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月面ラジオ {44 : フンザ }

あらすじ:大昔、世界の果てまで家でしたときのことを彦丸は振り返る。

{ 第1章, 前回: 第43章 }


青野彦丸がエリンと出会ったのは、彼がまだ高校生のころだ。
廃墟の天文台への不法侵入がばれて学校を停学になり、ふと思い立って世界を旅していた時、パキスタンのフンザという地で彼女と出会った。
エリンは宇宙飛行士で、彦丸と知り合ってから十数年後にロケットの事故で死んでしまうのだけど、そうでなければユエとアルジャーノン、ふたりの母親になるはずだった。

エリンと出会った日は曇りがちだったと記憶している。
雲の合間から青空は見えていた。
でも、せっかく世界の果てのような所までやってきたのだから、遮るものがない空だけを見たかった。

夜になったら星空を撮影して、その写真を月美と子安に送るつもりだ。
青空はあきらめるにしても、満天の星空は見逃したくない。
夜までに風がなんとか踏ん張って、残っている雲をさらってくれないだろうか? 
そんなふうに悶々としながらテントにこもって夜を待っていた。

滞在先の村でもらったイモの煮物を薄焼きのパンに包んで食べながら彦丸は思った。
旅先での食事ほど心ふるえるものはない、と。
これが地球での最後の旅と思うとなおさらだ。

国境を超えて、パキスタンの山奥まで十九時間もかけてバスでやってきた。
村で水を買ってから、夜空の撮影場所を探して三時間も歩き回った。
村外れの丘にテントを設営した。
もうクタクタだ。
たとえこの煮っころがしがここらでいちばんの粗食だとしても、他のどんなモノだって胃袋に入れる気になれない。
イモとパンだからこそいいのだ。

アンズの乾物を口いっぱいにほおばって彦丸は食事の片付けをした。
テントを出て川まで降りて顔を洗いたかったけど、それだけの体力は残っていなかった。
川べりまで行ったとしれも、その場でへたりこんで動けなくなってしまうかもしれない。
だからタオルで顔を拭くだけにしておいた。

ふらふらの体ながら、なんとか力を絞って彦丸は装備品の点検をはじめた。
正直なところ、足りないものがあったところで何ができるわけじゃない。
顔を洗うことすら諦めたくらいなのだから、村に戻って補給なんてムリな話だろう。
でも、テントで寝るときはいつだって点検を欠かさないし、そうしないと気がすまないのだ。
僕はそういう性格なのだ。

「さぁやるぞ……」

ドライフルーツと缶詰のスープは? 
残っている。
撮影機材とランタンの燃料は? 
充分だ。
ふもとの街で買った中古の文庫は? 
つまらなかった。
カバンにしまっておこう。

なにも問題はなさそうだ。
すばらしい。
記憶している備品の在庫数と、実際にこのテントの中にあるものの数がすべてピタリと一致している。
ただひとつ問題があるとすれば……そうだな……体がフラフラすることくらいだ。
うん……頭もくらくらしているみたいだ。

風邪なのだろうか? 

いや、それはないだろう、と首を振った。
ついさっきまで体に異変はなかったのだ。
歩いてこの丘までやってきたわけだし、テントの設営だってできた。
イモとパンも平らげたところだ。
きっと長旅の疲れが、いきなり押し寄せてきたせいだろう。
確かにほんのちょっぴり辛いけど、でもそれだけだ。
寝れば、またいつもどおり動けるさ。

そう思うに至り、彦丸は寝袋をひろげ、その上にさらに毛布をかけて寝る準備をした。
ダーンボールのような厚さのセーターをシャツの上に着こみ、寝袋にもぐった。
首都のイスラマバードは十一月でも暑いというのに、ここは高原だけあって冷えていた。
冬用の装備をそろえておいてよかったと彦丸は思う。
高校を停学した青野彦丸は、祖父とふたり暮らしをしていた家を飛び出して、はるばるパキスタンのフンザ地方までやってきた。

旅の始まりは、アメリカだった。
アメリカ行きの飛行機に乗ったとき、彦丸はちょうど十八歳の誕生日を迎えた。
これは偶然でなく、意図的なことであって、しかもとても大切なことだった。
世界中のどこに行っても、十八は大人として扱ってくれる数だからだ。

月美も子安もたぶん彦丸をまだ十七だと思っているだろう。
でもホントは十八で、子安よりも一つ年上なのだ。
父さんと母さんが交通事故で死んだとき、彦丸はしばらく入院していたし、それに外国の学校へ転校する手続きの関係上、留年をせざるを得なかったのだ。

最初にアメリカへ行ったのは、やることがあったからだ。
つまり、両親の遺産の正式な相続だ。
それまで彦丸は未成年で、両親の残した財産はすべて後見人の管理下にあって、自分のものであるにもかかわらず、一セントたりとも自由に使えなかった。
でも十八歳になれば、その状況が一変するのだ。
少なくとも法的には大人として認められ、お金は全て自分の意思で使えるようになる。
そのための手続きを終えると、銀行口座に今後十年は生活に困らないだけの額が振りこまれていた。

後見人は父さんの親友だった人だ。
彦丸も幼い頃から知っているので、実の所じいさんよりもずっと馴染みだった。
両親が死んだ時、大人になったらアメリカに戻ることを強く望んでいた彦丸のために彼は後見人になってくれた。

僕は彼に多大な恩がある。

彼と進路について話し合った。
彦丸は、アメリカの大学に進学して低重力建築工学を学び、宇宙に行くつもりだとはっきり伝えた。
宇宙を目指すにあたり、彼は彦丸を支援すると言ってくれた。
来年から住むアパートを借りるときの身元保証人にもなってくれた。

新しい生活を始めるための見通しがついたら、彦丸は飛行機のチケットを買った。
帰国するのではなく、メキシコのメリダへ行くチケットだった。
彦丸は、メリダからバスに乗って、「チェチェン・イッツア」を目指した。
古代マヤの天文台の遺跡を一度この目で見ておきたかったのだ。
チェチェン・イッツァだけじゃない。
彦丸は世界中の飛行機のチケットを買い漁った。
サマルカンドの「ウルグ・ベク天文台」、ムガル帝国の「ジャンタール・マンタール」、元朝の「北京天文台」……
およそ天文台と呼ばれる遺跡は何でも見て回るつもりだった。

古代の天文台を見たい理由はとくになかった。
旅に出ること自体が目的だったからだ。
知らない場所に行ってしまえば、自分の気持ちに蹴りがつくと思ったのだ。

月美、子安と別れてアメリカに行くのは、彦丸にとって辛いことだった。
ふたりは親友だ。
あいつらのためなら、僕はなんだってやってあげることができる。
心の底からそう思っている。
でも、月美と子安が僕と同じ道を歩まない限り、僕がふたりと同じ時間を過ごすことはもうないだろう。

別れなくちゃいけないから、あいつらがいないことに慣れておかなくちゃ。
この旅で僕はひとりになるつもりだ。
でも、それはたまらなく寂しい。
友だちがいるのが、こんなにも辛いことだったなんて。

彦丸は、寝ている時に昔のことをよく思い出す。
廃墟の天文台に泊まって、月美たちと天体観測をした思い出だ。
まだ天文台に電気を通していなかったころ、備え付けのハンドルを回して天井のスリットを開け、手作りの望遠鏡を置いて星の観測をした。

天文台がなくなったのは残念だけど、心の中でちょっぴりほっとしていた。
あそこは居心地がよく、なんならずっと住んでいたいと思った。
でも、天文台を修理したって宇宙へ行けるわけじゃない。
天文台が取り壊された時はほんとうに悔しかったけど、でもおかげで踏ん切りがついた。

じいさん……
二年間いっしょに暮らした祖父ともお別れだ。
両親が亡くなるまでは、ほとんど顔を合わせたことがなく、縁の薄い親戚だった。
ひとつ屋根の下に住んでいても盛んにしゃべることはなく、いっしょにごはんを食べる時だって黙々と食べた。
それでも離れ離れになるのは寂しいものだ。

じいさん……
いつもきつくシワを寄せて、いかつい顔をしながら洋菓子作りをしていたっけ。
おかげで休日ともなれば、彦丸のカロリーの大半はグラニュー糖とバターから補充されることになったし、よくご相伴にあずかりにきた子安は、奥歯に特大の虫歯をこさえた。
もう食べられないと思うと、じいさんのマカロンの味が懐かしい。

じいさん……
その栗の渋川のような顔が、僕の頭の中でぐるぐると回っている。
さっきからずっと回っている。
クルクル、クルクルと……

うそだろ……
彦丸は、目玉にべっとりと張り付くほど重たいマブタを上げた。

とうとう現実から目を逸らせないほどひどい状況になったようだ。
自分が風邪 (あるいはもっと別の何か) だと、はっきり認めなければならなかった。
めまいがする。
体中から悪寒がする。
疲れているのに、まったく眠れる気がしない。
少なくとも数時間休んだくらいで回復するような代物ではないだろう。

最悪だ……
夜になったら撮影をしなくちゃならないのに。
星空の写真を……
月美と子安に送るための写真を撮る……
今夜が最後の撮影だというのに……

長い放浪の旅ももう終わろうとしていた。
彦丸は、明日になったら首都のイスラマバードに戻り、それから帰国しなければならない。
フンザに着いたばかりだというのに、今夜がもう最後の夜なのだ。
できることなら、せめて一週間はフンザを歩き回り、その後一ヶ月は他の国をさまよっていたかった。
でも、そうはいかない事情があった。

事情というのはつまりこういうことだ。
高校の教師から連絡があったのだ。
停学があけても彦丸が登校してこない、友人に事情を聞いてみれば、誰の許可もなく外国に出かけている……
これは由々しき事態だ、と。
しかも、そんな必要はどこにもないのに、わざわざパキスタンまで彦丸を迎えに来るという。
迎えが来るまで、おとなしくイスラマバードのホテルに待機していろとのお達しだ。

「ほっといてくれ!」

最初に連絡をもらった時は思わずそう叫んでしまったし、思い返すだけでもまた叫びそうになる。
すでに寝袋の中でうなされているというのに、彦丸はさらに熱を上げだ。
それからため息をついた。
フンザに来る道中のバスで教師から連絡が来るまで、自分が停学になっていたことを忘れていた。
停学期間はとっくに開けていて、高校へ通わなければならないことも併せて忘れていた。

彦丸は、いまの高校にもう用はなかった。
授業はかんたんで受ける意味がなく、もうかなりの日数を休んでいる。
アメリカに戻ると決めた今となってはなおさらだ。
アパートを借りることができた時点で早々に退学するつもりだった。

教師のことは気にせずそのまま旅を続けたかったけど、彦丸はいっしょに帰国することにした。
これにも理由がある。
六千キロの彼方から自分を迎えにきた人を待ちぼうけさせるのに引け目を感じるからじゃない。
そんなまともな感性があるなら端から失踪なんてしない。
そんなことよりも、教師に逆らってこのまま不登校を続ければ、退学処分を受ける可能性があった。
それが困るのだ。

自主的に退学する所存ではあるが、退学させられるのは非常にまずい。
向こうの高校に転校するにしても、大学を受験するにしても、いまの高校の成績や学校生活の態度は入学の判定に大きく影響する。
停学の末に退学処分となったら、希望の学校に入れないかもしれない。
移住に先立って自分から退学するのとはわけがちがう。
だから、まことに勝手ながら、退学させられる前に自ら退学を宣言させてほしいのだ。

頭の中を思考がぐだぐだ駆け巡った。
でも結局はこういうことなのだ。
二十四時間かけて山奥くんだりやってきて、寝て写真を撮って、また寝て朝には帰宅。
体を壊した。
これ以上うんざりすることはない。

写真の撮影をあきらめて、せめて今晩はゆっくりと休むという選択肢もあった。
でも撮影を中止する気はさらさらない。
無理して写真をとる必要があるのかといえば、たいそうな理由じゃぁない。
月美が喜んでくれるからだ。
彦丸がメールを送れば、月美は喜んでくれる。
彦丸はそれがうれしかった……

月美……

みんなに言わせれば僕は無神経の唐変木で、宇宙にしか興味のない変人だけど、それでも月美が僕を好きなことくらいはわかっている。
月美の気持ちには気づいていた。
でも僕は何ひとつ彼女に応えてあげることはできなかった。
いつか離れ離れになることはわかっていたからだ。

むしろその気持ちを拒絶したほうが、月美のためだったかもしれない。
僕のために月美が過ごした時間を思えば、もっと早くそうしてあげるべきだった。
でも拒絶することは、どうしてもできなかった。
こんな僕のことを好きになってくれる人なんてもう二度と現れないだろう。

僕がいなくなれば、月美は悲しむだろうか。
悲しむかもしれない。
憎むかもしれない。
でもいつかは僕のことを忘れ、その気持も風化してしまう。
そうなれば月美はもう悲しむことはない。

月美と会うことはもう二度とない。

「こんにちは……」

まもなく意識がまどろんできた。
いつのまにか体の辛さも薄らいでいった。
やっと楽になれると彦丸は思った。
でも外から人の声が聞こえた。
幻聴だろうか……

「こんにちは。中に誰かいますか?」

ちがうようだ……
こんなところまで人が訪ねてくるものだろうか? 
ほんの一瞬、高校の教師の顔が脳裏をよぎったけど、そんなはずはなかった。
まだパキスタンについていないし、ついたところでフンザまで来るのに丸一日かかる。
なら外で僕のことを呼ぶのはいったい誰なんだ? 
彦丸はため息をついて寝袋のファスナーを開け、体を起こした。
テントから這い出ると、風が正面から吹きつけた。

地球より大きな人間が、フォークやスプーンで大地を削ればこのような光景ができあがるのだろうか? 
ここまでの道中、バスの窓から見た谷間や、屋根のすきまから見た空に何度だってため息をついたわけだけど、それでもテントから出たとたん、いま生まれたばかりのように目の前の景色におどろいてしまった。

彦丸はフンザ渓谷のただ中で立ち上がった。

岩山が谷をつくっていた。
その斜面は崖と呼ぶほうが話も早いだろう。
でも雲の向こうの山々の連なりにくらべれば、このむき身の岩山でさえ公園の遊具ほどでしかなかった。
「世界の屋根」と呼ばれるあの大連峰は、陸のような氷河を帽子の代わりにしていた。

峡谷はところどころ紅葉と枯れ枝の交じる季節になっていた。
丘から針葉樹の林を見下ろせば、色あせたツクシのようだった。
遠くの村でこどもたちが遊んでいるのが見えた。
道ばたの樹と庭の草は緑のままだった。

再び風が吹き、テントの表面が波打った。
すぐそばに女の人が立っていた。
彦丸は、エリン・エバンズと出会った。


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