圧倒的に負けろ
自分が絵画と向き合う心構えのひとつとして「圧倒的に負けろ」というのがある。誰しも分かりやすく、良い絵を描くぞという意気込みがあると思うのだけど、それだと実際キャンバスと向き合った時に何かが決定的に欠けている気がする。自分の実感としてそういうのがある。芸術をやる為に、「負け」というある種の「悪さ」が自分に必要なんだろう。そしてその悪さに自覚的でなければいけない。無自覚に負けたり悪さを発揮しても良いことがない。(自分の作品に対して責任を持てないという意味で)
作品として「圧倒的に勝つ」とか「負けなければ良い」とかはイメージしやすいと思うけれども、今の時代においてそのテンションでモノを作ってしまうと何か大きく空回りする印象がある。端的に言って虚しいのだ。
私は単純に何かに勝っても、その地点でずっと喜びを感じていられるような性格ではないと思う。自分が芸術と呼べるものの中には「負け」としか言いようのない概念が存在していて、それが作品の中で圧倒的に発揮されている時こそ救われる。自分が作る側の時も、観る側の時も、圧倒的負けが欲しい。
絵画制作においては、自分の描くテーマやモチーフに対してどれだけのめり込み、描きたい対象(現実)に対してどれだけ圧倒的に打ちのめされるかどうかが大切と思っている。これ以上表現するのは無理だ、これ以上はモチーフに敵わないという敗北を作者である自分自身が体験しつつ、現状の落とし所として自分の美意識でもって昇華すること。作品制作はそのようなものでありたいし、それは本当に難しいことだが、決して手放してはならない心構えだ。
自ら選択する圧倒的負けは強さがないと出来ないことだ。人はすぐに安易に勝ちたがる。勝ちの方程式がある程度分かっている世界(社会)の中では、逆に負けの哲学を豊かにすることで開かれる道があるんじゃないかと思う。芸術的な意味で圧倒的をやるには負けの美学が必要で、しかし長期的に見ればそれは勝ちにひっくり返ることも知っているが、どうせその勝ちから更なる負けをやるのがなんか自分なんだろうな…と思っている。そのタイミングが来るまで辛抱強く待ち続け、粘り強さと潔い判断の繰り返しの日々が自分にはある。自分が負けと勝ちを繰り返すのは、言い換えれば謙虚さと傲慢さを存分にやることなんだろう。いつもヒリヒリしている。
自分の直感が死んでなければまだ芸術をやれる。時々は思いつきで、ここに抽象的なメモを残す。