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時間切れ!倫理 172 大陸合理論 デカルト

 デカルト(1596生)はフランスの哲学者。近代西洋哲学の祖といわれる。主著は『方法序説』。ベーコンはイギリス人なので、彼の考えはイギリス経験論といいました。デカルトはフランス人で、フランスはヨーロッパ大陸なので、彼の考えを大陸合理論ともいいます。
 デカルトは、経験論とは全く別の考え方をします。はたして経験や事実から法則を導き出せるだろうか、というのがデカルトの出発点です。ベーコンは「様々なイドラがあるよ、だから気をつけなさい」といったけれども、だからといって経験を感じ取る感覚を信じていいのか、というのがデカルトの立場。
 例えば、ここに机が見えているけれども、それは勘違いで、本当は机などがなくて、例えば悪魔に騙されて机があると思っているだけかもしれない。3足す4は7だと思っているけれども、これも間違いを正しいと思い込まされているだけかもしれない。彼は見えているもの、聞こえているもの、触るもの、自分の考えすら、全てを徹底的に疑います。疑って疑って疑いまくる。
 これを方法的懐疑といいます。確実な原理を求めるため、すべてを疑う。感覚も知識も経験も疑う。何も信じられませんね、というのが彼の最初の出発点です。ただ、ありとあらゆるものを疑ってみても、疑っている自分の精神だけは、確かに存在している。
 これを「コギト=エルゴ=スム」という。有名なラテン語なので、そのまま覚えてください。日本語に訳すと「われ思う、ゆえにわれあり」。疑う自分の存在は確実だ、ということです。「コギト=エルゴ=スム」は長ったらしいので、略して「コギト」ということも多い。哲学の本を読んでいると「デカルトのコギトは云々」と表現することもよくあります。
 で、 どうなるかというと、全てを疑ってみても、自分が存在することだけは疑えない。これは確かに真実だ。そこで、デカルトは「自分は存在する」、というところから出発して、そこから様々な論理を展開していきます。こういう方法を演繹法といいます。
 演繹法とは、哲学の第一原理(コギト)から出発し、良識・理性によって論証を行う方法。経験論との対比でわかると思いますが、こちらの演繹法は数学の発想方法です。絶対正しい定理から出発して、様々な公式を導き出す方法です。近代科学には、数学もサイエンスも重要で、どちらの方法が正しいということではない。両方の方法が使われています。ただし哲学的にはデカルトの演繹法が有名。

 デカルトの考えから、こんな問題が出てきます。自分の精神は必ず存在している、それはいいでしょう。デカルトは、ここから出発して様々な論理が導き出せるといいます。ちょっと待ってよ、という話です。デカルトは最初、すべてのことを疑いました。3+4=7を正しいと思っているが、これも悪魔の入れ知恵で、そう思い込んでいるだけかもしれないといっていました。だから、自分の精神の存在しか正しいものはない、といったはずでした。
 ならば、コギトからさまざまな結論を導き出す思考が、なぜ正しいといえるのか、ということになります。この点に関して、デカルトは、こう主張します。
 デカルトは、人間の精神には、ただしい推論を行う良識や理性が備わっていると、突然いいだすのです。デカルトは、良識は万人に平等に与えられた能力と考えていました。なぜ備わっているのか。ここから先は、ややこしいので忘れてもいいですが、デカルトはコギトの話の次に、神の存在証明を行います。
 どんなふうに証明するか。人間は不完全で有限な存在だとデカルトはいう。ところが神は完全で無限な存在です。なぜ不完全で有限な人間の心の中に、完全で無限な神の観念が入っているのか? 神の観念が自分の精神に入っているということは、神は存在しているのだ。存在している神が、自分の精神の中に神の概念を埋め込んでいるのだ。そして神は正しいものに違いないから、神が埋め込んだ良識や理性も信じてもいいのだ、という論理を組み立てる。人間の良識や理性は信じてもいいので、コギトから出発する論理は正しいのだと。
 デカルトの言葉です「神は善き存在であるから決して人間を「欺くことはない」。それ故われわれは人間の認識装置を信じて良い。」(「省察」)
 東洋人の僕らから見ると、この神の存在証明は全然話にならない。キリスト教の神をはじめから信じていない私にとって、「神は完全で無限な存在」と一方的に宣言されてた段階で、デカルトの証明に、ついていく気力はなくなります。そもそも神の存在を証明するなど不可能ではないですか?この点は、のちにカントが神の存在証明の不可能性を証明することになります。が、それはあとのお話。
 それはさておき、デカルトは神の存在を証明した上で、良識や理性に従って組み立てる論理は正しい、として議論を展開していきます。近世ヨーロッパ人の発想なので、そういうものかな、と思ってくれたらいいと思います。それ以上突っ込むと、ちゃぶ台返しになりますから。これが合理論、デカルトの考え方です。

 ところが、ここに後に問題となる部分が潜んでいました。デカルトは、疑って疑って、自分の精神だけは確かに存在すると考えた。彼が問題にしているのは、自分の精神だけです。肉体のことは置き去りです。それから自分の外側、外部世界にあるものも置き去りです。彼にとって、自分の肉体も、自分の外部なのです。こういうモノの世界、外部世界と自分の精神がどうつながっているのか。この説明がない。
 デカルトにおいては、この二つが完全に分かれてしまっています。これがデカルト哲学の特徴で、物心二元論といいます。
 思考する精神(自我)と、空間的広がり(延長)をもつ物体は共に実体だとデカルトは考える。実体とは、何者にも依拠せず存在するもの。神、精神、物体の3者が実体であると考える。神は横に置いておくとして、精神と物体が、全く無関係に存在している。物体を肉体と置き換えれば、物心二元論は、心身二元論と表現しても同じことです。
 ここから生ずるのが「主観・客観問題」。自分の精神・主観、自分の外側にある外部世界つまり客観、この両者の関係はどうなっているのか。主観と客観は一致するのか、主観の外に出て、客観的世界と一致することを証明できるのか? これが、デカルト以後の人々に残された問題となりました。
 デカルトは、主観の外にある世界に関して、機械論的自然観と呼ばれる考え方をしていました。当時、科学がどんどんと発展していって、色々なことが解明されている。そのような風潮の中で、デカルトは、自然というものは、時計と同じように機械仕掛けで動いている、という発想を持っていました。肉体も同じです。機械と同じように動く。(デカルトは解剖されている犬の鳴き声を聞いて、「単なる機械的な反応だ」と言った。つまり、痛みを感じているとは思っていなかったのです。今我々がロボットが痛みを感じないと考えるのと同じです。)
 これはアリストテレスの 目的論的自然観とは全く逆の発想です。アリストテレスは、自然は可能態から実現態へ変化するととらえていた。デカルトは、単なる機械仕掛けの自然です。

 用語の説明をしておきます。「高邁の精神」はデカルトの言葉です。身体から発する情念(愛、欲望、驚きなど)を統制する理性的な、自由な精神を、デカルトは「高邁の精神」と呼びました。それだけの話。これはどちらかというと入試タームです。「高邁の精神」と出てくればデカルトと覚えておけば良い。

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