【短編小説】さんぽ #シロクマ文芸部
金色に染められた葉が、少しひんやりとする秋の風に吹かれて揺れていた。
並木の間から光が差し始めると、落ち葉に乗った朝露が光を含んで輝きを増し、濡れた葉が匂い立つ。
美月は胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込み、落ち葉の香りを全身に染み込ませるように少し呼吸を止めてから、ゆっくりと大きく息をついた。
「やっぱりそうだ!璃玖の匂いがする!!」
そう言うと幸せそうな笑みを浮かべて、彼女は璃玖の方に振り返った。
『確かめたいことがあるの』と、近所の公園に朝早くから連れ出されたのだが、どうやら匂いを確認するためだったらしい。
璃玖は、複雑な表情を浮かべながら片眉を上げた。
「って、お前…これ…銀杏じゃねぇか…。」
「あっ、実の方じゃないよ!」
美月は急いで否定すると、ありえないといった風に頭を振った。そして、お腹を抱えて「くくく」と苦しそうな笑い声を立てて、満面の笑顔を見せた。璃玖はそれを見て安心したように小さく息をついた。
「驚かすなよ…実と同じ匂いって言われたら、さすがにショックだな…」
美月は「ごめんっ」と言って申し訳なさそうに眉根を寄せた。しかし、銀杏の匂いの璃玖を想像して、再び笑いが込み上げ、少しの間苦しそうに「ククク」ともう一度笑い声を立てた。
すっかりいつもの様子に戻っている美月を見て、璃玖はほっとしていた。昨日の仕事を引きずっていないか心配していたが、杞憂だったようだ。
ひとしきり笑い、少し落ち着きを取り戻すと、美月は手を組んで一つ大きく伸びをした。それからもう一度ゆっくりと大きく呼吸した。
「わたし、イチョウの落ち葉の匂い、子供の頃から一番好きなんだ。」
「ふーん…」
「特に、朝とか、雨上がりとか、いい香りなんだよ。そう思わない?」
「考えたことなかったな…」
時折吹く強めの風に、数枚の葉がひらりと枝を離れては宙を舞う。光を受けて煌めきながら散る葉を瞳に映し、美月は目を細めた。
金色の光の中に空を見上げて佇む彼女の後ろ姿を満足そうに見つめた後、璃玖も空に顔を向けた。
視界に広がる青、白、金色の色彩が織りなすその光景は、しばらく言葉を失うほど見事で、璃玖にとっては新鮮な光景だった。『地上からしか見えない景色…か。』彼は心の中で呟いた。
「ね?たまには地に足をつけて空を見上げるのもいいもんでしょ?」
心の声を見透かしたような美月の言葉に、璃玖はすぐに返す言葉が見つからず、少し間をあけてから「そうだな。」と一言返した。
しかし、彼女の言葉を頭の中で反芻して、ふと我に帰った。
「地に足をつけてって…俺が現実見えてないみたいに聞こえねぇか?」
「そう?」と一言だけ言って彼女は「ふふふ」と意味ありげな含み笑いをした。二人の間を優しい風が吹き抜けた。「あ、これ綺麗。」と言って彼女はしゃがむと落ち葉を一枚手に取った。
黄金色の朝日が銀杏並木の隅々まで光で満たすと、彼女の姿は煌めきに縁取られ、更に輝きを増したように璃玖には見えた。彼女が眩しく、美しく見えるのは、限りある時を生きるからなのだろうか。
『人間と天狗では時の流れ方が違う。』
死神の白蓮の忠告が頭に響く。その言葉がよぎるたび、『わかってる。』と頭の中で言い返す。が、恐らく、分かりたくない自分がいることも璃玖は自覚していた。
この一瞬が永遠に続けばいい。ありきたりの、叶わない願いが頭に浮かぶ。人間に対して持つ初めての感情との付き合い方に戸惑いながら、彼は無理な願いを繰り返すことしかできない自分を、無力に感じるのだった。
『面倒臭ぇ感情だな…』
今までなら、面倒だと思えば近寄らず、深入りする前に手放していた。
しかし、どういうわけか、今回はそれができなかった。美月を手放したくなかった。他の誰かになど、絶対に渡したくなかった。
ただ、一つ確実なことは、このまま一緒にいるならば、二人の未来には避けて通ることができない難題が横たわるはずだ。
それが頭を掠めるたびに、例えようのない不安に襲われる。彼女には絶対に知られたくない弱い自分が現れる。『どうしたら…』考えても答えが出るわけでもなかった。
突然、イチョウの葉で作られたブーケが璃玖の視界に飛び込んできた。
「ほら、これ、去年誰かがやっているの見て、やりたいなーって思ってたの!一年越しの願いが叶った!!」
美月は些細な出来事でも楽しみ、小さな願いを大切にして、それが叶う度に満足そうに微笑む。彼女の笑顔はまるで『幸せってきっと、こういうことだよね』と語っているかのようだった。璃玖は美月を、その優しい瞳に映して微笑んだ。
不安を解消する糸口が見つかったわけではない。だが、しばらくはこれで対処はできそうだ。『そう…美月のように、一瞬一瞬を大切にすればいい。』
「綺麗だな。」
璃玖の言葉に、嬉しそうに頷く美月からブーケを受け取って、彼はそれを鼻に近づけて二回ほど匂いを確かめるように吸いこんでみた。
「俺、こんな匂いする?」
「するよ。いい匂いでしょ?」
「そっかなぁ…」
「ああ、自分の匂いってわかりづらいって言うよね。」
「なんか、ちょいちょい気になること言ってくるよな。」
「え?」
「それって、加齢臭的なものを表現するときに言わねぇか?」
璃玖の言葉に、「確かに…ごめん」と言って、美月は申し訳なさそうな笑みを浮かべた。
「でも、璃玖のはいい匂いだよ。」
「お前、今、適当に済ませただろ…」
「そんなことないよ。」
美月は目を細めて人懐こい笑みを浮かべた。そしてすぐ、何か閃いたように、細めていた目を丸くして、少し真剣な眼差しになった。
「そうだ、うちに帰ったら、ブーケに霧吹きで水かけてみよう。そしたら絶対、いい匂いするから。」
「お前、ほんと変わってるなぁ。」
璃玖は『参った』といった風に苦笑いをした。自分の匂いについて色々言われるのも照れ臭かった。しかし、何故か美月のおかげで心が軽くなるのを感じていた。
『二人で一緒にいられる今だけを見ていよう…そうしたらいつの日か…答えが見つかるかもしれない…』
静かな風が二人を優しく撫でていた。璃玖は風に心を委ねて目を閉じ、大きく深呼吸をするとゆっくりと目を開けた。心のざわめきはいつしか、優しい秋風に溶けていったようだった。
美月が璃玖の横につくと、二人は歩調を合わせて歩き出した。優しい木漏れ日がキラキラと降り注ぐ金色の並木の中、かすかに擦れる葉の音を聴きながら、二人は穏やかな朝のひと時を過ごすのだった。
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最後までお読みいただきありがとうございました。
シロクマ文芸部さんの「金色に」の企画に参加させていただきました。
お題をいただけたことで、書きたかった内容を本編を飛ばして書けるきっかけとなりました。素敵な企画をありがとうございました。