さよなら、2月。猫の日も、写真とかアップする気にならなかった私の、この強固な「現実」よ。
中村文則作品と共に、私の《2月》が過ぎていく。今この「毎日」に、『物語』があることの……救い。この冬も、しみじみと感じてる(本当に……彼のような人が命がけで書いてくれなくなったら、私はもう何を読んで生きていったらいいか。そのくらい、「どんなに泣こうが喚こうが、そして祈ろうが、誰も助けてはくれない。神様なんていない」ということを、体感として?知ってしまっている人間に“届く”ような物語を書ける人は、ほとんどいない……と私はますます感じ続けてる)。
そして現実は、「節分→立春」を過ぎたというのに、相変わらず “ちっとも”、変化の兆しすら見せようとはしない(つまり「引っ越し先」が、見つからないままだということ。私はもうずっと、この“動かぬ現実”が、理解できない。私の人生における「その意味」を、納得できずにいる。「どうして?」と思い続けてる)。←なんか日本語変なところ多々だけど(気持ち的にしっくりくる言い方で、書く)。
本当に、「東日本大震災」から10年経ったんだよね?
なのにどうして私は今もこの、あのときと同じマンションの一階で、「引っ越したい、引っ越したい」と言っているのだろう? 引っ越し先の賃貸物件を、探し続けているのだろう? なのに見つからないままなのだろう? ……理解できない。
それでも“わかっていること”があるとすれば、“「妥協しない人生」を生きることにした”ということか?
「妥協しない人生」を生きることにしてからというもの、本当に、そしてますます、私の人生から「中途半端なもの」がなくなった。“今の自分にとっての「1番」”を求めるから、「2番」や「3番」が、驚くほど来なくなった。そして「1番」を手にすることはとてもとても難しいから? 結果、“何も、来ない”という状況が続く。現実が、変わらない。時間ばかりが過ぎていく。例えば私の肉体は、どんどんどんどん衰えていく。そうじゃなくても、「人生は短いんだよ!!!」と言い続けながら、生きてきた&生きているというのに。
なんなのだろう……
地球は重くて遅くて、命は短くて、
叶うまで、生きられるのかな? 間に合うのかな??
死んでから叶うとか、心の底から興味ない。
全部、生きてるうちに味わいたいし、私はもっと「その先」を、体験したいんだ!!!
「頼むよー、神様」
と言う自分に、
「神様なんて、いないから(知ってるでしょう?/知ってるくせに)」
と返す日々。
そうなんだ。“だから”、なのだ…………が。
またこうやって、《2月》が終わってく(そうだ、まだまだここは「冥王星×山羊座時代」の中なんだ!とか、まじでどうでもいい。まじで勘弁してほしい)。
暗くて、寒くて、不機嫌で。
ほんと、ばかみたい……な私を愛せるのも、きっと救い出せるのも、「私だけ」ってことくらいは、いい加減、身に染みてはいるつもり……なんだけどな。あーぁ。