
まずやってみる、祈ってみる
まずは受け入れて、素直に試してみる。評価や判断はそれから。これは私のモットー。三十路を超えた頃、本屋で雑穀料理のレシピ本を手にしてから、食と健康への興味を増し、マクロビオティックを習い、ベジタリアンになり、ヨガを始めた。その後、瞑想グループに属してみたり、レイキヒーリングを習ったり、スピリチュアル系の本を読んではワークを実践したり。それらは、10段階でいえば4ぐらいの熱心さにクールダウンしたものもあれば、完全に離れたものもある。栄枯盛衰は世の習い、それもよしと思っている。そして現在、10に近い熱さで取り組んでいるのが、「神の探究」を読み、日常生活で練習していくこと。「神の探究」は、20世紀最高の霊覚者の一人であるといわれるエドガー・ケイシーが、霊的成長に関する高次の存在から受け取った情報(リーディング)を編んだ本で、霊性を高め、人生そのものを霊化していくためのテキストとされている。ちなみに、「霊」という漢字には、神秘的な力、善いこと、幸福、慈愛という意味がある。お化けや幽霊を連想して、人生そのものを霊化などと聞くとゾクッとしてしまうかもしれないが、そうではなく、本質に気がつき、人として魂を磨き、悟りの境地へ歩む人生という文脈である。
「神の探究」の冒頭に、聖書からの引用で「主の祈り」が載っている。私は、キリスト教徒として育ったわけではなく、聖書に馴染みもほとんどなかったのだが、私淑する日本エドガーケイシーセンター会長の光田さんが薦めるのだ、唱えてみない理由はない。まずは受け入れて、やってみる!
ところが、すぐに問題にぶつかった。言葉が頭に入らない!難しすぎる。「天にまします我らの父よ、願わくは御名の崇められんことを。御国の来たらんことを。御意の天のごとく、地にも行われんことを・・(中略)・・御国と御力と栄光は、永久に汝のものなればなり」 私は気がついた。日本語ゆえに難しいのだと。言葉には、付随する概念がある。イヌと聞けば、あの動物を思い浮かべる。父と言われれば、自分の父親を思い浮かべてしまう。崇めると言うと、ひれ伏して額を地面にこすりつけているイメージだ。言葉は、すばらしい情報伝達のツールであるけれども、同時に、伝えたいことを制限する足枷ともなる。これまで日本語を母国語とする者として生きてきた時間が長いので、どうしても言葉一つひとつに、自分の中で限定されたイメージが付きまとってしまう。「主の祈り」は素直に腹落ちしなかった。そこで、英語バージョンで唱えてしてみようかと思いついた。英語の単語にしても、意味は言葉として頭に入ってくるには違いないのだが、日本語よりも、概念がしみ込んでいない分、曖昧で柔軟性のあるように感じる。その分、余計なイメージを付けずに、スッと心に沁み込むように思った。
「主の祈り」を唱えることで、自分の内側から浄化され、それが瞑想の土台となるのだと理解している。なぜなら、リーディングには、「わたし達は祈りにおいて自己の浄化を求めます。真実の瞑想を得るには、神との親しき交わりにかなう自分になれるよう、身心を浄化しなければなりません」と書いてあり、神を知るために、「わたし達は祈りという準備をし、しかる後に静かに耳を澄ませ、じっと待つという姿勢が必要となります」とあるからだ。「主の祈り」が、本の最初に堂々と載っているのは、基本の基、土台だからに違いない。
ケイシーによると「主の祈り」の中の言葉は、わたし達の肉体の中の霊的中枢に対応するのだという。霊的中枢とは、肉体における霊的エネルギーの出入り口、チャクラとほぼ同義語と言えると思う。言霊(ことだま)といわれるように、言葉には力がある。個々の単語には、それぞれの周波数があるといってもいい。「天 (Heaven)」「栄光 (glory)」という言葉は、最上位の中枢である脳下垂体、つまり第7チャクラに対応する。「御名 (name)」「御力 (power)」は第6チャクラ、「糧 (bread) 」は第1、といった具合だ。各々のチャクラの持つ周波数と同じ周波数をもつ言葉は、共鳴するということなのだろう。
次回は、祈りとチャクラについて書こうと思う。