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月面ラジオ { 30: ルナ・エスケープ }
あらすじ:(1) 30代のおばさんが、宇宙飛行士になった初恋の人を追いかけて月までストーカーに行きます。(2) 月美は、新しい就職先の会社にやってきたはずなのに、なぜか月面都市の外の施設に連れてこられました。
◇
◇
廊下を抜けると、ドーム型の広い空間だった。
そこはとても静かなカフェテリアだった。
席は数百もあるというのに、誰もいない。
ドームの中央に円形のサービス・カウンターがあった。
中を覗いてもそこは空っぽだった。
コーヒーを淹れる店員の姿はなく、用済みの資材だけが残っていた。
ホコリよけの布をかけたエスプレッソ・マシン、金属容器だけのジェラート・ケース、赤いチョークで大きくバッテンの描いてあるメニューボードなどなど……
パニーニサンドの陳列棚には「注文後グリル致します」の札が転がっていた。
けれど肝心のグリルは撤去済みだ。
さながら廃墟のカフェテリアといったところか。
ただし廃墟を特集した写真集のそれとは明らかにちがう。
塵ひとつ漂ってはおらず、いたるところが清潔だった。
今しがた掃除を終えたホテルのように整理整頓されていて、比べれば、月美の住んでいたオンボロのアパートのほうがまだ廃墟に近い。
部屋の反対側は、一面のガラス窓だった。
窓の向こうは、暗い荒野が奥地まで続いていた。
月はいま長い夜のただ中で、外の様子はよくわからない。
次に日が差すのは、あと七日も後のことだそうな。
月の夜は地球よりもずっと長いんだと、粗茶二号がマグレブで教えてくれた。
「ここは?」
月美はたずねた。
「カフェテリア。」
ユエは答えた。
「つまり人が食事をしたり飲みものを飲んだりするところよ。」
「なるほど。勉強になるよ。」
「昔はもっといっぱい人がいたんだけどね。ここで仕事をしている人はもうほとんどいないわ。」
それからユエは声をはりあげた。
「ねぇ! だれかいないの? 」
なんの反応もなかった。
ドームに反響したあとに声は消え、空調の音だけが残った。
「本当にこんなところに人がいるのか?」
ユエの声が駆け巡ったであろう空っぽの空間を見つめながら月美は言った。
「アルジャーノンに連絡してみたらどうだ? 電脳秘書かなんかでさ。」
「連絡がとれないから!」
ユエは怒鳴って言い返した。
「ここまで! わざわざ出向いているの! わたしは!」
「ああ、わかったわかった。わかったからそんなに怒らないでくれよ。」
月美は怯えながら言った。
「音がきこえるよ。」
粗茶二号が言った。
「え?」
月美とユエは同時にふりむいた。
「あっちで音する。よく聞いてごらん。」
月美とユエは黙って粗茶の丸い手が指すほうを見た。
たしかに何か聞こえる。
「ジャー」という感じの音……
とても馴染みのある音だった。
カフェテリア奥の扉からだ。
扉には、万国共通「青と赤の男女が並ぶアレ」が掲げられていた。
「公衆トイレの記号はどこでも同じ」というのが、宇宙に来て最初に月美が発見したことだ。
「ジャー……トイレを流す音だね。」
粗茶二号は感慨深く言った。
ふたりが押し黙って見守っていると、間もなくしてトイレの扉が開いた。
「やれやれ。さわがしいね。ゆっくり用も足せないよ。」
トイレから女の人が出てきた。
青いシャツに白衣をまとった初老の白人だった。
「やかましいのがいると思ったら、とんだ珍客じゃないか。いったいなにしに来たんだ、ユエ? それから……」
白衣の女が月美に顔をむけた。
「隣りにいるのはよく見たら……月美じゃないか!」
その女の正体に気づき月美は驚天した。
「ホークショット教授! どうしてここに教授が?」
「久しぶりだな、月美。」
ホークショット教授はニッコリと笑い、シミひとつない大きな歯をむき出しにしてみせた。
「ようこそ、月面ラボへ! ここがあんたの夢見た世界の果てだよ。」
◇
ドローレス・ホークショーは、鼻の高い白人女性だ。
本名で呼ばれるのをなぜか嫌っていて、ホークショットあるいはホークショット教授と他人に呼ばせていた。
顔の表情が豊かで、笑うときも怒るときも(怒っていることの方が多いけど)歯がむき出しになり、それはとても白くて大きかった。
かつては見事な金髪だった。
いまは年齢を重ねて白髪が多くなり、あわせて銀髪のようだった。
青色のスラックスとシャツの上に研究所備えつけの白衣を着ている。
「どうしてここにと言われても……」
ホークショットが肩をすくめた。
「私は二年前から月で働いているんだ。ついでに言うと、お前さんをここに引きぬくよう社長に提案したのも私だ。」
「どういうこと?」
おどろいたユエは二人の顔を交互に見た。
「あなたたち知り合いなの?」
「私が大学で教えていた頃の学生だったんだ、こいつは。」
ホークショットは答えた。
「月美、あんたが来てくれて何よりだ。この場所のことを伝え忘れていた気もするが、カン違いだったみたいだな。」
月美とユエは顔を見合わせた。
それからホークショットはユエに向き直った。
「ユエ、あんたこそなんでここにいる?」
「迷子の案内。それとおたくの社長に用があるの。」
「アルジャーノンか? そういえば姿を見せないな。」
「ラボのどこかにいるんでしょ。探させてもらうわ。」
「好きにしな。」
「もちろんよ。」
そう言うと「許可なんて求めていないわ」とばかりに肩を怒らせながらユエは歩いていった。
ユエが施設の奥へ消えてしまうと、月美も声を荒だてた。
「私はルナスケープ社に雇われて月まで来たんですよ。なのになんでこんな所に連れてこられたんですか?」
「こんな所とは失礼だな。ここは由緒正しき月の研究所だ。」
「だったらなんで人がいないんですか?」
「ここが辺鄙なところでだれも寄りつかないんだ。事実、我々『ルナ・エスケープ』一社しかこの施設を借りていない。」
「エスケープ? ルナ・エスケープってなんですか?」
「うちの会社の名前だ。」
「私はルナスケープに呼ばれたはずです。」
「一文字いれ忘れた。」
「うそをつかないでください。」
「ばれたか。」
「わたしを騙したんですね?」
「あんたみたいに月に来たがってる人間を引き抜くいい手なんだ。ここは僻地だし誰も来たがらない。人手不足でいつも困っている。」
「訴えますよ。」
「好きにすればいい。裁判はもれなく地球で行われる。」
月美は唖然とした。
「選ぶんだな。」
ホークショットは続けた。
「ここで私にこき使われるか、地球にもどるか。判決までどれくらいかかるかわからないが、少なくとも裁判の間はずっと地べたに張りついたままだ。一度地上に降りたら月までの道のりは遠いぞ。」
ぐうの音も出ないとはこのことだった。
何も言い返せないでいると、ホークショットが一歩前に進み出た。
「契約成立のようだな。改めてよろしく、月美。歓迎する。」
ホークショットが手を差しのべた。
月美はためらいながらもその手を握った。
納得したから握手に応えたわけじゃなく、そうすることで何かしら心の平穏を取り戻せるような気がしたからだ。
「休みの日は月面都市まで戻れるんですよね?」
ホークショットの手を握ったまま月美は念を押した。
「もちろんだ。休日まであんたを拘束することはない。」
ホークショットは笑顔で言った。
「半年先までまったく休みはないけどな。」
「いまなんて?」
「さぁ、これから忙しいぞ!」
ホークショットは月美を無視して張り切った。
「こい、月美。仕事場に案内してやる。」
固まった月美の手をふりほどいてホークショットは歩きだした。
「どうするんだい、月美?」
粗茶二号が言った。
「どうやらここで缶詰にされるようだ。」
「そんなこったろうと思ったよ。」
なおも握手したままの宙ぶらりんの手を下ろし、月美はため息をついた。
その時うしろから例の甲高い声が聞こえてきた。
ふりむくと、ユエがもう戻ってきていた。
ドレスをまとった金属のマネキンを思わせるほど伸びきった手足を大仰にふって歩き、まだ距離が離れているのにかまわず大声でまくしたてていた。
「ちょっと待ちなさい、あなたたち! アルジャーノンはどこ? 探してもいなかったわ。」
「ならここにはいないんだろうよ!」
ホークショットも負けじと大声で返した。
「とっくにトンズラこいたんだ。あんたおっかないからな。」
「どこに行ったの? 知ってるんでしょ? 教えなさい。」
「いやだね。おことわりだ。」
ユエの鼻の上辺りがヒクヒクとしたのは、視力が自慢の月美でなくてもよくわかったはずだ。
ユエはカンカンだった。
けれど、それ以上なにも言うことはなかった。
ユエはきびすを返してカフェテリアから出ていった。
手近に蹴とばしやすいものがあれば、きっとそうしていたに違いないけど、幸いなれ、彼女の行く手にはゴミ箱ひとつなかった。
あの勢いなら、そのまま月面都市まで帰っていくだろう。
「まるで嵐だね。」
月美は言った。
「いったい何者なんだ?」
「ん? 知らないのか? あいつは……」
何かを言いかけたところで、ホークショットは思いとどまった。
「いや、いい。やっぱ気にするな。」
「なんですか? 気になりますね。」
「借金取りにみたいなもんだ。あんたの気にするこっちゃない。」
「でも……」
「気にするなと言ったはずだよ。」
有無を言わせない口調だった。
「さあ、こっちに来な。仕事の説明をしてやる。」
「ちょっと待ってください。」
月美が言った。
「ん、トイレか?」
「用事を思い出しました。先に行っててください。」
言い終わらないうちに、月美はふりかえって走りだした。
「おい! どこに行くんだ、月美?」
ホークショットは叫んだ。
「トイレはそっちじゃないぞ!」
月美は足を止めなかった。
月の重力に慣れていないので、まだ足元はおぼつかない。
けれど、そんなことにかまってられなかった。
「急げ」と足に言い聞かせ、嵐のような女、ユエのあとを追った。
◇
月面ラボの地下車庫へ月美は戻ってきた。
ここは、マグレブの発着場でもある。
月の砂のコンクリートを打ちっぱなしにした車庫だった。
電灯の銀の光が、床と壁とを照らしている。
吹きぬけの廊下から車庫を見おろすと、さっき使った月面マグレブがまだ残っていた。
うっかり飛び跳ねてしまわないよう手すりにつかまりながら、それでも急いで階段を降りた。
見知らぬ乗り物が車庫に停まっていた。
月美は、マグレブよりもその乗り物の方が気になった。
「さっきはなかったはずなのに・・・・」
はたして車と言えるかどうか分からないけど、とりあえず車と呼べそうな乗り物だった。
なにしろ車体が地面から浮かんでいる。
見えない針でピン留めされたかのように宙で静止しているのだ。
月の車はすべて、タイヤというものが概念から根こそぎ奪われてしまったらしい。
白い車体の上には、健康的な動脈よろしく真紅の線が発光しながら走っていた。
チューブからしぼりだした歯磨き粉のごとき配色だ。
浮かび上がった車体の底からも赤い光線が飛びだし、地面に放射模様を描いていた。
月面都市のタクシーだったら蹴ればそのまま動かせそうな気もしたけど、この車だとそうはいかない。
宇宙空間用の車両なのだろう。
見るからにごつく、蹴とばす気になれない。
車体はむしろ装甲とよぶにふさわしく、窓ガラスは何層もの厚みをもっていた。
この車に銃弾をあびせたとしても、子どもが投げつけたオモチャと大して変わらないだろう。
直撃さえしなければ、小型隕石の衝撃にも耐えられるはずだ。
月美は窓から運転席をのぞいてみた。
ナイフすら跳ね返してしまいそうな厚い革張りの座席があった。
広々としていて、森林浴のためにこしらえたソファーのように快適そうだ。
同じく革巻きのハンドルは、ひとたび握ろうものなら、肌が吸いつき手が離せなくなること請け合いだ。
運転席にも助手席にも人はいなかった。
月美は少し動いて車両の後方を眺めた。
こちらはもっと広々としていて、まるで会議室か応接間といったところか。
白色の車体の中で薄いエンジ色のソファーが並んでいた。
五、六人が面とむかって座れそうだし、寝転がってベッドの代わりにしてもいい具合だ。
当たり前が過ぎて、改めて言うまでもないことだろうけど、ソファーの両脇には、コーヒータンブラーを置くための穴付き袖机があった。
月美はさらに中を覗きこんでみた。
「いた!」
思った通りだ。
車の中の片隅にユエが座っていた。
ユエは気づかないフリを決めこんでいたけど、月美の頬が窓に張りつくほど近づいたあたりで、やがて観念して顔をあげた。
歯の隙間から息を吹き出した時のようなフシューという音とともに車のドアが開いた。
ドアは横にスライドするでもなく、観音扉式に開くでもなく、車体の側面がまるごと上方に持ちあがり、工学的にとても複雑な動作をしながら屋根の上に収まった。
ドアというよりもガレージのシャッターが開いたかのようだ。
広々とした一室がむき出しになった。
月美は、百合の花で飾られている内装に目を奪われた。
ソファーセットに飽き足らず、カーペットも余すことなく敷き詰めていた。
ユエは、そのままの姿勢で首だけを動かして月美を見た。
車が浮遊しているおかげで、座ったままでもユエの顔は月美と同じくらいの高さにあった。
「いい車だな。丈夫そうだ。」
車体の屋根に手をかけ、すこし屈みこんで月美は言った。
「まあね。さすがに水陸両用ってわけには行かないけれど、宇宙空間くらいなら走り抜けるわ。」
ユエは相変わらずすました様子だ。
「来たときにはなかったよな?」
「帰りは自分の車にしたかったから、月面都市から呼び寄せておいたの。」
月面都市で無人タクシーが行ったり来たりしていたのを思えば、自家用車が迎えに来てくれたとしても不思議ではない。
不思議ではないけれど、宇宙空間を行き来できるシロモノを「自分の車」と言える人間が、果たして世界に何人いるのだろうか?
ユエの底知れぬ経済力には、月美も深い関心をよせるとこだけど、目下問題としているのはそこじゃなかった。
「で、なんのよう?」
ユエが切り出した。
「そこに突っ立っていられたら、いつまでも出発できないわ。」
「ここから出たいんだ。」
月美は間髪入れずに言った。
「ここにいたらろくなことにならない。そんな予感がするんだ。」
「でしょうね。ホークショットのことを知ってればみんなそんな風に思うはずよ。」
「乗せてくれ。」
月美は車の中に身を乗り出した。
けれどユエは返事もせずに固まっていた。
月美が何を言っているのかわからず、たっぷり三十秒ほどかけて月美の言葉を咀嚼し、次の三文字だけをやっと喉の奥からしぼり出した。
「なんで?」
「なんでって……乗り物がないと月面都市には戻れないんだ。」
「あれに乗っていけば?」
車庫の反対側にあるマグレブをユエはあごで指した。
「勘弁してくれ。私は車の免許も持っていないんだ。」
月美は言った。
「あら、偶然ね。私もよ。この車にも、ハンドル……っていうの? それがついてるけど触ったこともないわ。」
「たのむ。はじめての宇宙なんだ。あんなの一人じゃ、乗れないよ。」
「あなたを乗せる気はないわ。」
ユエはにべもなく言い切った。
「まだ仕事が残っているし、ひとりで集中したいの。ここまであなたを連れてきたのもちょっとした気まぐれだと思ってくれればありがたいわ。」
「そんな……」
月美は呆然とした。
「話はこれまでよ。」
ユエはピシャリと言った。
「どんな交渉事でも、お互い納得して終えられると気持ちいいものね。それじゃあ、さようなら。」
ハルルという電脳秘書に合図したのだろうか、ユエがぱちんと指を鳴らすと、上下スライド式のドアが閉まり始めた。
たっぷり複雑な動きをしながらドアは車体の側面へと下りていく。
つま先を車体にはさんでジャマするという考えがほんの一瞬だけ頭を横切ったけど、そんな度胸が月美にあるはずもなく、誰かに胸を押されたかのように後ずさりするばかりだった。
扉は固く閉ざされ、爪先すら入りこむ余地がなくなった。
ガッチリ閉じたその様は、空気の流出などひとツブたりとも許さぬという確固たる決意をこめたもので、これ以上ないほど頑なだった。
白い車体は音もなくすべりだした。
車体の底から飛びでた赤い光線を引きずりながら車庫から出て行った。
車庫の向こうにあるのは、居住空間と宇宙空間とをつなぐ気密室だ。
もはや追いかけることもかなわない場所なのだ。