わかっていなかった私
前に、こんな記事を書きました。
画家 ゆめのさんの自己紹介連作エッセイを読みまして、
あまりに激動の人生を歩んできていらしたことに衝撃を受け、興奮のままに紹介させていただいたのです。
この「自己紹介」は、「小学生」からゆめのさんの歩みをまとめたものになっていて、「20代後半①」まで書かれています。
「20代後半①」は、画家としてのキャリアをスタートさせたゆめのさんでしたが一向に作品が売れるようにならず苦悩しているというところで終わっているのです。
続きがとても気になった私は安易に早く続きを読みたいというように書いてしまったのですが、なんて浅はかだったんだと今反省しています。
私はnoteを始めて1ヶ月になりましたが、投稿した記事は6本。
そう、そんなぽんぽんと書くことはできないのです。
仕事をして私の担当になっている実家の家事をして、さらにnoteを書くということはなかなかできないとわかってきました。
お仕事されている方、家の事をされている方でも毎日のように更新されている方がたくさんいらして本当にすごい。
ゆめのさんだって絵を描いて、お家のこともされていると記事やコメントでわかりました。
そうそうnoteに時間をかけていられるわけではないですよね。
まったく自分のことを棚に上げて…です。
ゆめのさん、急かしてごめんなさい。
なので、ここからはひとりごとと妄想です(笑)
ゆめのさんの歴史は劇的でその時々にドラマチックな展開があって、おこがましくも私がnoteを始めたその日にゆめのさんを知ったこともドラマじゃんと思ったりしたんです。
その日に私をゆめのさんへ導いたのはまつおさんだったから、まつおさんのnoteも少しずつ覗いてみようとするものの気が遠くなるほどの記事数で!
一度おすすめ記事をお伺いしてみたことがあるのですが、まつおさんはなんと記憶障害によって過去に書いてきたnoteの内容を鮮明に覚えていらっしゃらないのです…。
なんとなく眺めていると、私得っぽいマガジンを見つけました。
そして、この記事。
衝撃でした。
まつおさんのプロフィールに、さらっとは書いてあったけれど。
それまでの平穏で幸せな時間があって、愛する方々との「死別」という別れがあって。
大袈裟かもしれませんが、まつおさんがそのまま幸せに過ごされていたならば絶対にゆめのさんと出会うことはなかったと思いました。
もし、幸せの時間が別のタイミングで終わっていたとしても。
そしてそのどちらでもまつおさんはnoteを始めなかったと思いますし、つまりゆめのさんもnoteを書くことはなかったんじゃないかなと思います。
ということは、私がゆめのさんを知ることはなかった。
私だけじゃなくて、ゆめのさんのnoteをフォローしている200人近い方々もきっと。
ゆめのさんは去年、苦悩の末に作品の販売価格を「格安」から「適正価格」に引き上げました。
本当に本当に長く悩んできたんだなと思いましたが、この決断へ至った背景にはまつおさんの後押しもあったんですね。
いろいろ読ませていただいていると、ゆめのさんが「自己紹介」の続きをまとめる作業はやっぱり大変なんだなと思うのです。
おそらくこれまで書かれていた続きで、ゆめのさんはまつおさんと出会う。
その出会いもそうですし、その後の展開もまたとてもドラマチックで。
「自己紹介」としてはこれまでの内容からいくと、「画家としてのあゆみ」が本筋になると思う。
でもゆめのさんの活動にまつおさんの存在は抜きにして語ることができないものになっているから、出会いやその後のことも盛り込まないといけない。
自己紹介なのに、まつおさんの紹介をする「他己紹介」になってしまう?
でもな、ゆめのさんがまつおさんとの出会いに感じたことや、もたらされた変化や影響なんかも知りたい気持ちは正直あります。
なので「自己紹介」の中ではあくまで作家活動の軌跡をこれまでと同じように淡々と綴って、まつおさんのエピソードは番外編的に独立したエッセイとして書くというのはいかがなものでしょうか?
どんなものかしら。
徹夜しそうな勢いでこのようなことを考えている私でした…。
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