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月面ラジオ {55 : 木土往還宇宙船 }
想い人の青野彦丸を追いかけて、月ではたらき始めた月美は、彦丸のいる会社「ルナスケープ社」に派遣されることになった。
◇
◇
「おどろいたな。本物の土のにおいだ。」
月美は言った。
「船の中にこんな場所があるだなんて。」
「中央庭園です。」
と、ロニー。
「この船で二番目に広い空間です。我々はここを『庭園』と呼んでいます。」
ここは、まさしく庭だった。宇宙船にあるはずのない庭なのだ。人工の陽光に照らされた植物が、黄緑色に輝いていた。樹木を取り囲むように数万本の低木と草花が植えてあり、その植物を取り囲むように(もしくは植物に取り囲まれるように)遊歩道が設置してあった。月美たちはその遊歩道を歩いていた。
しばらく行くと、歩幅にして三歩くらいの石橋があった。川が流れているわけではなく、代わりにパンジーの咲いた小道が橋の下を通っていた。東洋風の東屋があり、ぶどうが蔦をのばして屋根にからみついていた。植物は土の上に生えていた。地球では当たり前でも、ここでは驚くべきことだった。宇宙に土を持ちこむのはご法度だからだ。無重力だと、土の粒子が舞い散って、周囲の精密機器が故障する原因となるのだ。
「土は本物です。」
ロニーは続けた。
「ルナスケープが開発した特別な土なんです。土埃が舞いにくいように粘度を高くしていますが、植物の育成の妨げにならないくらいに調整しているそうです。目に見えない微粒子は散ってしまいますが、ロボットたちが掃除をしてくれます。みなさんが庭園を出る際も、宇宙服についた土を落とすために、一度クリーンルームに入ってもらいますのでご了承ください。」
「どうしてわざわざ土に植えるんだ?」
月美はたずねた。
「ラグランジュにも庭園はあったけど、水耕栽培した木や花を飾っているだけだった。」
「宇宙で暮らしていると、もっとも恋しくなるものが空と大地です。」
ロニーは答えた。
「空を見れば、天候が移りかわり、大地を見れば、昨日まで生えていなかったはずの植物が育っている。地球ではとくに珍しいことでもないのに、それを見れないというだけで心は沈んでしまいます。この船は、地球の自然を再現しようとしているのです。」
「よくわかるよ。月面ラボに来たばかりのころは、私もずっと牢屋にいる気分だった。」
事実、月美はホークショット教授に閉じ込められていたし、一度は脱走も企てた。
「出発してから十年も帰れないとなればなおさらです。だから庭園の工事は、他の場所よりも優先して行われました。植物が土に根付いているようで一安心といったところです。」
よく見れば、木々の梢や葉がわずかに揺れるときがあった。どうやってやっているのかはわからないけど、風まで再現しているようだ。
「芸の細かいこった。」
ホークショットがうなった。
「鳥やカエルの鳴き声も聞こえてきそうだ。」
さらに奥まで進んでいくと、看板のかかった店がいくつか見つかった。カフェにレストランに、なんとバーまであった。どれもまだ内装工事の最中で、どんな店になるのかはわからないけど、きっと庭園を望みながら食事をしたり、お酒を飲んだりできるはずだ。庭の中心には、これも建設中だったけど、映画館へとつながる下り階段がある。上を見れば、真っ青な人工の空があり、両端の壁面にたくさんのバルコニーが並んでいた。
「庭園の上層部はクルーの居住空間です。バルコニーからこのごきげんな庭園を眺めることができますよ。夜になればバーやレストランが開店するので、たくさんの人がここまで降りてくるでしょう。」
「この船にも昼と夜があるのか?」
「もちろん。月面都市と同じように、空は宇宙標準時にあわせて変化します。昼間の空は青く、夜の空は星が見えるといった具合です。いかがですか? これがルナスケープの木土往還宇宙船です。」
◇
月美、アルジャーノン、ホークショットの三人を案内しているのは、海パン男ことロニー坊やだった。ただ、ロニーの勇姿ともいえる海パン姿はいまは見られない。ロニーが宇宙服を着ているせいだ(その下に海パンを着ているかどうかは不明だ)。月美たちもみんなロニーの指示で宇宙服を着ていた。
「船に空気を満たしてからもう半年が経っています。それでも工事現場は宇宙服の着用が義務付けられています。ヘルメットをかぶる必要はありませんが、非常時にすぐ装着できるよう忘れずに携行してください。」
ロニーが月美たちのために説明した。
「仮想空間に経路案内が表示されます。その指示に常に従うようにしてください。警告を無視して立ち入り禁止の場所に入った場合、いかなる損害も自責となるので予めご了承のほどを。それから……」
ロニーがとうとうと述べているのをよそに、月美は船内を見渡し、内心驚嘆していた。想像していた船よりもはるかに大きな船だったし、船というよりも街そのものを作っているようだった。まさか庭園まであるとは。
芽衣にも見せてあげたかったな、と月美は思った。ここに来られるなら、泣いて喜ぶあいつの姿が見れただろうに。でも今日ここに招待されたのは、月美だけだった。信じられないことに、ここが新しい月美の職場なのだ。ここというのは、つまり木土往還宇宙船だ。前人未到の二惑星同時探訪をなしとげる船であり、あの青野彦丸が作っている船でもある。
あまり考えないようにしているのだけど、もしかしたら……ほんとに「もしかしたら」なんだけど、あいつとすれちがうかもしれない。あいつは私の顔を見て驚くけど、私はなんでもない調子で「よう、久しぶり」と言ってやるんだ。もちろんくだらない妄想だ。あいつは大企業の上役で、わたしは下っ端だ。民間の公共事業と呼ばれる大規模宇宙船建造現場において、私は万を下らない関係者のひとりにすぎない。近くにいるからといって、彦丸は会ったり話したりできるような相手じゃない。それでも、彦丸が困っている現場に呼ばれ、さっそうと問題を解決してその場を立ち去る自分の姿を月美は何度も想像してしまうのだった。
「ロニー、私はなんで呼ばれたんだ。」
月美はたずねた。
「ここで何をするんだ?」
「雨ですよ。ロニーは答えた。雨をふらせたいんです。」
「あ、雨だって!」
声をあげたのは、アルジャーノンだった。月美とロニーはふり返った。
「雨ってまさか……」
アルジャーノンは興奮で震えていた。
「水源もないのに空から水が落ちてくるっていうあの伝説の自然現象のこと? 一説では天に穴があいて、そこから水漏れするのが雨の原因だっていわれているけど……」
「無重力でどうやって雨なんてふらせるんだ?」
月美はアルジャーノンを抑えて尋ねた。
シャワーで水を放出しても、重力がなければ水は落ちず、宙を漂ったままになる。そして漂う水はとても危険だ。表面張力で水が顔にはりつけば、なんとその人は溺れてしまうのだ。ペットボトルの水でも溺死しかねないのが無重力の恐ろしいところだ。
「まさしく、それがあなたの専門性を必要としている問題なのです。」
ロニーは答えた。
「なるほど。磁気アルキメデスの原理の応用ってわけか……」
上野の科学博物館で、水を宙で操る実験を中学生相手にしたことを月美は思い出した。あの公開講座からもう二年も経ったのか……
「科学博物館で公演していたやつですよね?」
ロニーが言った。
「どうしてそれを?」
月美はおどろいた。
「講座を収録した動画が、ネットでけっこう話題になってましたよ。」
ロニーは言った。
「『西大寺先生の酔いどれ教室』ってタイトルです。」
「私の上司はどういう人なんだ?」
月美は顔を真っ赤にしながらたずねた。
「きつい人ですね。」
ロニーは答えた。
「ひと言で言えば、ホークショット教授みたいな人です。」
「それはきつい……」
月美は言った。
「ところでそのホークショット教授は?」
あたりを見回しながらロニーは言った。
「あれ……教授がいないぞ?」
「どこかに行っちゃったよ。」
アルジャーノンが答えた。
「『私は管理の外にいる人間だ』っていいながら。」
「勝手にうろつくなと言っただろ! あの……」
ここでロニーは、たとえ英語を理解できなくても、世界中の大抵の人が意味を知っている特大の罵り言葉を吐いた。
「すぐに連れ戻す。アル、君たちはここから一歩も動かないでくれよ。いいね?」
そういうと、ロニーは急いでもと来た道を引き返してしまった。ロニーの姿が樹木の影で見えなくなると、月美とアルジャーノンは顔を見合わせた。
「どうする?」
アルジャーノンが言った。
「どうするも何も待つしかないだろう。」
月美は言った。
「面接の時間に遅れなければいいんだけど。」
しかたなしにふたりは木や花を眺め、たまに頭上を飛んでいく建設作業員たちに手をふりながら時間をつぶした。
「そういえば、アル……」
「なんだい?」
「青野彦丸は、いまこの船にいるのかな?」
月美は、ダリアの花を愛でるフリをして、さり気なく世間話をする体を装った。
「いや、今日はルナスケープの本社にいるはずだよ。めずらしく、あっちでする仕事があるんだって。」
「そ、そうか……」
「ホークショットこそどこに行ったんだろうね?」
「さぁ? さすがにトイレってことはないだろうし……」
「わからないよ。あの人のことだから建設中のトイレのことが気になって、居ても立っても……」
アルジャーノンが固まった。
「どうした?」
月美はきょとんとした。
アルジャーノンは前方に目が釘付けになっていた。月美も釘付けになった。黒髪の女が、アルジャーノンをにらみつけながらこちらに向かって来ている。
ユエだ。ため息がでるほど伸びきった手足が、絹のダークスーツをまとっていた。度胸があるのか、無重力遊泳に自信があるのか、今日はスカートをはいている。漆のような艶のヒールが、コツコツと拍子をとりながら、庭園の遊歩道を踏みならした。
「まずい!」
アルはタンっと床を蹴って、月美の上を飛んでいった。空を飛んで逃げるつもりだ。
「ハルル。」
すかさずユエが言った。
「アルを連れ戻しなさい。」
とたんにアルジャーノンの体が空宙でピタリと止まった。それから紐で引っ張るかのごとく彼の体が、元いた場所に降りてきた。
庭園を満たす磁界は、ユエの制御下にあるのだろう。ハルルと呼ばれた電脳秘書が、アルの履いたマグネティック・ソール入りの靴をひっぱっているのだ。アルジャーノンは上半身をひねって抵抗のそぶりを見せたものの、たいした意味はなかった。
「自由の侵害だ!」
遊歩道に着地するなりアルジャーノンは言った。
「ここは建設現場よ。」
苛烈な表情とは裏腹に、ユエは静かな調子で言った。
「安全路からはずれちゃいけないって説明されたでしょ……ん?」
月美の存在にユエがやっと気づいたようだ。ユエは、食い入るように月美の顔を見た。それもかなりおどろいた様子で。
「どうしてあなたがここに?」
「月美は今日からここで働くんだ。」
アルジャーノンが答えた。
「雇ってもらえればだけどね。」
月美は言った。
「どうしてそんな話になっているの?」
ユエはきょとんとした。
「知らないよ。」
と、アルジャーノン。
「そっちの都合なんだから。月美はロニーにスカウトされたんだ。」
「ロニーが? あいつ、いったい何を考えているの?」
「ロニーに聞いてほしいね。」
「まぁいいわ。」
ユエは言った。
「そんなことどうだって……ほんとうにどうだっていい。」
「で、いったいなんの用だい?」
アルジャーノンは言った。
「これをあなたに渡しにきたの。」
アルジャーノンの前に紙切れが一枚あらわれた。彼の仮想空間に書類が映し出されたのだ。書類の輪郭は月美にも見えたけど、内容は秘密で、アルとユエにしか読めなかった。アルジャーノンは書類に目を落とし、すぐに顔を上げた。
「なにこれ?」
「『木土往還宇宙船クルー・宇宙船外活動スペシャリスト・第一次選抜試験』の応募用紙よ。」
長ったらしい文をユエは正確に読み上げた。
「まったく。あなたが私を避けるせいで提出がギリギリになっちゃった。必要事項はぜんぶ記入しておいたから。ほら、『趣味は健康的なジョギングです』ってちゃんと書いてあるでしょ。あと必要なのはあなたのサインだけよ。」
「おいおいどうしてユエがアルの進路を決めるんだ?」
月美は思わず口をついた。
「アルは地球に行くつもりなんだ。」
ユエがこちらを睨んだ。
「部外者が無責任なことを言わないで。私達ルナリアが地球にいけるわけないでしょう?」
「そっちこそ勝手に決めるな!」
アルは奮然となって言った。
「事実でしょう?」
ユエも言い返した。
「アル、もう子どもじゃないんだから現実を見なさい。その細い体で六倍の重力に耐えられるわけがない。あなたより体の小さな女の人が持ち上げる重りで、あなたは骨折してしまうのよ?」
まずい、と月美は思った。アルは、これまで見たこのない表情をして歯を食いしばっていた。ユエに飛びかかりたいのを我慢しているみたいだった。まさかそんなことにならないだろうと思いつつも、月美はアルを押し止める準備をした。
でも、ユエの方は止まらなかった。
「あなたは地球に降りられない。できもしないこと言ってないで、もう現実を見るの。いつまでも子どもじゃないんだから。」
「子どものなのはユエ、君の方だ。」
アルジャーノンが言った。
「なんでも自分の思い通りになると思っている。自分の考えと合わない人の意見は、ぜんぶまちがいだと決めつけている。」
「あたりまえでしょ。私の方が正しいんだから。」
「思い上がりだ。」
アルジャーノンが言った。
月美も同感だけど、一触即発のユエを刺激するようなことは、あまり言わないでほしいとも思った。
「そんなんだから木土往還クルーに選ばれないんだ。」
アルジャーノンは続けた。
「何を言っているの? 私が落ちるわけないでしょ?」
ユエはきっぱりと言った。でも、ほんのわずかではあったけど、声が上ずっているのを月美は聞き逃さなかった。
「合格通知は来てないだろ?」
アルジャーノンは言った。
「あたりまえでしょ? まだ審査が終わっていないんだから。私以外の審査が。」
「月美!」
アルジャーノンが言った。
「ユエにあのことを教えてあげて。」
おいおい、私に飛び火してきたよ……そう思いながら月美は答えた。
「アルの言う通り……エンジニアの二次選考の審査はとっくに終わっている。姪が試験を受けているから知っているんだ。姪は昨日の夜に合格が通達された。」
恐ろしいほど冷たい時間が流れた。立ち尽くすユエは、拳を握りしめながら、目の前を睨みつけていた。月美でもなく、アルジャーノンでもなく、何もないはずの空間を睨みつけている。まずい、爆発する、と月美は思った。
ユエが何か言いかけた。その瞬間、別の大きな声がしてユエをさえぎった。
「おっと、そこまでだガキども!」
ふり返ると、ホークショットとロニーがこちらに向かって来ていた。ロニーが、無断で姿を消した教授を連れて帰ってきたのだ。彼女の登場が、こんなにもありがたかったことはなかった。ホークショットは遊歩道に着地すると、さらに一歩進んでアルとユエの間に割って入った。
ホークショットはユエと面と向かった。教授はユエたちよりもずっと小柄だし、年齢も遥かに上だけど、それでもこの中では一番たくましそうに見えた。それほどルナリアの子は華奢なのだ。
「まったく……」
ホークショットは呆れ果てていた。
「いったい何をやってるんだい、あんたたち? 殴り合うなら、あれだ……私も混ぜろっていつも言ってるだろ?」