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物語における仮の信仰〜〜『ドラキュラ』

はじめに

今回はゴシックホラーの名作である『吸血鬼ドラキュラ』を選んだ。
著者はブラム・ストーカー。アイルランド人。1847年生まれ、1912年没。公務員だったが文芸活動をしていた。1876年に名優ヘンリー・アーヴィングと出会って、ロンドンへ家族で転居。ヘンリーの劇場で働き始めた。俳優に随伴してアメリカやヨーロッパに赴き、上流階級との交友を持った。ロマンス小説を多く書いたそうだ。1897年に『ドラキュラ』は出版された。

ドラキュラのイメージと実際に描かれていること

ドラキュラというと、現代ではデフォルメされていて、血を吸うとかマントで空を飛ぶとか、もちろんそれはそうなのだけれど、本作を読めばそれは表面的な一面に過ぎないことがわかると思う。吸血鬼というだけあって、ドラキュラは鬼だ。
筋肉は凄まじく、その表情は当時の科学的な知見である観相学で犯罪者として分析される。人狼とも評され、盗みを行い変装して悪さを行うまさに悪魔である。
また出版当時の最新技術も多く登場する。コダック、グラモフォン、タイプライター。読み手の物珍しいものへの興味関心をひいたのではないかと思う。

ロマンス小説の書き手としての一面もうかがえる。主人公のジョナサン・ハーカー、その恋人のミーナ。ミーナと親友のルーシーは手紙のやり取りをしながら恋バナで盛り上がる。ロマンスと隣り合わせの怪奇現象。
手紙が中心なので物語は直線的でなく、どういう場面なのかが少々分かりづらくなるかもしれない。ジョナサンがドラキュラ伯爵の館へ向かうシーン。ミーナとルーシーの恋バナのシーン。謎の幽霊船のシーン。精神病院のシーン。これらがどう繋がって行くのか?

無邪気でエンタメ化した、悪魔を倒すためだけの神への信仰

さすが名優に育てられたブラム・ストーカーだけあって、エンタメ性に優れている。この本は神が信じられなくなってきた時代に書かれた作品だ。それでもなお十字架やニンニクが悪魔であるドラキュラ退治に効くのだとしている。そうした設定が出てくるのは、善は悪に勝るとしたい人々の素朴な欲望に応えるためだろう。
悪魔が出てくるのも、殺人鬼が出てくるのも、ホラーが人気なのも、およそ西洋やキリスト教文化圏においては信仰が下地にあると言っても言い過ぎではないはずだ。恐怖への関心がさらに信仰を、正しさへの探究を進めさせた部分もあったのだろう。

ドラキュラは物語で、英雄譚だ。何人かの英雄たちがドラキュラを倒そうと神の力を借りて格闘してゆく。神がいなくなった時代において、神の力がまだあるはずなのだと力説し、グローバリゼーションが広まり始めた外国恐怖の中でそれがウケた。

人は弱く儚いーー今信じられないものを、それでも信じて進んでゆくこと

親も信じていたらしいし、おじいさんおばあさんだって信じていた。村の長老だって、周りの人間全員がそうだった。だから私も信じる、という形で信仰があった。
それが科学で置き換わっていく。実験によれば今まで信じてきたものは間違っていて、真実はこうだ。いや別の実験ではその真実とはちょっと違う結果が出てきたぞ、という感じで。
人々は科学を信じようとするが、科学は時に嘘つきだ。あるいは真実を微妙に言い当てられない。かといって今までの「信仰」を改めてみてみると、そっちはそっちで嘘ばかり。もはや戻ろうとする気にもなれない。

どれだけ(科学が・時代が)進んでも謎は結局残るのだ、わかっていることを頼りに慎重に道を進むことが肝心だと教わったような気がした。

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