生い立ち・・鹿児島の人になる
兵庫県尼崎に生まれで小6の夏休みの3日前の体育館で林間学校の学年での
説明会の最中に波瀾万丈の第一幕が。
突然、250人以上いた生徒の中で私の名前が放送された。
私はクラスでも全く目立たない存在だけど、なぜかその1ヶ月くらい前から
なんかいじられキャラ確立して「オバアチャン」って呼ばれたり、それでも
両サイドに手をつないで階段は、私が小さすぎていつも、ぶらぶら空中に浮かんで1階か3階の教室まで連れて行ってもらえる楽しい日々がやっと私にきていた矢先のことだった。
ただ、両親が狭い木造風呂なしアパートで深夜何度も父母らが大喧嘩して泣いてるのも6年生にもなれば知っていたから、ああ、もうここには住んでいられなくなったんだ。と子どもながらに感じたことでした。
その後、教室に帰ると、最近仲良くしてくれていたクラスで人気者の女子たちに取り囲まれたので、私はすかさず「もう転校することになるかも。
みんなともう会えなくなる」とその場で伝えた。
体育館での呼び出しは、鹿児島に住んでいる父方の母親。私の祖母が
末期癌だったから、もうダメだったというものだったからだ。
友達は、数名泣き出して、持っているものや身に付けているヘアーピンを
私にくれて、いやや。って泣いてくれた。
その時の私のこの発言が自分の首を絞め続けることになるとは、まだ、その時は、そんなことなんか、想像だにしてなかった。
その日の夜遅くには、長旅の末、鹿児島の最南端にある父の実家の当時は
自宅葬がメインだったので、変わり果てた姿の祖父母宅の地獄の日々の第2幕になりますが、その地獄の日々だとの認識は、その後、数年間、寝たら
その時のクラスの女子たちやクラスの担任の先生たちがありえないのに
田舎の鹿児島の小さな小さな一クラスしかない小学校に転校してくれる夢に
うなされることになるとは。。。
本当にそれ以来、一度も彼女たちと会えないでいる今でもあります。
今生の別れって、そういうことなんですね。
続きはまた、