「考えすぎ」って苦しいや|でも、そこに逃げてしまう
【考えすぎる自身】
また、やってしまった。「ゼミ寝坊」
そして、その言い訳を軽く考えていたら、人生の方向性と目的の必要性について考えが飛躍していました。
「言い訳」→「グループメンバーはどう思う?」→「人間の感情って?」→「感情ってなんのためにあるんかな、目的がある(アドラー)?」→「じゃあ、人生に目的はある?」
こんな感じに考えが一人歩きを開始してました。もう僕には止められません。脳内電気信号が暴走してそのまま感電しそうな感覚。
こんな感じなので、自身を考えすぎだと思っています。また、よく言われます。
【辛く、暗い。だから快楽を】
同じような方がいたら、「考えすぎの辛さ」っていうのがわかってもらえるのかな。
考えすぎるとき、私は「人間関係、感情、そしてその中の自分の位置」について考え耽ってしまいます。そして、考えすぎて辛い人って、そういう人間について考えることが多いような気もします。
モノ、コトについて考え耽る時、を求める時って複雑だけど、「解決策」を求めていくわけだから、ゴールに近いものがある。
だけど、人間について考えるとなると、方向がなく、答えがなく、理解できないことから、人間恐怖に陥ってしまう。
しかもそんな恐怖が、突発的に頭に浮かんでしまう。もう生き地獄じゃん。
自分に論理力がなく、人の気持ちを汲み取れない稚拙さがあるのもわかっている。ならば、考え込むのやめるのが正当なんじゃないかと思われるんですが。そんな辛い時間を過ごすんだったら、引き上げて趣味でもしなさいよって思う。
でも、やめることができない。突発的なのもある。それに加えて、自分では理解できないけど、「心のどこか奥深く」でそれを求めてる。のかな?
考え込んで、感じることは「辛い」に間違い無いんです。「しんどすぎいいい」ってなります。
だから、「心が求めている」なんてバカの言い分だと思ってます。しかし、心の奥深くの方では、善悪とか喜怒哀楽がなくて全て幸せなんです。(は?)
一つ例を挙げると、友人と大喧嘩をしました。それで、私は考え込んでしまいます。自分の非だったり原因を探り、ついには奥の心に到達します。そこでは、喧嘩をしたことだったり、自分の非だったり、それを抽出した人間観だったりの善悪、±の感情・考えがぜーーーんぶ「なんらかの刺激」になって深淵を揺さぶります。
でも、そこには善悪とか良し悪しがない。だから、心の深淵はそれを「なんらかの刺激」として受け取ります。じゃあどうなる?
深淵の心は、とりあえず全ての刺激を、暖かく受容します。そして、解釈なんて挟むことなく、その受容の時の暖かさを少し残して吐き出す。
その後に、まれにその暖かいものが、知覚可能な領域に現れる。
するとあら不思議といった感じのことが起こります。
喧嘩して考え耽って、悲しい事ばかり思い描いていたのに、深淵に一度投げ入れると、ほのかな暖かい感覚になって戻ってくるんです。
マイナスがプラスになって帰ってくる。
これが、考えすぎることをやめられない理由の1つでは?と思っています。
どうして、そんな気持ち悪い経過を経て喜びを得るのか?と言われると辛いものがあります。
人と感情を共有する能力が乏しいから。
共感してもらえますか?笑 自分の比喩及び論理力を恥じます。。
全く伝わってない気がひしひしとしております。笑
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