見出し画像

取材者が骨髄ドナーになって 私が届けることができたものは・・・

ぼんやりと灰色の天井がスクロールする。

左側には白い服を着た女性。

「大丈夫です、無事終わりましたよ」

ベッドに横たわりながらガラガラとした振動。

腕にはチューブがつけられている。尿道にも。のどに痛みも感じる。

ああ、そうだ、今日骨髄液を抜かれたんだ。

私は2009年のある日、骨髄ドナーになった。

※ドナー手術に至る経過は当時のもので現在と異なる可能性があります

「あなたに適合する患者が」

最初に渡された説明書(当時)

2008年32歳の秋、それは一本の電話から始まった。

「骨髄バンク、静岡の○○です。登録されている金森さんですね」

電話は日本骨髄バンクの静岡の担当者からだった。

私の骨髄の型が適合する患者が見つかり、複数いる候補のうちの1人に選ばれたという内容だった。当時私は東京へ異動していて書類の郵送先がわからず電話がきたのだ。

この段階で断ることも可能、とのこと。この先、ドナーとして本格的な検査に移るかどうかの意思確認だった。

「ドナーになる意思はあります」

「自分の体で人助けが出来るなら」という思いと、最終的には「複数いるなら他の人が選ばれるのでは?」という少し甘い気持ちでドナーになる検査を受けることを承諾した。

きっかけは白血病患者への取材

私が骨髄バンクのドナー登録をしたのは2006年。

初任地の静岡で白血病患者を取材し番組にした時だった。当時50代の男性は白血病になったものの、骨髄バンクのドナーから骨髄液の提供を受け、命をつないだ。

突然の発病、苦しみ、骨髄移植しかないと望みをかけた思い。ドナーを待つ日々。見つかったときの感動。そして移植後も大変だった闘病の話。

男性の話とともに、骨髄バンクの登録会も取材した。血液検査で血液型を登録するものだった。

「私も登録させてください」

取材者としてだけでなく、実際に自分も登録しなければ、という思いに駆られた。取材して「骨髄ドナー登録を」と呼びかけておいて自分が登録しないのは、単純に自分としてカッコつかないと思ったからだ。マスコミは綺麗事だけ言って自分の身を切らないと思われるのがいやだった。

でも心のどこかで自分が適合することはないだろう…という軽い気持ちもあった。

しかし2年後、東京へ異動した後、私がドナー候補に選ばれたのだ。

コーディネーターと何度も病院検査

骨髄提供者となられる方へのご説明書より(当時)

ドナー候補に選ばれると、東京のコーディネーターの方から連絡が来る。今後の予定や病院での検査日などが伝えられる。

当時会社にはドナー休みというものはなく、病院で検査を受ける日は通常の半休や時間休を申請した。その時間のカバーを同僚に頼むことも。

私はまだ東京の社会部に異動してから1年と少し。まだまだヒヨッコだ。理解してくれる上司もいたが、そうでない人もいて少し面倒だった。

コーディネーター同伴のもと、都内の大学病院で、複数回にわたって血液検査、体力検査、問診を受ける。

記者である性分か、相手がどのような人か、他のドナー候補がどのような人か、など聞いてしまうのだが、コーディネーターもそれは言ってはいけないルール(私も知っていた)なので答えてはくれない。

「検査も問題なくまだ30代と若いので金森さんは最終候補になるかもしれない…」

はじめは推測で答えてもらっていたが、検査が進むにつれて、私を含め候補者が絞られていることを感じた。

「ほぼ決定」の連絡

「候補者はほぼ金森さんで決まったようです」

検査が始まってから1か月余り、コーディネーターから伝えられた。

正直、「まさか俺が?」という気持ちだった。責任が一気に重くなる。

「まだ他に候補はいますよね、私が撤回しても大丈夫なんですよね」

思わず聞いてしまった。

「まだいるとは思いますがもう少ないと思います。金森さんの健康状態が安全な移植にあたってもっともふさわしいかと思われます。ただ、強制は出来ないので断るならいまはっきりと断ってください。あくまでもドナーは自由意志です」

正直ここに来て多少たじろぐ。

でも自分の意思でやろうと決めたことだ。最後までやらないといけない。

そして私はドナーの最終候補になった。

「同意撤回は患者を危険に追い込む…」

大学病院の一室。

そこにはコーディネーター、私、家族、そして弁護士がいる。

目の前には「同意書」がおいてあった。

1時間ほどドナーに関するリスク、ドナーになった場合の検査や自己輸血、入院、骨髄採取の方法など、あらためて詳しく説明される。当時、日本の骨髄バンクではないものの、海外では骨髄ドナーが死亡した例も数例あることも聞かされる。万が一の場合の補償についても。

骨髄提供者となられる方へのご説明書より(当時)

説明が終わってしばらくして、同席した高齢の弁護士が口を開いた。

「同意がなされると患者さんは金森さんの骨髄液を移植するために本格的な治療に移ります。撤回は患者を大変危険な状況に追い込むことになります…ですから同意後の撤回はできません。これが最後の意思確認です」

骨髄提供者となられる方へのご説明書より(当時)

ここにきてさらなる責任の重さに正直戸惑う私。でもやる。自分の生き方としてやりたい、と決意しドナーになったのだから。

不安そうな家族も「この人の意思は変えられない」と思ったのだろう。


私は署名、捺印した。

健康診断と自己採血を繰り返す

それからというもの、ドナーとなるための細かな検査、入院の日程や骨髄採取にあたっての計画づくりや各種同意を行う。

正直、こんなに同意が必要なんだと改めて感じた。

様々な同意書や計画書(当時)

骨髄液は800㎖ほど採取するという。当然血液も減るわけで、その際は輸血が必要だ。安全性を高めるためにあらためて採取した自分の血液を自分に戻す「自己血輸血」。

病院で2回にわたって自分の血を抜くわけだが、これだけ短期間で自分の血を抜くのも初めての経験だ。

入院 採取前夜

2回目の自己血採血から2週間ほど、いよいよ採取に向けて入院した。4日間の入院で2日目に骨髄をとる計画。

骨髄提供者となられる方へのご説明書より(当時)

入院するなんてそもそも初めての経験だ。
空きの状況から消化器系の2人部屋の病室に入った。

当然、健康なので入院手続きと検査を終え病室で寝転ぶと、特に誰かが来ることはない。看護師の方とも検温で会うくらい。翌日に備えて食事もとらない。

結構ヒマだな、と思うとともに、いよいよ明日か、と思いながらこれまでの説明資料や計画書などを読んで過ごす。

そして夜、いつもよりかなり早い寝る時間。

「俺の骨髄液を待ちに待っているんだろうな・・・」

私が骨髄液を提供する見知らぬ人のことを思う。

どんな人生を歩んだ人で、病気になってどんな気持ちになり、骨髄液を待ついま何を思っているんだろう。助かるといいな・・・。緊張と不安と期待が混じりあまりよく眠れなかった。

真夜中も患者さんのうめき声やナースコールが鳴り響き、看護師もあちこちの病室に走り回っている。

病棟には消化器系の重い病気の方もいる。

「看護師さんは大変だな、ほんと」看護師の激務について、かつて看護師を取材、病棟に張り付いて番組にした時のことを思い出しながら目をつぶる。


そして、採取の朝を迎える。

骨髄採取の日

早朝、最後の体調チェックを終える。いよいよ採取だ。
指定された紙製のおむつをつけ、ペラペラの衣類を着る。

採取する手術室にストレッチャーで運ばれていく。

・・・麻酔医と看護師が2人で待っている。

骨髄採取の際は全身麻酔。絶対に事故が起きないよう、呼吸を制御するために人工呼吸器を使うため口からチューブを挿入する。尿道もカテーテルを挿入することになっている。

「体調大丈夫ですか?」看護師から聞かれる。

「大丈夫です・・・でも少し不安ですね」と答える。

「麻酔が効けばすぐなので大丈夫ですよ」手を握ってくれた。

優しいな・・・と思っていると血管に麻酔用の針が打たれる。

麻酔医が機械をいじりながら「血管がヒヤッと感じたらすぐに眠ってしまいますからね」と説明される。

「あっ確かにヒヤッとします・・・」

と言ったのが術前の最後の記憶だった。

骨髄提供者となられる方へのご説明書より(当時)

・・・ここはもちろん記憶にはないことだが、採取はうつ伏せになって腰の腸骨に複数の穴を開け、骨髄液を800㎖抜くもの。同時に事前に採取した自分の血液を輸血する。万が一のショック状態を防ぐためだ。


採取はゆっくりと3時間近くかけて行われた。


そして、気がつくと病室に戻るためにストレッチャーで運ばれている途中だった。最初は何でここにいるのだっけ・・・と思うほどぼんやりしていた。

体はほぼ裸、点滴のチューブや尿道カテーテルがついたまま。

病室で待っていた家族が泣いていた。
これまで病院にお世話になったことはほとんど無く、きのうまでピンピンしていたのにこの姿を見たら当然か・・・。

退院、そして感謝状。しかし…

その2日後、確認検査を入念にして退院する。
まだ腰が痛く、ガーゼには血がにじむ。
チューブを挿入していたのどや尿道も痛い。

電車に乗って帰る元気はなく、タクシーで自宅に戻った。

でもそれ以外は問題なく、1日後に仕事に戻る。

腰の痛みは1週間足らずで消えたが、触ると少し膨らんでいるのを感じる。風呂に入って腰が浴槽に当たるとまだズキッと痛かった。

その後の検査でも異常は見つからない。
ふだんの生活にすぐに戻っていった。


採取からしばらくして、厚生労働省から感謝状が届いた。

厚労省から送付された感謝状(当時)

しかし、この「感謝」に複雑な思いを持つ。

国からの感謝・・・でも、私の骨髄を提供した方はどうなったんだろう。

もどかしさの中、元患者からの言葉は…

春の桜の咲くころ、いつもどおり仕事をしていても心のどこかにまだもどかしい思いがあった。

患者さんの移植が失敗していないか、だ。

もちろん、患者の詳しい状況についてドナーは知ることが出来ない。骨髄液を提供しても、助かっていなければ意味が無いのではと不安だった。

そこで私は、ドナー登録のきかっけでもある過去に取材した患者の男性に連絡してみることにした。

「実は私、ドナーになりました。でも患者さんの治療が失敗していたらと考えると自分でやったことはよかったことなのか不安で・・・」

男性はこう答えた
「素晴らしいことをしましたね。患者の1人として感謝いたします。不安になんてならないでください。金森さんはできる限りのことをした。ここからは骨髄を受け取った患者さんの戦いなのですから」

私はさらにこう質問した
「私は患者さんに骨髄液以外の何かを届けることができたんでしょうか」

男性からの言葉は・・・
「あなたは患者さんに生きる希望を与えたのです。私は骨髄液の入ったパックを見たときに思わず拝みました。ありがとう、ありがとうと。この先自分がうまく治療がいかなかったとしても、見知らぬ私のために、見知らぬ誰かが文字通り体を削ってまで、痛い思いやリスクを背負ってまで骨髄液をくれたんだ。そう思うと私は1人で戦っているんじゃない、応援してくれている人がいるんだと本当に温かい気持ちになったんですよ。それだけでも患者にとって光になったのです」

涙がほおを伝った。

ドナーの私がいただいたものは

あれから13年余り。

いまでも時々、腰の骨を触りながら思う。

あの人は今どうしているのだろう・・・。

私はその後も取材者として様々な現場で様々な人から話を聞き、情報として発信している。いつもつきまとうのは、「情報で人を救いたい」としながらも「実際に直接的に人を救っているわけではない」という思い。テレビからの綺麗事は、言葉でいくらでも言える。

でもドナーになったことを思い出すと勇気が出てくる。結果はどうなったかわからないけれど、自分は直接的に人の命を救おうとしたことがあるんだと。


そう、私は骨髄ドナーになって、逆に人生に自信と勇気をもらっていたのだ。


日本骨髄バンクホームページ  https://www.jmdp.or.jp/

ドナーのためのハンドブック(旧骨髄提供者となられる方へのご説明書)
https://www.jmdp.or.jp/documents/file/02_donation/donorhandbook201905.pdf


いいなと思ったら応援しよう!