的には否定しながらも、心の深いところでそう思っているエリート諸君は多いのではないだろうか。
恥ずかしながら、私は大学受験に失敗するまでそう信じていた。中学、高校の成績は芳しくなかったにも関わらず、大学受験が近づいて本腰を入れて勉強すれば、トップレベルになれると思っていたのだ。
その根拠には中学受験での成功体験があった。
今思えば大したことではないのだが、私は地元では難関と呼ばれる中高一貫校に合格した。
私の小学校からも4,5名が受験をしたようだが、受かったのは私だけだった。
これは、思春期前の少年に万能感を与えるのに十分すぎる出来事であった。
入学後は、クラスメートも試験をくぐり抜けた学生であるから、小学校ほど成績優秀な生徒という訳ではなくなる。
「賢いこと」を自分のアイデンティティにしていた私は、自尊心の拠り所を失った。
不幸にも、私は運動神経があまり良くはなく、体育の授業でも浮いてしまうような生徒であった。
自分と同じかそれ以上の学力を持った同級生に運動でも劣っていることを突きつけられ、すっかり自信はなくなってしまった。
ただ、そんな私にもまだひとつ拠り所が残っていた。
「本気になればできる」である。
怠惰な人間はしばしばこの言葉に逃げる。これは魔法の言葉だ。
失敗しても、恥をかいても、それは「まだ本気になっていないだけ」なのである。できない自分を覆い隠し、やらない自分を肯定する。
私は当時、中学受験で全力を出し切った訳ではないと感じていた。
少しは成長した今になって思えば、あれが私の実力だったと思えるが、強烈な成功体験に酔っていた中学生の自己評価は実態と掛け離れたものであった。
結局、自分を本気にさせられるかどうかも含めて実力なのだ。
その後は特に努力をする訳でもなくズルズルと高校生になった。
何度か思い立って参考書を買い漁り、最初の数ページだけ熱心に勉強した痕跡があるが、そんなものは努力ではない。
こんな人間は他者に管理してもらうことが最善だ、と今なら思う。
だが、膨れ上がった自尊心と中学入学以来積み重なった「本気になればできる」が私にそうはさせなかった。
高校卒業が近づくにつれて、「私が本気になればできるということを見せつけなければ」という切迫感に駆られていた。
そんな高校二年生の私は独学で大学受験に挑むことにした、目標は最難関の国立大学である。
無謀であることは言うまでもないだろう。
目標は今自分の持っている実力や環境、残された時間と自分がどれくらいの負荷に耐えられるかを鑑みて決定されるべきだ。
しかし、これは私が大学受験後に気づくことである。
「今から頑張れば云々」こんなことをすぐ言う輩は大抵頑張れない。無論、私のことだ。
過去の自分を振り返り、自分が取り組める負荷で到達可能な目標にすべきであった。
もちろん、「自分を変える」という試みは歓迎されるべきだ。
しかし、同時に人は急には変われないことも頭に入れておくべきだろう。
少しづつ、少しづつ、負荷を上げていく。その過程を投げ出してしまうのなら、変わりたいなどと願うべきではない。
結果、私は怠惰な一年を過ごし、一冊の参考書もやりきることなく受験を迎えた。
もしも、Youtubeとネットスラングについての一問一答集があれば、それは完璧にできただろう。そういうことだ。
第一志望にはもちろん落ちた。
落ちたと言うか、センター試験で意気消沈した私は、自分が受かりそうな大学に出願先を変更した。
つくづく性根の曲がったやつである。
ただ、幸運もあった。第二志望の大学に合格をもらえたのだ。第二志望の大学とは、出願変更した受かりそうな大学ではなく、併願していた別の難関校だ。
正直、実力とかけ離れていたので、その学校の受験当日は行くか行かないか悩んだ。
行ったところで受からないんだから、その間勉強したほうがいいとさえ思っていた。
しかし、親に受験料がもったいないからと言われ、渋々受けに行ったのだった。
この合格は完全に運であり、センター試験にも失敗しているので、私の積み上げてきた「やればできる神話」は完膚無きまでにたたき壊された。
が、である。世間体的には失敗とはならなかった。むしろ、中学受験から立て続けに受験に成功したという印象を親戚や親、友人に与えた。
今度は、自己評価に対して他者からの評価が高い状況となったのだ。
やればできるところを見せたかった私は、その状況に甘えた。自分では自分が優れていないことに気づいているのに、優れているふりをした。それで自尊心を満たしたのだ。
私は今、その大学に通っている。
優れているふりではなく、本当に優れた人に成長しようと決意して入学した。
今は三年生である。
決意などなんの意味もないことをじっくりと味わった三年間であった。
これからは、決意を新たに就職活動をしたいと思う。