月面ラジオ { 27: "月面都市" }
あらすじ:(1) 30代のおばさんが、宇宙飛行士になった初恋の人を追いかけて月までストーカーに行きます。(2) ついに月までやってきました。これから就職先の会社に向かいます。
◇
◇
「顔色がすぐれないようです。宇宙酔でしょうか?」
白人の入国審査員がたずねた。
顔色を気にするわりに月美を見ているわけでもなく、彼女の言葉に感情はこもっていなかった。
「飲みすぎただけだ。気にしないでくれ。」
月美は答えた。
頭が痛くて、感情をこめる余裕もなかった。
「くれぐれもご自愛を。」
審査員は続けた。
「アルコールへの依存が認められる者、あるいは極度に酩酊するまで飲酒を行う者は、地球への帰還を命じられることがございます。」
「悪かった。もう二度と飲まないよ。」
これまでに何度もついてきた嘘を月美はついた。
ドキドキしながら次の言葉を待った。
数秒がこれほど長いものかと思える時の中で待った。
まもなく審査員は固く結んでいた口を開いた。
その声は和らいでた。
「西大寺月美様の入国を許可します。月へようこそ。」
「ありがとう。」
月美はホッとした。
やっと月に入ることができた。
もちろん月美がいま立っている場所はふわふわ重力の月面だ。
とっくに月に到着している。
でも、すべての国とすべての政治的に複雑な地域がそうであるように、港に到着したらまずは入国審査を受けなければならない。
月にだって審査はある。
それも「人類史上唯一無二の安全管理基準」というとびきりの看板を掲げているやつだ。
入国審査に合格しなければ、タクシーに乗ってホテルに行くどころか、この審査室から出ることもできないのだ。
健康上・精神上の問題、未申請の物品の持ちこみ、書類のまちがい……
地上であればちょっとしたシミのような問題でも、宇宙で見つかれば、安全管理という金科玉条の理由のもと強制送還もありうる。
審査という最後の壁を乗りこえた今こそ月美は月に到着したのだ。
月入りを果たしたばかりでもう疲れが湧いてきた。
健康診断ではたくさんの注射で採血され、口の中を綿棒でかき回された。
まるで動物の検疫検査みたいに。
決して月に感染症を持ちこませないよう、渡航者の体をすみずみまで調べているのだ。
月美の場合、重度の喫煙者だったので「月での生活がはじまっても禁煙セラピーを定期的に受けるように」というお達しが出た。
月行きが決まって以来ずっと禁煙してきたし、セラピーなんてめんどくさいものは御免こうむるという月美の主張は却下された。
靴の底や、服の裏地の縫い目までを調べる保安検査は、骨の髄まで覗きこまれる気分だった。
月ではマッチ一本の持ちこみですら銃器の密輸あつかいなのだ。
骨の髄にマッチをいれて持ちこむ技術が開発されたら、きっと骨の髄まで調べられるにちがいない。
ほかにも経歴や国籍に詐称がないかを調べる抜きうちの査問、複数の身体認証を用いた本人特定、就業ビザの確認などなど……
厳しい入国審査だった。
人生をかけて月までやってきた。
なのにここで入国できなかったら本当にショックだ。
泣くだけでは済まない。
血の涙が出ただろう。
「あずかった荷物をお返しします。」
審査員が机の下から月美の私物を取り出した。
検査の際に預けていたものだ。
「砂時計型のアクセサリー、それからネット・コンタクの二点でよろしいでしょうか?」
「よろしいですとも。」
月美は品を確かめた。
どちらも見に覚えのない傷がついているなんてことはなかった。
むしろ入れ物のホコリがキレイに取り払われていたほどだ。
「大事に扱ってくれてうれしいよ。」
月美は言った。
「ふたつとも大切な人からの贈り物なんだ。」
「すてきですね。」
審査員は言った。
「ネット・コンタクトでしたら、空港で装着するのがおすすめです。月面都市は仮想空間で多種多様のサービスを提供しています。月面での生活及び観光サポート機能は、電脳秘書に自動でプラグインされます。より詳細な情報はご自身の秘書に尋ねるのがよろしいかと。」
「ありがとう。」
月美はお礼を言って審査室を出ていった。
◇
二〇〇メートルほど沈んだころだろうか。
空の色につつまれた。
鳥や飛行機だけが見られる大景観だった。
「本当だったんだ。」
月美は、乗り合わせた子どもたちと一緒になってエレベーターのガラスに張りついた。
「彦丸の言ったとおりだ!」
足元に都市があった。
人工の太陽光がまぶしい月の街だ。
エレベーターが下がるにつれ、その展望は徐々に詳細化していった。
鉄の角材を大地の底に刺したようなビルの群れがこちらに迫ってきた。
子どものころ、大好きだった人が月に街をつくると言った。
この目で見るまで月美は彼の言葉を信じることができなかった。
彼はいま月に住んでいる。
何年も遅れたけど、月美もたどり着いた。
夜空を見上げながら思い描いた場所、夢にまでみた場所がここだ。
エレベーターは地の底まで進み、月美を月面都市へと運んでいった。
◇
ほんの二日前までは錆びだらけのアパートで暮らしていた。
それがいったいどういう変わりようだろう。
昨日は高高度旅客機に乗って、衛星軌道のホテル「ラグランジュ」で一泊した。
そして本日、今日、たったいま、月美は月面都市に降りたった。
地底に街があることにまずおどろいた。
洞窟の中なのに豪華な摩天楼があるのだ。
ビルとビルのあいだには無数の橋があって、枝同士でつながっている木々のように見えた。
頭上はるか高くに位置するその橋の上を、小さな哺乳類や虫の代わりに、人やロボット、果ては車やモノレールが行き交っていた。
月美はショッピングストリートにいた。
広場からまっすぐ伸びる大通りで、小さなマロニエの樹が並んでいる。
都市と空港を往復するエレベータの駅舎からほど近くの区画で、朝だというのにたくさんの観光客が歩いていた。
七人組の大道芸人がピエロの格好でが肩車をしたり、ボーリングの玉でジャグリングをしたりしているのに月美は目を奪われた。
いまだに建設中の区域(そういった場所は、巨大重機の大博覧会の様相を呈す)も多く残る月面都市において、ここは早くから観光客に開放された区画であり、人類史上もっとも歴史のあさい歴史的街道だ。
月の石でできた大きな建物にトロワジエム・ローゼス(ドアマンが待ち構えている高級ブランドの服屋だ)が旗艦店をかまえていた。
劇場や映画館もたくさんある。
歩道の一列は透明なガラスでできていて、その下に小川が流れていた。
たまに魚が泳いでいくのが見えると、道行く子どもたちが指をさして喜んだ。
小川の水は、月面の氷鉱山で採掘されたそうだ。
月面都市の開発の成功と経済発展は、月の豊富な水資源を抜きで語ることはできない。
きけば、月面空港とは反対側の断崖に、地表からふりそそぐ大きな滝があるそうな。
月に滝。
おったまげだ。
でも、そんなことよりももっと驚くべきものがあった。
「空だ……空がある。」
月美は月面都市の天井を見上げた。
人工の太陽光が、五月の喫茶店のような鮮やかな色を放っていた。
「ほんとに青空なんだな。洞窟の中なのに……それに……あれはいったい何だ?」
月美は都市中央にあるビジネス市街のビル群を見ていた。
その摩天楼をかするくらいのところに何かがあった。
クジラのような、あるいは城のような、でもそれよりもずっと大きな何かが人工の空を漂っていた。
巨大なビルさえも覆い隠してしまうその建造物は宇宙船だった。
科学と技術の粋を尽くした都市に宇宙船が浮かんでいる。
まるで映画のような光景だった。
むしろ映画そのものと言ったほうがいいかもしれない。
なにしろいま月美が見ている光景は、ネット・コンタクトが見せる「仮想空間」なのだから。
ネット・コンタクトは世界を上書きするデバイスだ。
一見してただのコンタクトレンズだけど、そこにはないはずのモノ、いないはずの人を、あたかもそこにいるかのように見せてくれるのだ。
月美が宇宙に旅立つ日、空港まで見送りに来た子安くんがくれた。
上空の宇宙船は本物でなく、ネット・コンタクトの見せる幻だった。
世界最大の宇宙船メーカー「ルナスケープ」の映像広告なのだ。
「ご覧になっているのは、月の衛星軌道上で建造中の木土往還宇宙船です。」
じっと宇宙船を眺めていると、ふいに心地よい女性の声が聞こえた。
背の高い女性が月美の横に立ってそっと耳打ちしたわけじゃない。
その声は、耳のうしろに貼った骨伝導式のシール型イヤホンからだった。
「私たちルナスケープ社は、人類初となる木星および土星の連続探訪を目指しています。完成すれば史上最大の宇宙船となり、その力と速さは歴代のいかなる船をもしのぎます。千人を超えるクルーを収容し、往復十年の渡航を可能にさせます。擁するエネルギーと経済規模は、まさに都市のそれです。」
「今年からクルーの募集がはじまります。」
姿なき女性は続けた。
「航空エンジニア、ロボットエンジニア、船外活動スペシャリスト、航宙士、ジャーナリスト、そして科学者の募集枠がございます。私たちといっしょに外惑星を探訪しませんか? ルナスケープは西大寺月美様の応募を心よりお待ちしております。」
「木土往還宇宙船……あれが芽衣の乗りたい船か。」
ほんとうに大きい。
探査船というよりも、むしろカリブの洋上を行く豪華客船だと月美は思った。
千人収容、十年の船旅。
目指すは未踏の星ふたつ。
月美は必死こいて月までたどり着いたというのに、人類はもう次の星まで行こうとしている。
そして何よりも驚くべきは、その歴史的偉業を成し遂げんとするルナスケープが、これから月美の働く会社と同じ名前ということだった。
「冗談だろ? そんなすごい会社が私になんの用があるんだ?」
「それは行ってみてのお楽しみだね! 月美さん!」
「ワァァァ! 」
月美は悲鳴をあげた。
聞こえないはずの声を聞いてしまったからだ。
死んだ人と出くわしたようなそんなおどろきだった。
まわりを歩いていた人たちもびっくりして月美を見た。
七歳くらいの金髪の男の子もビクッとなってアイスクリームを落としてしまった。
「こ、子安くん!」
月美はあたりを見回した。
「いまの声、子安くんだろ?」
それらしき人影はなかった。
通行人はなおもジロジロと月美をみたけれど、その中にハリーポッターをアジア系の中年にしたような顔は見あたらない。
金髪の男の子は、恨みがましく月美を見たままだ。
「いったいどこに隠れているんだ?」
「隠れてなんかいないさ。僕ははじめからここにいるよ。」
月美の仮想空間に誰かがまぎれこんできた。
「誰」と言っても正確には人でなかった。
厚い胸板を表現した曲線的ボディに、おモチのような白い球の頭が乗っている。
頭の中心では、大きな目が青の光をはなっていた。
足はなく、空宙をプカプカと泳ぐそれは小型のロボットだった。
「そ、そちゃ……?」
月美は思い出した。
以前に芽衣の自作したお茶くみロボットだ。
それがネット・コンタクト越しに月美の視界を漂っている。
「粗茶一号! おまえ、粗茶一号じゃないか。」
「僕は粗茶一号じゃないよ。」
ロボットが青い目をまたたかせた。
どういうわけか声が子安くんとそっくりだった。
「じゃあ、なんなんだ?」
「粗茶二号さ。」
「そうか。」
「月美さんの電脳秘書を仰せつかっているよ。」
「電脳秘書? そんなことよりも、なんで声が子安くんなんだ?」
「僕を初期セットアップしたのが彼なんだ。そのとき声を自分のものに設定したのさ。」
「なんで?」
「プロポーズは断られたけど、いつまでも君に自分の声を届けたいんだってさ。」
「うわぁ……」
月美はうめいた。
「粗茶二号、お願いがあるんだけど。」
「もちろん。」
粗茶二号が言った。
「僕にできることなら何だって聞き届けるよ。」
「いますぐ声を変えてくれよ。」
「それはできないように設定されています。」
頭を抱えるしかなかった。
冗談じゃない。
月にいる間ずっと別れた男の声を聞けってか?
仕返しするにしたって陰湿すぎるじゃないか。
たぶん子安くんに悪気はないだろう。
月美もこの程度のいたずらで子安くんを嫌いになったりしない。
けれど、電脳秘書を自分の声で吹き替えてプレゼントすること以上に、趣味の悪いことも思いつかなかった。
「『僕は純粋にあなたを慕っているだけです』というのが彼からのメッセージです。」
「『気持ち悪い』というのが私からの返事だね。」
月美は言った。
とはいえ、悪いことばかりじゃなかった。
子安くんのおかげで、月美もついに仮想空間デビューをしたわけだ。
地球にいたころは興味なかったけれど、手に入ればそれはそれでうれしいものだ。
気を取り直して新しい相棒に道案内でもさせてみよう、と月美思った。
「ルナスケープに行きたいんだけど。」
「まかせて。」
胸を張って粗茶二号が言った。
そのとたんのことだった。
歩道と反対側の車線を走っていたタクシーが、あろうことか道の真ん中で停止した。
そしてそのまま横滑りをしながらこちらにやってきた。
タクシーがなんと横向きに走っているのだ。
しかも、ほかの車がビュンビュンと飛び回る大通りのど真ん中を、だ。
まるで予め申し合わせたように車同士でかち合うことなく、タクシーは流れる車のあいだを縫いながらやってきた。
月美はおっかなびっくりだったけど、何事もなかったかのように目の前で停まり、ドアが開いた。
「タクシーで行こう!」
粗茶二号が言った。
「たいしたもんだ。」
と、月美は言った。