体でおぼえる
親しくしていた人との関係がこじれてしまって、仲直りできるとしてもまだ時間がかかりそうだと、友だちがちょっとしょんぼりしながら話してくれた。
わかるよ、私もそういう経験があるから!
と、返そうと思ったのだけど、とっさに出てきたのはちがう言葉だった。
クラニオの施術中、体に手をふれている時、変化したり動き出しそうなのを感じるけれど、今はまだ起こっていなくて、だから、ただ聴き続ける。待つでもなく、促そうとするでもなく、ただ聴いてスペースをホールドし続ける。
そういう時って、あるじゃない。
それを思い出したよ。
自分自身もクラニオのプラクティショナーの友だちは、すぐにピンときたみたいで、「ああ、ほんとうにそうだね」と言った。
もしかしたらその時、彼女が経験していたみたいに、何かがずれているのを感じる時、起こっていることに対して力を入れすぎたり、どうにかしようとしたり、ぎゅっと握りしめてしまっているのを感じる時、クラニオするみたいに生きていられたらいいな、と、いつも思う。
期待や思いこみを手放して、必要な時には必要なことができるようにひらかれた状態で、起こっていることとただともにいる。
それはテクニックではなくてあり方だから、施術の時だけスイッチをオンにするなんてこともできない。
ふれる手に、話を聴く時の姿勢に、表情に、たたずまいに、自分がどうあるかはどうしたって出てしまうから、施術をしていてもいなくても、毎日、どこかで練習し続けていくしかない。
それでも実際に施術をしている時はそこだけに集中できる分、その状態に入りやすいのもほんとうだ。
何のジャッジメントもなく、起こりたいことが起こることがゆるされる。
そのスペースにとどまっていると、いつかは明晰さがおとずれる。
それは変化だったり、動きだったり、もしくは、変化しないことだったり、動かないことだったりする。
いつになるかも、どんな形かもわからない。
望んでいた形ではないかもしれない。(そのほうが多いかも)
もしかしたら、今は何も起こらない、という明晰さかもしれない。
どんなふうでも、これまで見えていなかった景色がぱっと見えてくる時がかならずくる。
そして、そこまできたら、ああ、そうなんだね、と、私たちは納得する。
その明晰さの感覚を体で感じられる(かもしれない)のが、クラニオの素敵なところなのかもと思う。
施術を受ける側だけでなく、施術者にとっても。
そして、クラニオでなくたっていい。他のボディーワークでも、セラピーでも、瞑想でも、歌ったり踊ったりすることでも、何でもいい。明晰さの感覚を体で感じる体験をすればするほど、日常の中でも、すっとそこにもどっていきやすくなるのだと思う。
長いブランクがあっても、自転車の乗り方は忘れないみたいに。
生涯、板前だったおじいさんが、ボケてしまってもお寿司の握り方は忘れないみたいに。
体でおぼえたことは、深く、長く残るから、人生においておきたい感覚を体にしみこませていけたらいい。