vol.7「主体性」を考える。
「刺激と反応の間には選択の自由がある」
スティーブン・R・コヴィーの『7つの習慣』で、この言葉に出会った。
この言葉で最近自分のものの捉え方と感じ方が変わった。いい方向に変わった。
コヴィーによれば、これは人間の本質を支える基本的な原則である。
つまり、
何が起きても(刺激)、それが自分に与える影響(反応)を自分自身の中で選択することができる。
ということだ。
今回は、「主体性」とは何なのか、「刺激と反応の間には選択の自由がある」という言葉をキーに、深堀りしたい。
「刺激」とは、自分の身に起こる・起こったこと。「反応」とは、「刺激」を受けたことによる感情や行動のことである。
「選択の自由」の中には、人間が授かり、人間を人間たらしめる4つの能力があるとコヴィーは言う。
4つの能力とは、
「自覚」:自分自身を客観的に見つめる能力。
「想像」:現実を超えた状況を頭の中に生み出す能力。
「良心」:心の奥底で善悪を区別し、自分の行動を導く原則を意識し、自分の考えと行動がその原則と一致しているかどうかを判断する能力。
「意志」:他のさまざまな影響に縛れずに、自覚に基づいて行動する能力。
である。
主体性とは、刺激と反応の間にある選択を4つの能力を使い選択することを指す。
コヴィーは、「衝動(反応)を抑え、価値観に従って行動する能力こそが主体的な人間の本質である」という。
主体的な人の反対は、反応的な人。
反応的な人は、刺激にによって影響を受ける。環境や条件に左右されやすい。
主体的な人も環境や条件に影響を受けないわけではないが、価値観に基づいた反応を意識的または無意識にできる。
コヴィーから言わせてみれば、
私たちは自分の身に起こったことで傷つくのではない。その出来事に対する自分の反応によって傷つくのである。
最近観た映画を例に挙げよう。(ネタバレ注意)
『ショーシャンクの空に』(1994年)
この映画の主人公は、無罪を主張したにも関わらず刑務所に収容されることになった。
最初は絶望しているのかと思いきや、仲間を作り、警察官を巻き込み、最後には脱獄を成し遂げる。
無罪にも関わらず刑務所に連れていかれるという「刺激」が起きた場合、大抵の人は諦めたり、悲しんだり、怒りを感じたり、「感情」という「反応」を示すだろう。この映画にも、刑務所での生活に対して、過剰な「反応」を見せ、行動を起こす者もいた。その末は、無惨なものであった。
主人公と他の登場人物との違いは、刑務所の生活を主体的に生きていたかどうかであると私は考察する。
主体的に生きていたかどうかというのは、刺激に対する感情や行動を自ら選択しようとしていた、または選択していたということである。
「冤罪なのにどうして自分はここにいなければいけないのか」と思い続けるのではなく、「この生活を変えたい」という反応を選び、行動を起こしていた。その反応を選ぶ中で4つ能力を駆使していた。
「自覚」:自分が今置かれている状況を見極める。自分の強みや能力を知る。時間の把握。
「想像」:脱獄後の自分の姿。
「良心」:刑務所での自分の行動が、脱獄という目標と一致しているどうかを見極め、人間関係を構築する。
「意志」:刑務所でのルールや人間関係に縛られず、自分の強みや能力を活かして行動する。
主体性の原則から見ると、「自由になる」という目標のために、刑務所での生活における「時間」「人脈」「知性」全てを味方につけ脱獄するプロットは、必然であったと感じた。
自分の身近な生活に例えることもできる。
仕事で日々降りかかる、タスクという名の「刺激」。
これに対して自分は「反応」を選択できているだろうか。
めんどくさい仕事を頼まれたときに、「めんどくさいな、やりたくないな」という「反応」をとるか、「どうやったら効率よく終わるか考えながらやろう」という「反応」をとるか。どちらを取るか、人間には選択する権利がある。原則がある。それを自覚しているかどうかで、その後の行動が変わる。
自分に降りかかる様々な「刺激」に対する「反応」を自ら選択する姿を、人々は俗に「賢い」というのだろう。
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