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月面ラジオ { 37: 月面大学 }
あらすじ:初恋の人を追いかけ、月で働くことになった月美は、砂漠の僻地に閉じ込められ、脱走しました。
◇
◇
ミクロネシアの島をモデルにした朝やけが月面都市をつつんだ。
やがて人工の空が海のように青くなるころ、西大寺芽衣の一日もまたいつもと同じように始まるのだった。
顔洗って、歯を磨き、チェックのシャツに着替え、リュックサックを背負い、芽衣は寮を出た。
目指すは月面大学のキャンパスだ。
寮もキャンパスも月面都市の大学区にあった。
オックスフォードを模した石造りの街は、登校中の学生たちで賑わっている。
大学区のとなりには高級住宅街があり、そこから通勤している教授たちの姿もあった。
街角のカフェでコーヒーを飲み、見るからに甘そうなパンやドーナツをほおばりながらおしゃべりをしていた。
顔見知りの先生同士で朝のご歓談といったとこだろう。
キャンパスにつくと、クラブハウスサンド、生春巻き、それから野菜ジュースを食堂から調達した。
教室の近くのロビーで空いている席を探し、そこに座って食べた。
食べ終わったら、読書をしながら最初の講義が始まるのを待つ。
ここまでが芽衣の日課だった。
九時から三時間にもわたって濃密な、しかしすばらしい講義を聴講した。
教室では先生と学生たちがたくさんの意見を交わしていた。
芽衣も同級生に遅れをとりたくないから必死になって意見を述べた。
学生の中には、仮想空間をつかって地球の大学から講義を聴講する人もいる。
逆に芽衣が地球の大学の講義を受講することもあるし、それはちゃんと成績として認められていた。
講義が終わるころ、必ずといっていいほど先生が課題を出すので、説明を聞き漏らすまいと最後まで断固たる心持ちで耳を傾けなければならない。
まだ大学に慣れていないころは、この時点でヘトヘトになってしまった。
まだまだやることはいっぱいあるというのに。
午前の講義が終われば、また食堂へ向かう。
たくさんの学生が同じ場所に向かうものだから、ヌーの群れか、ゲルマン民族大移動のただ中に取りこまれた気分になる。
ヌーもゲルマン人も、きっと私たちのように腹ペコだったにちがいない。
そう思いながら芽衣は人ごみの中を歩くのだった。
腹ペコとはいえ、ただ食事をして終わるほどここの学生たちは愚かじゃない。
食堂で食事をするだけだなんて、月面大学ではあるまじきことなのだ。
昼食の時間は、一緒に課題に取り組んでいる学生たちとのランチミーテイングの時間でもあった。
芽衣は、同級生と五人のチームを組んで、人工衛星の修復ロボットの開発を半年かけてやることになっている。
やれ姿勢制御システムの試験が遅れているだの、やれ今の設計だと宇宙空間の温度差には耐えられないだの、やれもっといいアイデア思いついただの、今さらなに言ってんだだの、喧々諤々の議論がフォーク片手にくりひろげられる。
各国の民族料理をそろえた食堂で「そばもうどんも食べられるのはありがたいけど、具材にチーズを使うのはやめてほしい」などと文句を垂れているヒマはないのだ。
午後になればまた講義の時間だ。
ただし、より実践的になり、教授との共同実験や工作の実習を行うことが多い。
夕方になると講義は終わるけど、むしろここが折り返し地点だ。
夜おそくまで開館している図書館(なんと電子書籍ではなく、紙の資料をそろえている月面都市唯一の施設だ)で調べものをしたり、ワークベンチの並んだ工作室でロボットの部品を試作したりする。
お腹が空いたら、大学内にあるスーパーマーケットでジュースやスナックを買い出しして、腹にエネルギーを足して工作に戻る。
工作好きの芽衣にとっては、いちばん楽しい時だった。
寮の部屋に帰ると、ルームメイトのアナスタシアがすでに泥のように寝ているか、逆に芽衣が泥のように寝ている時に、疲れ切った顔で彼女が帰ってくるかのどちらかだった。
芽衣とは学部が異なり、彼女は低重力建築工学を学んでいるので、キャンパスで会うことはあまりない。
彼女との仲は良好のつもりだけど、起きている最中に会う時間が最も少ないのは、実のところこのルームメイトではあるまいかと芽衣は疑っていた。
最高学府のおぼえめでたき月面大学といえど、すべての時間が講義や課題で埋まるわけじゃない。
けれど、何しろここは月だった。
身体機能の維持のためのトレーニングも必要だった。
ジムのランナーマシンに体をしばり付けて(こうしないと体が飛んでいってしまう)、ほとんどフルマラソンに近い距離を走るあいだ、トム猫さんに録音してもらった講義を芽衣は聞き直していた。
せめてもの解放の時間といえば、土曜日の夜に学友たちと大学区のアイリッシュ・パブにくり出す時くらいだろう。
月美ちゃんの真似をして、彼女がよく飲んでいたスタウトビールを芽衣も飲んだ。
ファビニャンと講義や課題以外の話をできるのもこの時だけだった。
日曜日?
もちろん大学にこもって課題の続きだ。
ほんとうに忙しい日々だった。
そんな生活がもう半年以上も続いている。
これ以上すばらしいものはないと言い切れるほど、芽衣は充実した日々を過ごしていた。
◇
さて、とある日の昼さがり、芽衣は宇宙開拓史の講義をきいていた。
火星の開拓の意義とあらましを教授自らが語ってきかせた二時間だった。
講義が終わるころ、恒例の課題が出されて学生の大半がうめいた。
テーマは、火星開発の初期に起こった事故についてだった。
軌道基地への帰還ロケットが、火星から飛びたつ際に爆発するという事故が二十年ちかく前に起こった。
空中分解したロケットに三人の宇宙飛行士が搭乗していて、三人とも亡くなった。
それは極端に運の悪い自然災害だったのか、あるいは防ぎうる人的災害だったのか?
またおなじ事故が起きないためには何をすればいいのか?
国際宇宙局への提言をレポートとしてまとめるという課題だった。
無精髭をはやした教授は、最後にこうつけ加えた。
「たんに旧型機の欠陥をあげつらねるのでなく、政治、経済、経営、心理学など多面的な観点の分析であることを期待する。」
教授が講義室を出ていくと、電脳秘書のトム猫さんが耳打ちをした。
「芽衣、いっしょに課題をやらないかって誘いがきてるよ。アンドレ・ムサからだ。」
「あら、彼もこの講義を受けていたのね。」
アンドレは、人工衛星の修復ロボットを開発しているチームのリーダーだ。
「よろこんで、って返事しておいて。」
了解、とトム猫さんは言った。
「ねぇ、ファビニャン。」
芽衣はとなりの席に座っていたファビニャンに声をかけた。
「あなたも一緒にやらない?」
けれどファビニャンは返事をせず、腕を組んだまま固まっていた。
まるでまだ教室に教授がいて講義の続きを聞いているかのようだった。
「どうしたのファビニャン?」
再び声をかけると、ファビニャンが腕をほどいた。
やっとこちらに気づいたようだ。
ずっと腕を結んでいたせいか、いつもアイロンしているはずの白いシャツにキツめのシワがよっていた。
「どうしたの、ぼんやりして?」
「ぼんやりしていたわけじゃないよ。」
ファビニャンがメガネの位置を直しながら言った。
「ちょっと考えごとをしていて……え、課題? ごめん、遠慮させてもらうよ。あまり乗り気じゃなくて……」
「乗り気じゃない?」
芽衣は声をあげた。
「まじめで宿題好きなあなたが? どうしちゃったの? みんなあなたのことをブラジルのハーマイオニーって呼んでいるのに。」
「じつは同じ学部の連中と、三〇七号事件の調査をしているんだ。そっちの方がけっこう盛り上がってて、ほかのことに時間をとれそうもないんだ。」
「おもしろそうじゃない。」
芽衣は身を乗り出して言った。
「じつは私も気になってたの、その事件。宇宙船が失踪してもう三ヶ月もたつのに原因がわからないだなんて。私もそっちのプロジェクトに参加してみたいわ。」
「ほんとかい?」
ファビニャンの細い眉が釣りあがった。
「じつはそう言ってくれるのを期待してたんだ。ソフトウェアが得意なやつばかりが集まっているんだけど、それだけだと行き詰まってしまって……ハードウェアの専門家の意見も聞きたいんだ。講義とは関係ない独自の活動だから誘いにくかったんだけど助かるよ。じゃあ、早速だけど今夜……」
そこでまたファビニャンが固まった。
今度は芽衣のうしろの方を見つめたまま動かない。
芽衣も体ごとそちらに向いた。
次の講義の支度をする学生たちがいるだけで、これといっておかしなものはなかった。
「どうしたの?」
芽衣はファビニャンに向き直った。
「バグったの? 急に黙ってしまうと、私とても不安になるわ。」
「あっちの端っこの席にいる人、どこかで見たことあるなと思って……」
ファビニャンは言った。
「名前を検索してみたら、西大寺月美っていうみたいだ。たしか芽衣の親戚だよね?」
芽衣はふりむきながら叫んだ。
「月美ちゃん!?」
「芽衣!」
月美は、声をかけられて初めて芽衣に気づいたような素振りをみせた。
「偶然だな。こんなところで会うだなんて思ってもみなかったよ。」
隣には粗茶二号もいて、こちらに手をふっていた。
「どうしたの月美ちゃん。」
芽衣はリュックサックをつかんで立ち上がり、あわててそちらに駆け寄った。
「不法侵入?」
「そんなわけないだろ。」
月美は驚いて言った。
「ちゃんと聴講の許可はもらってるよ。」
「冗談よ。でも、ほんとに何しにきたの?」
「もちろんかわいい姪に会いに来たんだ。」
月美が芽衣の肩を叩いた。
「遊びに行こう、月の観光だ。それに宇宙水族館にも行きたいな。」
「ごめんなさい。」
芽衣は言った。
「宇宙に行く時間なんてないわ。というか、遊びに行く時間もないの。書きかけのレポートが山積みだし……」
「ああ、そうか。」
月美は肩を落とした。
「そりゃそうか、大学生だもんな。しかたない、ひとりで行くしかないか。」
「ねえ月美ちゃん? ほんとは何かあったんでしょ?」
「なにもないよ。」
月美は言った。
「ちょっと休暇をもらえたから観光したいだけさ。」
芽衣が月美を見つめた。
月美の視線が横にそれたことを芽衣は見逃さなかった。
芽衣がなおも見つめていると、やがて月美はモゴモゴと言った。
「ああ、悪かった、うそをついたよ。ほんとは逃げてきたんだ。仕事がうまくいかなくて。」