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月面ラジオ { 29: ルナスケープ }


あらすじ:(1) 30代のおばさんが、宇宙飛行士になった初恋の人を追いかけて月までストーカーに行きます。(2) 月美は、新しい就職先の会社にやってきました。

{ 第1章, 前回: 第28章 }

クリスタルの中にいるみたいだった。
タクシーで乗りつけたのでなければ、月美はここをファンタジーの世界とかんちがいしていたかもしれない。
自分はガラスの聖堂に迷いこんでしまったのだ、と。

でもここはルナスケープ本社のエントランスホールだ。
ボロ服の巡礼者の代わりにエンジニアが、衣をまとった説教者の代わりにビジネススーツの人がいた。
時を超えて教義を伝える古代美術の代わりに宇宙船があった。

エントランスホールは、フロアにして六十一階分の吹き抜けのホールだった。
それだけでも目を回しそうなのに、錐のように上にのびていくこの高層建築を支える柱が一本もないのは、不思議を通り越して神秘的だった。

たった一枚のガラスが大聖堂の壁面をつくっていた。
史上最大にして唯一のガラス……
まるで怪獣のようなガラスがこの建物をなしているのだ。
無粋な鉄骨やコンクリートの枠はなく、地面と接するところ以外に境目はなかった。

見上げれば、吹き抜けの半ばに回廊があり、そこにカフェやハンバーガー・レストランが出店していた。

エレベータの発着場があった。
そこでは、アナウンスの声がひっきりなしに聞こえた。

「高層階へのシャトル・エレベータはあと三十秒で発射いたします。」

「別棟のセカンド・オフィスへお越しの方は、八十三階にてトラムにお乗り換えください。」

ホールの奥では、ガラスの壁をスクリーンにして、スター・トレックを上映していた。
ルナスケープの社員たちが、ポップコーンやホットドックを持ってソファーに座り、休憩をしていた。
未来のサンフランシスコに宇宙船が墜落しているシーンだった。
なつかしい、こどものころ映画館でみたやつだ。

ルナスケープ本社は、低重力建築の最高傑作だ。
人工の太陽光をとりこみ煌めくその様は、クリスタルの塔と称賛されるにふさわしかった。

ホールの中央には宇宙船の展示があった。
月面都市やラグランジュに住んでいる人向けの宇宙船だ。

まっ黒な大理石の展示台(たぶん地球産の天然モノ)に、光るまで磨きあげられた船が七隻あった。
船は電磁誘導で浮遊し、さりげのなく旋回していた。

展示品に見入っている月美に誰かが声をかけた。

「いかがででしょうか? ルナスケープ社の最新モデルです。」

声はイヤホンから聞こえた。
実在する人間の声じゃなかった。

月美の仮想空間に青色のスーツのアジア系の男があらわれた。
メガネをかけていて、顔がやさしく、月美よりも少し背が高いくらいの男だった。
どことなく小安くんに似ている。
もしかしたら自分が話しやすい人をわざわざ選んでいるのかもと思ったけど、電脳秘書が人の姿で接客を行うときは、人種や性別を意図的に選別できないことを月美は思い出した。
そういう法律なのだ。

「手前の黄色の一隻は、月面キャンプにも対応した大型船です。」
 スーツの男は言った。
「寝室は二部屋で、無重力用のベッドも七つ備えています。電子調理のみとなりますがキッチンもございます。無重力、低重力の両方に対応した最新のトイレを備えており、収納も納得の広さ。月衛星軌道上から、月面空港の発着まですべて自動運転にて航行可能です。宇宙特殊船舶の免許も必要なく、通常取得される普通免許でご利用いただけます。もちろん免許をお持ちでない場合でも、ルナスケープ社の練習施設を無料でご使用いただき、免許取得までサポートいたします。安全性も折り紙つき。航路の周囲数千キロ先までを当社の人工衛星が監視しており、ふいの隕石の接近にも問題なく対応可能です。フロントのガラスも全面開放されており、大パノラマで天体観測を……」

「まって、まって。」
 まくしたてる男を制し、月美は言った。
「宇宙船を見に来たんじゃないんだ。アルジャーノンに呼ばれてきたんだ。」

「失礼いたしました。」

男がうやうやしく一礼し、顔をあげた。
すると、スーツの色がパッと光って青から灰色へと変わった。

「ようこそいらっしゃいました。ルナスケープ社の社員をお探しということでしょうか?」

「うん。」
 月美はうなずいた。
「彼のオフィスを教えておしい。」

「残念ながら……」
 男が言った。
「アルジャーノンという社員はいないようです。なにかお間違えではないでしょうか?」

「いない? そんなわけないじゃないか。もう一度調べてくれよ。」

「すでに七億回ほどくり返して社員名簿を走査していますが、やはりいないようですね。」

「そんなまさか!」
 月美は思わず声を上げた。
「粗茶、あいつと連絡取れるか? いますぐ!」

「う〜ん……」
 粗茶二号はうなった。
「取れないね。月のネットワークには、影も形もないよ。彼の電脳秘書も彼自身も……」

「いったいどういうことだ?」

「僕に訊かれても……」

月美は頭の中が真っ白になった。
いない? 
アルジャーノンが? 
連絡もつかない? 
どうして? 

さっき仮想空間で会ったばかりじゃないか。
てっきりこのエントランスホールで両手を広げて迎えてくれると思っていたけれど、社員名簿にないとはこれいかに。

いろいろな考えが月美の脳内をかけめぐり、それがあまりにも急だったので頭がカッと熱くなった。

まさかだまされた? 
でもだまされて盗られるものはないし、ここまでの渡航費だって自分で払ったわけじゃない。
そこまでしてだます意味がわからない。
詐欺じゃないとしたらいったいどういうことだ? 

これから自分はどうすればいいんだ? 
泊まる場所はあるからとアルジャーノンが言ったのでホテルの予約だってしていない。
そもそもバカ高い月の宿泊費を払う余裕もない。

月面都市で月美がたよりにできるのは芽衣しかいない。
でもあいつは学生寮に住んでいるから、泊めてもらうのはムリだろう。
それに「勇んで月まで来たけどやっぱり無職でした」と告げるのもイヤだ。

「うそだろ……」

「いかがいたしました? お顔の色がすぐれないようです。」

受付の男はたずねた。

「なんでもない。気にしないで行ってくれ。」

「承知いたしました。」
 男は一礼した。
「御用があればまたお呼び立てください。」

男はにっこりと笑って姿を消した。

月美は途方にくれあたりを見回した。
だれかが救いの手を差し伸べてくれるのではと期待したかのように。
もちろんそんな期待は虚しいだけだ。
でも他にどうしろというのだ? 

通行人の何人かは月美をちらりと見たけれど、すぐに電脳秘書との会話にもどり、そのまま歩いていった。
流行のスーツを身にまとい、重い革靴で足音をたてながらシャトル・エレベータに乗りこんでいく彼らはルナスケープの社員なのだろう。
彼らは月に仕事があり、月にベッドがある。
月美もそうなる予定だったのに……

五分ほどぼんやりしながらホールの様子を眺めていた。
せっかくここまで来たのに何もせず帰るハメになるかと思うと、次に何をするべきか考えるだなんて、どだいムリな話しだった。
茫然自失とはこのことだ。
でもそんな月美を現実へと引きもどす人間があらわれた。
その女は、シャトルエレベーターに乗って高層階から降りてきた。

降りてきたシャトル・エレベーターを見て、月美はギョッとなった。
トラックも余裕で搭載できそうな大型のエレベーターなのに、乗っているのは黒髪の女ひとりだった。
その女がエントランスホールの階段を降りてくると、その周囲に十二人もの人影が幽霊よろしくあらわれたのだ。

その一団は性別も人種もバラバラだし、着ている服も統一的とは言えなかった。
九分丈の細いスーツを着ている人もいれば、麻のシャツにブルージーンズの人もいるし、アロハ様式にサングラスの人もいた。
みんなバラバラだけど、みんな若かった。

一団は、黒髪の女の歩く速さにあわせながら塊になって進んでいた。
師団長が幹部の兵隊を引き連れて歩いているような、そんな印象をおぼえた。

ギリシャの哲人のようにみんな熱くなって何かを語り、顔をつき合わせながら議論していた。
表情や身振り手振りがいちいち大げさなので、むしろ喧嘩をしているようだった。
仮想空間で会議をしていて、その議論が白熱しているのだろう。

声はきこえない。
会議の様子はわかるけど内容は秘密だ。
その幻影を他人に見せているのは、つまり「いまは忙しいから話しかけてくれるな」という彼女の合図なのだろう。

けれどその当人は誰との会話にも加わらず、きつい目つきで前を見つめ、背筋をぴんと伸ばして歩いているだけだった。
ちょうど階段を降りきったとき、月美と目があった。

月美は気のせいだと思った。
月美の知り合いじゃないし、彼女が月美を見る理由もない。

しかし彼女は顔をそらさなかった。
嵐のようなきびしい視線が月美をとらえている。
射すくめられ月美は目をそらすことができなかった。

そんな様子に気づきアロハシャツの男がふりかえった。
彼女に声をかけている。
何を言っているかわからないけど、きっとこんな感じだろう。

「どうしたんだ、急に黙りこけて? 会議中なんだから集中しないと。」

「用事ができたから、もう抜けるわ。」
 黒髪の女が言った。
「あとで結論だけハルルに報告してちょうだい。」

十二人全員の姿がいっぺんに消えた。
アロハシャツが何か言っている途中だったけど、それにかまわず彼女は会議から退席した。

彼女が近づいてきた。
まさか自分と話したいわけじゃないだろうと思いながら月美はキョロキョロとあたりを見た。
けれど、近くには誰もいなかった。
月美は不安の面持ちのまま待った。

近くにきて初めて気づいたけど、彼女は背が高かった。
長身の月美よりも高いくらいだ。
でも顔も体の線も、月美より一回り細かった。
赤いアイシャドウと鋭い視線が炎のような印象だ。
真っ黒なドレスと、靴底が紅色のヒールは、まるで月美を攻撃するための武装のようだった。

若い、と月美は思った。
信じられないほどに。

ルナスケープという大きな会社で働いているにもかかわらず、芽衣とおなじくらいの年代だった。
さすがに学生ということはないので、二十代後半だろう。
羨ましいほどきめ細やかな肌とサラサラの髪の毛だった。
生きていれば避けようのないはずの経年劣化とは無縁の光沢だ。
これまで一秒も太陽の光をあびたことがなく、一滴も汗をかいたことがないのかもしれない。
あるいは人工的に作られたような……

月美が見入っていると、彼女はいつのまにか目の前に立っていた。

「ねえ。あなた、たしか……ラグランジュであいつと一緒にいた。」

「あいつ?」

「アルジャーノン。あなた、アルジャーノンの知り合いでしょ?」

「うん。たぶんだけど。」

「あいつ、いまどこにいるか知ってる?」

「いや。私が知りたいくらいだ。」
 月美は言った。
「アルジャーノンに呼ばれてここまで来たんだけど……いないみたいで……」

「ここに呼ばれた? だってあいつは……」
 女はしばらくうなるように考えていたけど、とつぜん何かをひらめいたようだった。
「ああ、なるほど。そういうことね。」

「どういうことだ?」

月美は光明を見た。
口ぶりからすればアルジャーノンとは親しいみたいだ。
ただ彼女自身もあいつを探している最中のようだけど。

「あなた、勘違いをしている。ここはあなたの来るべきところじゃない。」

何を言っているのかわからなかった。
わかるはずがない。
頼りにした人がおらず、月美はひとり待ちぼうけだ。
そして見ず知らずの人からここに来るべきではなかったと言われる。
もうわけがわからない。

「ここじゃないならどこだってんだ? そもそもあんた誰なんだ?」

女は面倒くさそうにため息をついた。

小馬鹿にされているようで月美はムッとなったけど、それを顔に出すわけにもいかなかった。
いま月美が頼りにできるのは彼女だけだ。
万が一にもここで退散されるわけにいかない。
場合によっては、拝み倒してでもアルジャーノンの情報を引き出さなくちゃ。

女は、手の甲を月美に向けてから手をふった。
見ようによっては他人を追い払うようなジェスチャーだけど、そうではなかった。

彼女の手の動きに合わせて月美の仮想世界にふたつのモノが映った。
一方は地図で、もう一方は名刺のようだった。
地図には目的地がわかるように丁寧に星の印と住所が記されていた。

月美は名刺を手にとった。

ユエ・ティンイェ

ルナスケープ社
仮想航路開発部門 主任
知能的ソフトウェア・デベロッパー 最上級顧問

「は、はじめまして。」
 月美は緊張しながら言った。
「西大寺月美です。ええと、テイイエ……さん。」

「ユエでいいわ。気安くファーストネームで呼ばれるのはイヤだけど、ファミリーネームを正確に発音できる人も少ないから。」

「地図までもらってあれなんだけど、やっぱり聞いていいかな? 私が行く場所ってほんとにここ?」

「ええ。どうして間違いだと思うのか逆に聞きたいくらい。」

「だってここ……」
 月美は地図をマジマジと見た。
「月面都市の外じゃないか。どうやってこんなところまで行くんだ?」

暗いトンネルを抜けると月の地表だった。
月面都市じゃない。
宇宙空間だ。
マグレブ(正式には超電導浮上式移動車両「月面マグレブ」)は、音も振動もなくただ月の道を走っていった。

月美はゾクっとした。
人の生存を許さない砂漠が、このミニバスほどの乗り物の外に広がっていたからだ。

「こんな気軽に出られるものなのか?」
 月美はふりかえった。
「月面都市の外にさ。」

車両うしろのベンチにユエが座っていた。
月美は最前列にいたけれど、所詮は地表労働者用の小型車両で、声はじゅうぶんに届く。

「出られるのは許可された人だけよ。」
 ユエは答えた。
「私やあなたのようにね。」

「月面にはいったい何があるんだ?」

「発電所、工場地帯、氷やダイヤモンドの鉱山、ルナスケープの宇宙船発着場……それと月面都市ができる前からあった建物ね。そのほとんどが古い研究施設。私たちが行く月面ラボもその施設のひとつよ。」

「そこはだいじょうぶなのか?」
 月美は言った。
「その……古くて。」

「なんの話?」

「だって、ここ宇宙空間だろ? 古い建物だなんて危なくないのか?」

「宇宙は危険なところよ。」

ユエはツンと答え、それ以上なにも言わなかった。
月美もそれ以上なにかをたずねることができなかった。

たいした用もないのに、とくに不機嫌なときに、話しかけてはいけない人間がいることは月美も知っていて、その最たる例がユエだと思ったからだ。
ほんとうはアルジャーノンとの関係を質問したかったけれど、ユエよりもアルジャーノンにきいた方がいいだろう。
月面マグレブを手配して、ここまで連れてきてくれたお礼も言いたかったけれど、感謝の気持ちは別れ際に伝えようと思った。

月美は窓の外を見た。
こんなにも色のない世界があるのかと思った。
黒いだけの空、灰色の砂漠、たまに見かける忘れ物のような岩。
それだけだ。

何億年待ったところでここではそよ風すら吹くことがない。
月は生まれて間もなく死んだ星だと実感できた。
見ているだけで怖くなる風景なんて、ここ以外そうはないだろう。

でもユエは、そんな月の地表を見ても何も感じていなかった。
見てもいなかった。

仮想空間に入りびたりのようで、ここではないどこかの景色を見ていた。
さっきのアロハシャツの人物から報告書をもらって仕事の続きをしているのかもしれない。
仮想空間でゲームをしているのかもしれない。
ハルルという電脳秘書とたまに会話をしている。
いずれにしろ通勤途中の地下鉄のような気軽さだった。

月面ラボとはいったい何なんだろう、と月美は思った。
このマグレブという乗り物はとある研究施設に向かっている。
そこにアルジャーノンがいるとのことだ。

アルジャーノン以外に誰がいるのだろう? 
何が月美を待ち構えているのか。
月美はいったい何をすればいいのか。

わからない。
いい年こいて、自分の出生の秘密をしらない魔法使いの男の子のような気持ちになった。
行く先には不安しかないけれど。

魔法の城のかわりに見えたのは、茶碗を引っくり返したようなドーム型の施設だった。
窓からたくさんの光がこぼれてる。
夜おそくやっと家に帰りついたような、そんな気分になった。

月面ラボ、月美のほんとうの職場らしい。


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