月面ラジオ {41:ルナ・エスケープ再び(3) }
あらすじ:初恋の人を追いかけ、月で働くことになった月美は、砂漠の僻地に閉じ込められ、脱走しましたが、逃げ場もなく戻ってきました。職場に戻ってくると、行方不明だった社長のアルジャーノンがいました。
◇
◇
奇しくも他人に対する気づかいを垣間見せたホークショットだったけど、次の日もそうであってほしいという月美の期待はもろくもくずれさった。
以前のきびしい態度はそのままで、仕事がおくれたと報告しようものなら、教授は歯をむき出しにしてこちらをにらみつけるし、グローブの性能試験に失敗したら、その試作品で月美を殴りとばそうとした。
それから「休暇などぜったいに許さない」と再三言ってのけるのだった。
すっかり元通りのホークショットだったし、月美の生活だって元のままだった。
つまり朝から晩までこき使われる生活だ。
変わったこともひとつだけあった。
アルジャーノンが月面ラボに住みはじめたのだ。
普段は月面都市でパルクールや俳優の仕事をしているアルジャーノンだけど、いまは休養とリハビリのためラボにこもりたいそうだ。
アルジャーノンは、月美が仕事をしているときに開発室へ遊びにくるようになった。
それは月美にとってジャマ以外のなにものでもなかった。
アルジャーノンはワークベンチの脇に立って月美の仕事ぶりを眺めたり、それに飽きたら窓から砂漠を眺めたりしていた。
月美はあいかわらず試験を突破できずにいて、その打開策も思いつかずイライラしていた。
「さっきからなにしてるんだ?」
月美はたずねた。
ワークベンチと窓とを行ったり来たりするアルジャーノンのおかげで集中できなかった。
「午後の天気が気になってね。」
アルジャーノンは窓の外を見やった。
「予報ではずっと快晴です。」
粗茶二号がすかさず答えた。
「月に天気もへったくれもあるか。」
月美は言った。
「ヒマなんだ。」
アルジャーノンはふりかえった。
「ちょっと話相手になってよ。」
「わるいけど、つきあってやれないよ。」
月美は答えた。
「仕事が死ぬほど遅れていて、今朝だって教授にナイフで刺されそうになったんだ。」
でも結局、月美は休憩をとることにした。
◇
話相手というのは半分うそで半分ほんとうだった。
月美が連れてこられたのは、ラボの三階にあるサイクリングコースだった。
ただ話すだけでなく、いっしょに運動につき合ってほしいそうだ。
アルジャーノンは退院したばかりで、「トレーニングはかならず他の誰かとやれ」とホークショットに言われていた。
「月美だって規定の運動時間にとどいていないだろ?」
アルジャーノンは言った。
「会社には、社員の運動時間を管理する義務があるんだ。僕は社長だからこれも仕事のうちさ。」
ふたりは屋内トレーニング用のロードバイクに乗ると、月の砂漠を見ながら周遊するコースを走りはじめた。
とにかくおしゃべりなアルジャーノンは、何周まわっても話をやめることはなかった。
対して月美は、五週するころには話す余裕もなくなってきた。
すでに息があがってしまい、汗だらけだった。
ペダルも重く、ずっと山を登らされている気分だ。
洪水のようにしゃべりつづけるアルジャーノンが信じられない。
体がもろいのと、体力がないのは別の話しなのだろうと月美は思った。
「地球に天気というものがあるってほんとなの?」
サイクリングも十七週目に差し掛かったころにアルジャーノンがたずねた。
「磁気嵐とかじゃなくてさ。」
「あ……あ、あたりまえだろう。」
月美は答えた。
「いいな。僕は雨も雪もみたことないんだ。地球では、水が雲という巨大な塊になって宙に浮かぶんだろ? なんて不思議な世界だ。」
これには月美も面食らってしまった。
月の方がずっと特殊だと思っていたし、雲が不思議だなんて思ってもみなかった。
でも、よくよく考えれば、あんな高い場所に真っ白い何かが浮いているのは不思議だ。
月美だって、雲が浮かんだり、雨や雪がふったりする仕組みをうまく説明できない。
科学者のくせに、けっきょく不思議と言う他ないのだ。
「雲の上の街は、いつも太陽に当たってきっと真っ白なんだろうなぁ。」
アルジャーノンは遠い異世界に思いを馳せた。
「あぁ、はやく体を丈夫にして、地球に行って見てみたいよ。」
月美は、しばらくは何もいわずアルジャーノンの話をきいていた。
どんなふうに反応すればいいのか自信がなかったのだ。
アルジャーノンの境遇を気の毒がればいいのか、誰に仕込まれたかわからないそのデタラメをおもしろがればいいのかわからず、結局のところ話をそらしてしまった。
「怪我はもういいのか?」
「もちろん。」
アルジャーノンは答えた。
「あまり無理をするなよ。ずっと入院していたんだろ?」
「このくらい平気さ。」
アルジャーノンは余裕の笑みだったけど、月美は気が気でなかった。
「あいつの足は枝みたくポキリといく」。
そんな風にホークショットが言ったあとでは、ちょっとした運動でもドギマギしてしまう。
今にも転んでしまわないかと心配なのだ。
もし転んだ拍子に手をついて、しかもバイクの後輪で足をひいてしまったら?
こんどは腕と足の両方が折れてしまう。
「入院なんて慣れたものさ。」
アルジャーノンは続けた。
「僕は病院で育ってたからね。」
「病気だったのか?」
「ルナリアはみんな病院で育つものなのさ。こどものころの僕らは麩菓子のようにもろいんだ。だから大人は外に出してくれない。」
「ユエも?」
「うん。おなじ病院で育ったよ。」
「この前、ユエを避けていたのはどうしてだ? ケガをしていたなら教えてやればよかったじゃないか。」
「あいつ、僕の地球行きに反対してて、うるさいんだ。」
アルジャーノンは答えた。
「入院しているのがバレたときも一騒動だった。骨がもろいくせにムリするからだ、ってすごい剣幕だったよ。」
まるで姉弟のようなくちぶりだと月美は思った。
おなじ場所で育ったルナリア同士、姉弟のようなものなのかもしれない。
「アルはなんで地球に行きたいんだ? ルナリアが地球にいくってのは並大抵のことじゃないんだろ?」
「おっと、次は僕が質問する番だよ。」
アルジャーノンが言った。
「質問は交互にしようって約束しただろ?」
そんな約束に心当たりはなかったが、月美はうなずいた。
「月美はどうして月に来たんだい?」
とたんに足をとめてしまった。
バイクにのったまま、月美はハンドルの上でうずくまった。
十九週目にしてペダルが岩のように重くなり、しばらく息をつきたかったというのもあるけれど、それだけが動けない理由じゃなかった。
それは、答えにくい質問に対する月美なりのごまかし方でもあった。
アルジャーノンもバイクをとめて月美のところまで引き返してきた。
「好きな人が月に住んでいるんだ。」
なにか訊かれる前に月美は顔を上げて言った。
汗をかいていたし、たぶん顔も真っ赤だったろう。
「その人にもう一度会いたい。」
「わお!」
アルジャーノンが目を見開いて叫んだ。
「ロマンチックだなおい。」
「そんなふうに自信を持って言えればいいんだけど……」
月美はつぶやくように言った。
そんな月美の様子にアルジャーノンは首をかしげた。
それから再び月美は走り始めた。
今度は月美が前を、アルジャーノンが後ろを走った。
ペダルはあいかわらず重かったけど、だからといって休むわけにもいかなかった。
低重力の月では、筋肉の量も骨の強度もあっというまに落ちてしまう。
トレーニング不足で身体の機能が落ちれば問答無用で地球におろされるのだ。
アルジャーノンと真逆の事情で体を鍛えなければならないのは皮肉なことだと月美は思う。
「うそじゃないんだ。」
月美は続けた。
「ホントに会いたかった。でも、いざ月に来てしまうとそれほど会いたくない。それよりも、そんな理由で月に来てしまった自分が ひどく場違いで恥ずかしいんだ。月は科学者にとってもあこがれの場所で、世界の最先端だってのに。ここに来てから、自分が薄っぺらの能なしに思うことが多いよ。」
「へぇ。」
「今度は私の番だ。」
月美は言った。
「アルはどうして地球に行きたいんだ。」
「ん? 行ったことがないからだよ。」
アルジャーノンは答えた。
「それだけ?」
月美はおどろいて言った。
「じゅうぶんな理由だよ。」
アルジャーノンは強く言った。
「そういえば、地球にいったら僕も無能だよ。立って歩くこともできない。無能同士仲良くしよう。これで僕たちは友だちだ。」
後ろを走っているアルジャーノンの姿は見えないけど、月美は彼に手を差し伸べられた気がした。
「たしかに理由は大切だけど、悩むほどのものでもないさ。」
アルジャーノンは続けた。
「行きたいから行く。来たいから来た。それでかまわないんじゃないかな。語るほど僕たちの夢や人生なんてたいしたもんじゃないさ。」
そのとき月美は「月」を思い出した。
キャンプをしながら見上げたあの月だ。
となりには、少年の青野彦丸がいた。
あの頃を思い出すとなんだか湧き出てくるものがある。
あいつのとなりで夜空を見上げていたころ、がむしゃらになって月をめざすなんて思ってもみなかった。
「どうしたの?」
「思い出したんだ。」
月美は言った。
「行ったことがないから行く。その言葉を前にも聞いたことがある。私の好きな人がそう言っていた。」
「なんだ、僕が最初に言ったわけじゃないのか。」
アルジャーノンは残念そうに言った。
「伝記に載せようと思っていたのに。」
月美はおかしくて笑ってしまった。
月美は、アルジャーノンが芽衣とおなじだと思った。
ふたりともどんな障害にだって立ちむかい走りつづけられる。
つまりは彦丸ともおなじと言える。
いま私は憧れてやまない人の手助けをしている。
光栄なことじゃないか。
「ありがとう、元気がでたよ。」
なんとなく照れくさく、月美はアルジャーノンと顔をあわせられなかった。
「気を使わせて悪かったな。」
「こうやって話すのも社長の役目さ。」
アルジャーノンは言った。
「さぁ、あと一息だ。」
サイクリングもそろそろおわりが近づいていた。
月美の体もゲンキンなもので、そう気づいた瞬間ペダルが軽くなった。
なんとか最後まで走りきれそうだ。
「そういえば、アル……青野彦丸って知ってるか?」
このことは以前から気になっていた。
アルジャーノンとユエはルナリア同士でつながりが深い。
だからユエ経由で必ず彦丸を知っていると月美はにらんでいた。
「あたりまえじゃないか。」
アルジャーノンは言った。
「彦丸は僕のお父さんなんだから。」
「はい?」
「僕のお父さんだよ。彦丸は。いったいそれがどうしたんだい?」