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月面ラジオ { 24: "宇宙(2)" }

あらすじ:(1) 30代のおばさんが、宇宙飛行士になった初恋の人を追いかけて月までストーカーに行きます。(2) 月美はついに宇宙にやってきました。

{ 第1章, 前回: 第23章 }

暗い窓が鏡のように月美を映していた。
像の向こうでは、宇宙がどこまでも拡がっている。
月美の長い黒髪は、宇宙に同化したようで見えづらかった。

月美はホテル・ラグランジュの寝室にいた。
灰色のとても静かな一室だった。
古い映画の中にいる、そんな気分だった。

銀ねずみ色の壁は、月の岩を加工したものだろう。
この無機的な部屋に立つと、月の上にいるようだった。
もうしわけ程度の観葉植物は、すべてイミテーションにすぎない。

小さな部屋だけど、天井でも過ごせることを思えばゆとりはある。
目につく調度品といえば、ベッドぐらいか。
窓のすぐそばにあるので、寝ながら宇宙を眺められそうだ。
ただ、ベッドを使わず空宙で寝てしまう人の方がずっと多いらしい。

クローゼット以外の収納はなかった。
もともと荷物は少ないし、あったとしても好きな場所に浮かべておけるので、とくに気にならなかった。
勝手に飛んでいったら困る歯ブラシ、くし、化粧品のような小物は、マジックテープで洗面台の横に貼り付けてあった。

すこぶる一般的な部屋ではあるけれど、立地が少しばかり特殊なせいで、他のどのホテルと比べても高価だ。
月美の給料ではとても手が出せない。
ほんとうはラグランジュ港を経由してそのまま月に行くつもりだったけれど、陽子がホテルの宿泊費を出してくれた。
この一室は陽子からの就職祝いなのだ。

ここでぼんやりしながら宇宙を眺める時間はなによりも贅沢だろう。
でも、ここで眠ってしまうのももったいない。
せっかく宇宙に来たのだから月美は遊びに行きたかった。
買い物だってしたい。
それに、今夜は月食が見られる。

月食は、月が地球の影に隠れてしまう天体イベントだ。
日食のように月が消えてしまうのだ。
地球にいてもめったに見られるものではないし、しかもそれを宇宙で観測できるだなんて、こんな幸運はなかった。

「ちょっといいかな? 聞きたいことがあるんだ。」

月美は窓に向かって話しかけた。
もちろん頭の中が壊れたわけじゃない。
その証拠に「話しかけた相手」の姿が窓に映った。
人の姿が反射しているわけではなく、窓がディスプレイになって映像を映しているのだ。

古典的なベルボーイハットをかぶったホテル・ポーターだった。
真っ赤な制服を着た中東系の男で、二十歳くらいに見える。
本物の人間ではないという点を除けば、どこにでもいる普通の青年だった。

「アリともうします。」

映像のポーターが、窓の中でうやうやしくお辞儀をした。

「二日間、西大寺様のお世話をさせていただきます。爪切りの御用達から、ラグランジュのツアー予約まで何でもお任せください。話者が五百人を超えるいかなる言語も話せますので、通訳としてもお呼びいただけます。ご覧の通り、私は中東出身者の姿を模しています。人種、性別、年齢、顔つきは、西大寺様のいかなる生得的特性や信条と関係なく、ランダムで決められています。容姿の変更は原則禁止されていますのでご容赦ください。」

「よろしく、アリ。あんたはカッコいいし、覚えやすい名前で助かるよ。」

「正式な名前はもうすこし長いです。また、私を制作した企業の名称、型番、及びバージョンも名乗ることが許されています。もし人工知能の仕様に興味がございましたら、ですが。」

「月食を見に行きたいんだ。どこで見られるかな?」

「展望室つきのカフェラウンジがよろしいかと。ユーラシア・モールの第三層にございます。」

窓に地図が映し出された。
展望台までの道筋が青色の線で示されていた。

「遠いんだな。」

「大きな施設ですので。」
 地図の隣に立ってアリが説明をした。
「宇宙が初めての方ですと、片道で平均四十三分を要します。慣れてしまえば十分でたどり着くのですが。よろしければブースター付きの補助ロボットをお供させます。」

「いらないよ。無重力に早く慣れたいしね。それに、ショッピングモールも見て回りたいんだ。」

「展望台の他にも月を望めるレストランがございます。ご予約をなさいますか?」

「ひとり身でレストランを予約してもさみしいだけさ。」

「承知いたしました。気をつけていってらっしゃいませ。ショッピングモールなど広い場所へ出かけるときは、かならずマグネティック・インソールを靴にご着用ください。さもないと子供の手を離れた風船のような目に合います。」

アリが真横に一歩退いた。
すると裸足の女の人が、宇宙空間の向こうから飛んできた。
裸足女は、錐揉みしながらもがいていたかれど、結局、なす術なく背中を窓に打ち付けた。
映像だとわかっていたのに、月美は「わっ」と声を漏らしてしまった。

「マグネティック・インソールの説明をもう受けましたか?」

アリが女性用の靴を手渡すと、女は頭をこすりながらそれを履いた。
それから何事もなかったかのように、無重力の中を歩いて行って窓枠の外に消えた。

「着用すれば、無重力空間でも磁界の力で姿勢を制御できます。もちろんただの磁石というわけではなく、超電導物質に対する磁界の作用によって……」

「いいよ、そのへんの説明は。私もくわしいほうなんだ。」

「承知しました。この窓のように手頃なインタフェースがございましたら、すぐに参上できます。気軽に声をおかけください。ただ、残念ながらネットグラス、及びネットコンタクトの使用は、控えていただくようお願いしています。仮想空間と五感を強く結びつけるものは、宇宙酔を誘発します。同じ理由で、宇宙に来た初日は飲酒を控えるよう推奨しています。」

「努力するよう推奨しておくよ。」

月美はお酒を飲まない日のほうが少ない。
それも圧倒的に。

「お気をつけていってらっしゃいませ。」

アリの姿が消え、窓はまた元の暗い宇宙を映した。
月美は部屋をあとにした。

月美はユーラシア・モールの吹き抜けの空間にたどりついた。
遊歩道の手すりに捕まり、モールを眺めた。
地上のモールだっていつもお祭りさわぎだけど、ラグランジュときたらその規模は唯一無二だった。
世界の大手ショッピング・センター七社が、共同出資して建てただけのことはある。
五番街やタイムズスクエアのように、無尽蔵の人種が眼下を流れていた。
一方で、天井にもたくさんの人が歩いていて月美はド肝を抜かれた。
ここにいるだれもが夢に浮かれているようだった。
かつて夢物語でしかなかった宇宙旅行が、いま現実となったのだ。

ラグランジュ城のショッピング・モールは、「ユーラシア」、「アメリカ」、「アフロ」の3つの区画に分かれている。
それぞれが、正気を疑うほどたくさんのアパレルショップと、数百人を同時に虫歯にできるほどのスイーツショップを出店していた。
宝石屋のショーウィンドウには、無数の宝石が星のように散らばっているし、トルコアイスの屋台は、いつまでたっても長蛇の列だ。
キャンディショップには、透明のケースが配管のように張り巡らせてあり、その中を流れるキャンディーはまるで虹色の滝だった。
ほかにも五つ星のホテル、キャラメルの匂いが染みついた映画館、五百席の劇場、月を見上げるレストラン、地球を見おろすカクテル・バー、民族料理専門のフードコート、アスレチック、スパ、カジノ、コンサートホール、遊園地と何でもこざれだ。
ガラスドームのプラネタリウムも名所の一つで、ほんものの宇宙を眺めながら星の勉強ができるらしい。

スポーツセンターもあった。
宇宙を眺めながら建てものを周回するジョギングコースがとくに人気だ。
宇宙遊泳の体験もできるし、宇宙船外活動の免許取得講座も開講している。
どれも予約がいっぱいで、月美は一泊だけの旅程が恨めしかった。

ラグランジュの中でいちばん混んでいるのは水族館だ。
宇宙では、水槽の水は巨大な球となり、シャボン玉のように浮かんでいるそうだ。
次に来た時はかならず水族館によろうと月美は決めた。

吹き抜けの真ん中にカフェテリアを見つけた。
なんと、お店そのものが空宙に浮いていた。
空飛ぶイスに座り、ストローでコーヒーを飲みながら、客は世界中の言語で談笑をしていた。

真剣な顔つきで服を試着する女性がいた。
重力がない分、スカーフひとつをとっても、着こなしが地球とちがうのだ。
ドレスのロングスカートなんて、風に吹かれたカーテンよろしくはためきっぱなしだ。

床と天井に立っている二人組のピエロが、ボーリングのピンを投げあってジャグリングをしていた。
たまにどちらかが失敗してケンカになるけれど、相方と押し合うたびに、二人の体は明後日の方向へ飛んでいったので、それを見ていた人はみんな笑った。

子供を風船のように浮かべ、手をつなぎながら散歩をする父親がいた。
なにがそんなにおもしろいのか、子供はけたたましく笑っていた。
アクロバティックなポーズに挑戦する旅行者たちがいた。
友人を持ち上げて力持ちのふりをするのが入門編で、慣れてくると、空宙で手を繋いで花のような模様を描くようになる。
ラグランジュで結婚式を挙げる恋人たちもいた。
白い花びらにまみれながら空中で記念撮影をしているのがちょっぴり羨ましかった。

雑踏のあいだで忙しそうに働いているのは愛くるしいロボットたちだった。
無重力空間をたくみに泳ぎながら、床に降りられない人を手助けしたり、漂うゴミを掃除したりしていた。
宇宙こそロボット産業の最先端だと聞いていたけど、まさかこんなにたくさんの機種をお目にかかれるとは。
ロボット工学が専門の芽衣は、ここに来て叫び出しそうなほど興奮したにちがいない。

さすが宇宙の城、ラグランジュといったところか。
けれど月美が何よりも驚いたのは、ラグランジュがいまだ建造中という事実だった。
拡大する宇宙経済に合わせて増築をつづけ、完成するのは七三年後と言われている。
いまは大富豪相手に販売する住宅セクションの開発が急ピッチですすめられているそうだ。
ラグランジュはまもなく世界最高度の不動産市場となる予定だ。

宇宙に物件を持つのはどんな気分なのだろうかと月美は思う。
それともう一つ気になることがある。
ここの住所はいったい何番地にになるんだ? 


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