月面ラジオ { 39: ルナ・エスケープ再び }
あらすじ:初恋の人を追いかけ、月で働くことになった月美は、砂漠の僻地に閉じ込められ、脱走しましたが、逃げ場もなく戻ってきました。
◇
◇
まさか青野彦丸が結婚していただなんて。
しかも子どもまでいただなんて。
はじめて好きになった人が結婚している。
当たり前のことだけど、事実として突きつけられるとボディブローのようにきいてくるものがあった。
あいつは自分勝手だし、ぜんぜんモテないし、結婚しないものだと思ってた。
結局それは私の勝手な願望にすぎなかったわけだ。
「わかっていた……」
窓に映る自分の顔を見つめながら月美はつぶやいた。
ぜんぶはじめからわかっていたことじゃないか。
それは当たり前のことだって。
月美の乗る月面マグレブは、砂漠の舗装路を音もなく滑っていた。
まるで鉄板に置いたバターのようだった。
味気のない月の砂漠は、数ヶ月前に初めてここを通った時となんら変わらずその姿を保っていた。
「なんら変わらない」というのは単なる表現でなく、一字一句たがわず事実そのとおりだった。
雨も風もない月では何もかもが静止したままだ。
隕石でも落ちてこない限り、石ころひとつ動くことはない。
だから月美の見ているこの風景は、これから何ヶ月たっても、あるいは何千年たったとしても多分このままだろう。
はたしてそれを風景と呼んでいいのかと月美は思った。
人は変わりつづける。
生きていれば雨がふるし、風も吹くからだ。
青野彦丸だってもちろん変わる。
あいつなら嵐の中でも身をけずって走りつづける。
ある日、ある時、ある瞬間から変わらなくなってしまったのは月美だけだ。
青野彦丸と別れてから私はなにも変わっていないし、あいつに対しても同じでありつづけるよう望んでいた。
でもそれはありえないことだった。
「変わらないで」と願った者に残されたのは、この砂漠だけだった。
初めて青野彦丸と会った夏の日の朝、月美は彼を追いかけて一度あきらめた坂道を登りきった。
自転車のペダルを踏みしめて、汗まみれになりながら廃墟の天文台で彼を見つけた。
あの時と同じようにもう一度だけ彦丸のとなりに立ちたい。
そんなふうに思って月までやってきた。
なのに脱走したあげく、芽衣にも相手にされず、トボトボと月面ラボへ戻っている。
月美はマグレブの最前列にすわり、電脳秘書の粗茶二号といっしょに月の砂漠を眺めた。
どこまで行っても同じような風景のくりかえしだった。
砂、岩、砂、岩、大きめの岩、それから砂……
これだけ同じものが続く場所を誰がなんの目的で用意したのだろうか?
退屈で退屈でうんざりしている時だった。
不思議なことが起こった。
視界が青色になった。
目の前に水のかたまりが現れたからだ。
それは輝きながら宙に浮かび、まるで巨大なシャボン玉だった。
きれいな球の形を保っているけれど、表面はたゆたい、ささやかな波が立っていた。
耳をすませば水の音が聞こえてくる。
手の平ほどの魚たちが泳いでいて、赤色や黄色の体を水草のすき間からのぞかせていた。
反対側にはこどもたちがいた。
肩をぶつけあって水にはりつき、エビやイソギンチャクを指してああだこうだと言っていた。
そのうちのひとり、オーバーオールを着た少年がこちらに気づいた。
月美と目が合った。
少年がニコリと笑った。
月美はどきりとした。
とても素敵な笑顔だったからだ。
自分にこどもがいたって、こっちのほうが可愛いと思えるほどに。
月美はユエを思い出した。
こんなふうに他人の視線を惹きつけてやまない魅力が彼女にもあった。
気のせいかもしれないし、年齢も性別もちがうのだけれど、なぜか彼女を連想してしまうのだ。
月美は少年にほほえみ返そうとしたものの、ひきつった変な顔になっただけだった。
オーバーオールの少年は、地面を蹴ってそのまま上に飛んでいった。
少年の姿を追っていくと、大小様々な水の玉が頭上の空間に浮かんでいた。
すべて水槽だった。
水槽のそばにたくさんの人たちがいて、みんな夢中で中をのぞいている。
やがてマグレブの車体と月の砂漠とが消えた。
月美はうすぐらい施設の中で座っていた。
そこは月美の念願、宇宙水族館だった。
熱帯魚の水槽があった。
それはため息がでるほどの青さだった。
崖の砦のようなサンゴ礁があり、赤と黄と銀白色の魚がその周りを泳いでいる。
花と宝石がいっしょになって山の上を飛んでいるかのようだった。
直径五メートルほどのクラゲだらけの水槽もあった。
傘をひろげて漂うクラゲの様子は軽やかだった。
元々ないに等しい体重が、宇宙に来て本格的に消えてしまったみたいだ。
ただ、あまりにもクラゲがいっぱいなので、水槽は病気の細胞のようでもあった。
ペンギンのこどもたちが水槽から飛び出しとなりの水槽へ着水していた。
敵はなく、食べ物はいつでも手に入り、仲間はあくまで気の合う仲間であり、心配すべきこともなく、ある晴れた日曜日のプールのように平和だった。
プールの中には、ペンギンの漂うフンを掃除するダイバーたちもいた。
一番上にある大きな水槽はとくべつ見事なもので、まわりに百人近くの人がいた。
マンタやサメが腹を見せつつ水槽のふちを遊周しているのだ。
巨大魚の迫力を思う存分堪能したオーバーオールの少年は、最後に家族と合流し、両親と手をつなぎながらまたどこかに飛んでいってしまった。
「もういいよ。」
月美は言った。
水の展示は幸せな家族とともに消えた。
そしてまた月面マグレブが現れた。
「いまのが宇宙水族館だよ。」
粗茶二号が言った。
「仮想空間向けのコマーシャルさ。いかなくてよかったのかい? 水族館に。」
「いいさ。」
月美はつぶやいた。
「ひとりで行っても退屈なだけだからね。」
やがてマグレブが月面ラボに到着した。
月の砂漠にうかぶドーム型の研究所 ……
そうは認めたくなかったけど、ラボの姿を見てなんとなく月美はホッとするのだった。
◇
月面ラボのカフェテリアは、相も変わらずガランとしていた。
住人がたったの五人ともなれば、パリよろしく華やかな喧騒で茶をしばくなど望むべくもないだろう。
でも、だからこそ地平線の上でかがやく地球という景観をひとり占めできた。
芽衣はそのことをうらやましがっていた。
お茶で一服ついているヒマなんてなかった。
月美は「まずやるべきことはなんだろう」と自分にたずねなければならなかった。
決まっている。
ホークショット教授に謝罪しなくちゃならない。
正直なところ、教授に休みなく働かされて逃げ出した面もあり、よくよく考えれば、月美はだまされて月面ラボにやってきたわけであり、脱走したことで彼女に頭をさげるのは気が進まなかった。
けれど背に腹は代えられない。
まずは謝ろう。
ラボを支配している教授に逆らって生きる手段なんて月美にはないのだ。
「教授を探なくちゃな。粗茶、あの人がどこにいるかわかるか?」
「教授なら……」
粗茶二号が答えようとした時だった。
ジャーという流れる水の音が部屋の向こうから聞こえた。
月美と粗茶二号が同時にそちらをふりむいた。
トイレの入り口があった。
「教授は……」
粗茶二号は手を叩いて言った。
「お手洗いだね!」
「わかってるよ。」
月美は言った。
月美がトイレに入ると、ホークショットは手を洗っている最中だった。
さてどうしたものかと思いつつ、月美は教授のうしろに立った。
「脱走して申しわけございませんでした」と開口一番深々頭を下げるか、いっそのこと地面に頭をこすりつけて詫びを入れるか。
教授を怒らせないで済むならなんだって差し出せるのにと月美は思っている。
月美が言葉を切り出せないでいると、ホークショットがこちらに気づいた。
「おう。戻ったか。」
ホークショットは手の水を切りながら、快活に、朗らかに言った。
鏡越しに月美に笑いかけていた。
「ちょうどよかった。お前に会わせたいヤツがいる。案内するからさっさと用を足しちまいな。」
ホークショットは乾燥風のでる穴に手を突っ込んで除菌をはじめた。
年代物の乾燥機で、ホークショットのお気にいりだ。
おどろいたのは月美だった。
ぜったい嫌味を言われる思っていたのに。
場合によってクビになると覚悟していたし、それどころか教授に襲われるとさえ思っていたのに、なんと舌打ちのひとつもないとは。
ホッとするとともに、拍子抜けだった。
「あの、用を足しにきたわけじゃなくて……」
月美は言った。
「用を足しにきたわけじゃない?」
ホークショットが月美をマジマジと見つめた。
「トイレに何しにきたんだ?」
何かと訊かれれば、脱走したことで怒られると思ったから謝罪しにきたわけだけど、でもそんな雰囲気じゃなさそうだ。
このことを正直に伝え、便所でキレられても困ると月美は思った。
「いえ。すぐに済ませるんで、教授は先に行っていてください。」
月美は明るい声で言った。
◇
ホークショットが案内したのは、月美がいつも働いている開発室だった。
そこで待っていたのは、なんとなつかしい、ルナ・エスケープの社長だった。
今のいままで月美がその存在すら忘れていた男、アルジャーノンだ。
「アルジャーノン!」
月美は思わず叫んだ。
「どうしてここに?」
「どうしてここに、と言われても……」
アルジャーノンは眉根をよせた。
「ここは僕の会社だよ。こう見えて社長なんだ。」
「こう見えてって……」
月美はアルジャーノンの格好をマジマジと見た。
「いったいなんなんだそのかっこう?」
「決まってるだろ? 僕たちのパワードスーツさ。」
アルジャーノンは、自分を見せつけるように腕をいっぱいに広げた。
赤黒く筋張っている特殊スーツを全身にまとっている。
首の周りから手首足首にいたるまでスーツがぴっちりと張りついていた。
スーツは、筋肉質だが痩身の彼の四肢をごぼうのように見せていた。
月美たちが日夜開発しているパワードスーツ……
完成に近づいているスーツをアルジャーノンが試着しているのだ。
でも月美の担当しているグローブだけは、ワークベンチの上に置いたままだった。
かたわらには白衣をまとったマニーとハッパリアスがいた。
マニーはアルジャーノンの周りをくるくると歩き、どこかしら問題がないか探していた。
ハッパリアスはアルジャーノンの腕をつかみ、曲げたり伸ばしたりしながらヒジ関節の可動域を確かめていた。
「おい、アル!」
ハッパリアスが声をあげた。
「計測中だってのに動くんじゃない。」
「おっと、ごめんよ。」
アルジャーノンが広げた腕をとじて、最初の直立姿勢にもどった。
ふたりはいつになく真剣な様子だった。
マニーはきつく腕を組んでいたし、ハッパリアスの視線はスーツに釘刺すかのようだった。
この光景は月美にとって見慣れないもので、少し不思議でもあった。
ここは確かに月美たちの仕事場であり、真剣に仕事をするのは当たり前にもかかわらず、だ。
そのとき月美はひらめいてしまった。
どうして脈絡もなくそんな風に思ったのかはついぞわからなかったけど、ひらめきというのはそういうものなのだろう。
つまりはこういうことだ。
アルジャーノンはルナリアだ。
ユエと同じ月生まれなのだ。
だれに説明されたわけでもないけど、月美はアルジャーノンの秘密を悟ってしまった。
「今までどこにいたんだ?」
月美はたずねた。
「こっちに来てから一度も会ってないじゃないか。」
「じつは入院していたんだ。」
アルジャーノンは答えた。
「どうして?」
「こいつはトレーニング中に両足を骨折したんだ。」
ホークショットが口をはさんだ。
「信じられるか? 両足とも折れたんだ。」
「両足とも?」
たしかに尋常じゃないと月美は思った。
両足の骨が折れるだなんてトレーニングというよりも交通事故の域だ。
「そんなにはげしいトレーニングなのか?」
「もちろんはげしいんだけど、やっぱり体質かなぁ。」
アルジャーノンが言った。
まるで他人事のような気楽な調子だった。
「生まれつきケガをしやすいんだ。」
「あぁ、そうか……」
月美はうなずいた。
「ルナリアは骨がもろいんだもんな。」
「あれ?」
アルジャーノンはキョトンとした。
「僕が月生まれって知ってたの? みんなには黙っといてって言ってたのに。月美をおどろかそうと思ってさ。」
アルジャーノンがマニーやハッパリアスをみたが、ふたりとも首をふった。
「だれもしゃべってないぞ。」
ホークショットが言った。
「こいつはユエとも会っているからな。ルナリアの特徴がなんとなくわかるんだろう。」
「なんのためにトレーニングをしているんだ? 両足を折ってまでさ。」
月美はたずねた。
「もちろん地球に行くためさ。」
「行けるものなのか? 月で生まれた人間が?」
「もちろん。そのためのパワードスーツじゃないか。」
アルジャーノンは、水族館の少年が見せたとびきりの笑顔で答えた。