月面ラジオ {57 : 雨 }
あらすじ1:想い人の青野彦丸を追いかけて、月美は月面ではたらき始めた。そして、彦丸のいる会社「ルナスケープ社」に派遣されることになった。
あらすじ2:彦丸は、娘のユエに「木土往還宇宙船」の乗船クルー選抜試験の不合格を告げた。
◇
◇
月面港のラウンジに差す陽光は、夕方でも明るく白っぽかった。月から見る太陽は赤くならず、夕日も味気ないのだ。宇宙標準時で深夜の一時をまわっていた。深夜といっても、月ではまだ夕刻で、夜になるまであと四十時間ほどある。青いスーツの初老の女が彦丸のとなりに座った。
「オレンジジュース。」
女がバーテンダーに言った。
「いまは誰とも話したくはないんだけどな。」
彦丸は言った。
「ヒゲもぼうぼう、シャツもよれよれだね。」
ホークショットはかまわず話しかけてきた。
「新しいファッションか?」
「疲れているんだ……」
彦丸はバランタインをダブルで飲んでいた。アルコールに弱い彦丸にとって充分くらくらする量だった。
「スケジュールを前倒して船の建設を進めているんだ。いまは内装工事にかかりっきりでね。」
「前倒し? そうか。未完成披露宴が迫ってるもんな。」
「完成式典だよ。」
彦丸は言った。
「こっちにだって事情はあるんだから嫌味を言わないでほしいな。」
「わかったよ。その代わり式典にはうちの会社も招待しろ。うちのパワードスーツをそこで宣伝するんだ。」
「ムチャ言うな。」
なにが「その代わり」だよと思いながら彦丸は言った。
「招待客は半年前から決まっているんだ。」
「あんたなら三人くらい押しこめるだろ。」
「三人もいけるわけないだろ。」
「おいおい。同じ秘密を共有する仲じゃないか。違法改造の宇宙船とか、タバコの密輸とか。」
「そんな秘密を共有したことはない!」
オレンジジュースを運んできたバーテンダーが驚きの形相をしたので、彦丸はあわてて言った。
「誰しも後ろめたいことはあるもんだ。」
「はぁ……」
彦丸はため息をつきながら言った。
「わかったよ。でも君とアルジャーノンだけだ。いいね?」
「いや、三人分の招待が必要だ。」
「ふたりまでだ。これ以上はゆずらないよ。」
「ちっ、しかたないね。」
ホークショットは不満を隠そうともしなかった。不躾なお願いをしたのは自分だという自覚がまるでない。
「アルから聞いたよ。」
しばらくしてホークショットが切り替えた。
「だいぶごたついてるんだってね?」
ウィスキーがまだ少し残っていたけれど、彦丸は飲みきれずにグラスを置いた。
「ユエに避けられている。それがたまらなく応えてね。やっぱり僕も人の子だ。ユエとアルに、よく思われたいんだな……」
「でもあんただけ船にのるんだろ? 子どもを月に置いて。なんてワガママなやつだ。」
「僕はただただ自分勝手に生きたいだけだなんだ。だれよりも遠くへ。それだけだ。ふたりなら大丈夫さ。たとえひとりになっても生きていけるよう育ててきたからね。」
「そうか、なら好きにするがいいさ。」
ホークショットは、グラスからストローを取り出すと氷ごとジュースを煽っていた。
それから、ガリガリと音を立てながら続けた。
「ところでアルジャーノンのハレの日が近づいてきたな。」
「なんの話だ?」
彦丸は言った。
「あいつが地球に行く日さ。ちょうど半年後に出立する。あんたは忙しい頃で見送りには来られないかもしれんが、まあ心配しなさんな。」
彦丸は思わず立ち上がった。
「そんな話、聞いてないぞ?」
「いま聞いただろう?」
「まて……ムリだ。それはムリだ。」
「だから見送りはいらないと……」
「そっちじゃない。」
彦丸はホークショットにせまった。
「あいつはまだ体が出来上がっていないんだ。いや、出来上がったところで、地球の重力には……」
「やってみなくちゃわからないだろう?」
「結果はわかりきっている。地球に降りたらアルは死ぬ。どうしたんだ、ドローレス? いつも賢明な判断をするあなただからアルを任せていたのに。」
「あたしじゃない。判断をしたのはアルジャーノンだ。」
「ふざけるな。アルのむちゃを止めるのが大人の役目だろ?」
「おいおい、ふざけているのはあんたのほうさ、彦丸。」
ホークショットは言った。
「さっきはいっちょまえに育てたと言っておきながら、自分の意に反せばまるで子ども扱いだ。地球に行くも行かないもアルの勝手だ。たとえぺしゃんこに潰れる運命でもあんたには関係ない。」
とても承諾できる話じゃなかった。この女は自分がなにを言っているのか本当に理解しているのか? 愕然としながら、彦丸はホークショットをにらんだ。
「どうだ、自分勝手なやつに振り回される気持ちが少しはわかったか?」
ホークショットが言った。
「ウソだったのか?」
「あたりまえだ。」
「やられた……」
彦丸は椅子に座りこんだ。座ったのは、たまたま椅子があったからで、どちらかというとへたり込むような感じだった。
なんてヤツだ。思い通りにならない世の中なれど、こんなにもかんたんに手玉に取られるとは。でも、なによりもショックだったのは、ホークショットに何も言いかえせなかったことだ。ぺしゃんこになろうが、それはアルの勝手だと彼女は言った。そのとおりだと思う。それは、僕の生き方そのものなのだから。
「なあ、彦丸……」
ホークショットは彦丸の肩に手を置いた。
「私はあんたを尊敬している。あんたの人柄も、熱意も、仕事も、ぜんぶ他人がマネできるものじゃない。人類初の有人外惑星探査をやり遂げてほしいと思っている。だけど、あまり欲張りが過ぎると、どちらも取りこぼしてしまうんじゃないか? 惑星探査も、家族も。あの子たちを十年もほおっておいて、帰ってきて元のさやに収まるなんて虫がよすぎる。少なくともユエはもう傷ついている。彦丸、あんたはどちらかを選ぶべきだ。両方はムリだ。あんたら三人を見て、私はそう思ったよ。」
◇
体がぷかぷか浮いていた。脳ミソだって頭の中でプカプカなわけだけど、でもそれは宇宙にいるからじゃない。ただ酔っ払っているだけだ。
「宇宙に初めて来た時もこんな気分だったな……」
飲んでなくても吐きまくっていたのを思い出す。宇宙酔い……もう遠い過去のことだった。体調不良ですら愛おしく思えるほど遥か昔の思い出だ。
ここはどこだろうと、彦丸は思った。あたりは真っ暗だ。自分がどこにいるかわからない。かすかだけど、土の匂いがした。そよ風も感じられる。
「ここは……中庭か?」
木土往還宇宙船にもどってきたのか。ホークショットと飲んだあとに職場まで戻ってきたんだ。このときはまだ意識もしっかりしていたけど、船の中を移動しているうちに、急に疲れが押し寄せて眠ってしまったんだ。
「まったく。」
彦丸はため息をついた。
夜のうちに目が覚めてよかった。現場責任者が現場で居眠りこいているのが見つかれば、けっこうな騒ぎになっただろう。なにしろ責任者なものだから、責任問題はさけられない。さっさと退散して、せめて仮眠室で眠ろう。でも彦丸はその場を動けなかった。靴を履いていなかったのだ。まったく記憶にないけど、きっと自分で脱いだのだろう。
マグネティック・ソール入りの靴がなければ、ここでは何もできない。ウィルスのように空気中を漂うしかないのだ。床からはもうだいぶ離れている。天井や壁からも遠く、なんとも中途半端な場所で彦丸は漂っていた。まずいなと思いながらあたりに目を凝らした。自分の頭の上、手を伸ばせばなんとか届きそうなところに靴の片方が浮いていた。
「あぶなかった。」
彦丸は靴をつかむと、右足に履かせた。
「さてと……」
もう片方はだいぶ遠くに浮かんでいたけど、なんとかなりそうだ。片足でも靴を履いていれば、とりあえず泳ぐことはできる。
彦丸は、右足で宙を蹴って、漂う靴に向かってジャンプした。片足だけだと、飛んでいく方向が安定しなかった。方向転換をくり返して(こればかりはアルジャーノンやユエのようにうまくなれない)、やっとあわれな左足の相棒のもとにたどりついた。
その時、ふいに頬に水が伝わるのを感じた。最初は気のせいだと思ったけど、指で顔をさわると、確かに水滴がついていた。
まぁ、こういうこともあるだろう。宇宙船の中に水があるのはご法度だけど(精密機器に入りこんで、とんでもないことになる)、ここは植物園なのだからしかたない。彦丸は左足に靴を履かせようとした。
さらに一滴の水が頬をうった。
「うっとうしいな……すぐに出ていくからほっておいてくれよ。」
でもそれはほっておくことのできない大事だとすぐに気がついた。二滴、三滴と、水がさらに頬を伝ったのだ。そして、そんなものを数えたって意味がないほどに一気に増えた。
「うそだろ?」
大量の水滴がおしよせた。彦丸は恐怖で悲鳴をあげた。無重力で水はまずい。顔に水がはりついて溺れてしまうのだ。息を止め、あわてて靴を履こうとした。いや、靴なんかにかまっているヒマはない。今すぐここから脱出しなくては。
水があっというまに彦丸の服と体を濡らしていいく。まるで通り雨にふられたみたいだった。
「雨? 無重力で?」
彦丸はふと思った。これだけの水をかぶれば、周りに水の塊ができて、もがいているうちに溺れてしまうはずだ。でも、水滴は頬をしたり、彦丸のことなんか意に介さないで床へ落ちていった。彦丸は顔をあげた。無数の水滴が小粒の槍となって迫ってきた。
「そうか、完成していたのか……」
無重力での人工雨だ。おどろいた。いったい、何年ぶりだ? 雨に濡れるだなんて。
彦丸は、宙を蹴った。火照った顔に冷たい水ほど心地よいものはない。しかもその中をずぶ濡れになって泳いでいるのだ。まいったな、雨がこんなにも楽しいだなんて。水没の恐怖も忘れ、彦丸は無重力の中を飛び回った。最後に雨に濡れたのはいつの頃だろう? 彦丸は思い出そうとした。でもムリだった。宇宙酔いで吐いていたころよりもさらに昔のことなのだ。
でも雨の思い出ならたくさんある。月美、子安と山でキャンプをしたときに大きな木の下で雨宿りをした。天体観測があるから夜までにやんでほしいと願っていた。あぁ、そうだ……母の故郷で月美と雨宿りをしたこともある。アメリカへ移住した年の冬のことだ。雨に濡れたのは、たぶんそれが最後だ。ほんとうに最後かどうかなんてわからないけど、記憶にある雨の景色はこれが最後なのだ。
「だれだ? 誰かそこにいるのか?」
やがて雨がやむと、女の人の声が聞こえた。彦丸は自分のシャツを脱いで、木の下で水を絞っているところだった。せっかく夢見心地だというのにジャマしないでほしいと彦丸は思った。
いや、ちがうな、ジャマをしているとしたら僕の方だ。僕は本来ここにいるべきでないのだから。そういえば、立ち入り禁止の警告や、降雨の警報がどうして仮想空間に現れないのだろう? そう思うにいたり、彦丸は眠りこける前にネットコンタクトを外して捨てたことを思い出した。それに警報のサイレンが鳴ったからこそ、自分は目が覚めたのだろう。
コンタクトはもう見つけようがないな。さっさと退散したほうがいいだろう。酔っ払ってずぶ濡れになっているところを見つかるわけにいかない。
うすぐらいせいで、女の姿はよく見えない。相手も同じようだ。僕のことを見つけられないでいる。
彦丸は手近のバルコニーに飛び込んで、船室へと入った。庭を見下ろせるその部屋は、まだ内装が手つかずで、コンクリートもむき出しのままだった。彦丸はシャツを着直すと、廊下を出て自分の部屋へと戻った。頭はもうすっきり醒めていた。
◇
雨粒はまだ木の葉を濡らしていた。したたり落ちた水滴が、他の葉を叩いて音をならし、そして地面へ吸い込まれていった。月美は、まだ濡れている遊歩道を歩いていた。
「誰かいたと思ったんだけど……」
結局、庭を一周してもだれの姿もなかった。
「粗茶、センサーはどうだ。誰か引っかかりしていないか?」
「残念だけど……」
粗茶二号が言った。
「僕たちには、セキュリティへの問いあわせ権限がないんだ。不審者がいたって報告するかい?」
「いや、やめておくよ。」
月美は首をふった。
「きっと気のせいだ。この船に部外者が入れるわけないし。」
「それにしても……」
月美は雨に濡れた土や遊歩道の匂いをかいだ。
「雨上がりの道はいいもんだな。ルナスケープの連中が大枚はたいてこの庭をつくる気持ちがよくわかるよ。」
「みんな、月美のことに感謝しているよ。がんばったかいがあったね。」
「うん。」
月美はうなずいた。
月美は来た道を戻った。庭園の出口に差しかかった時、ホークショット教授から連絡が入った。
「まったく……」
月美は立ち止まって毒づいた。
「夜中だってのにおかまいなしだな。」
「どうする、月美?」
「でるよ。つなげてくれ。」
とたんに、月美の仮想空間にスーツ姿のホークショットがあらわれた。
「よろこべ月美。」
ホークショットはさっそく本題に入った。
「木土往還宇宙船の完成式典に私たちも招待された。私、アルジャーノン、そしてあんたの三人だ。」
「そんなものに出てどうするんですか?」
月美は言った。
「にぶい子だね。」
ホークショットは言った。
「式典にはほかの宇宙企業も招待されるんだ。そいつらにパワードスーツを売りこむよ。」
「パーティーでわざわざ営業活動ってことですか?」
「パーティってのは本来そういうもんだ。」
「私、ドレスなんてもっていませんよ?」
「どっかの映画祭で金ピカのトロフィー受け取ろうってわけじゃないんだ。そんな大げさな服は必要ないよ。」
ホークショットは言った。
「着るものはこちらで用意しておく。楽しみにしておけ。」
それだけいうと、ホークショットは勝手に通信を切ってしまった。
なにも返事をしないうちに、押し切られてしまった。相変わらず強引な人だ。やれやれと、月美はため息をついた。いまは仕事に集中したいし、パーティーなんて興味ないんだけどな。
「完成式典はまだ先の話だ……それまでに準備しておけばいいか。」
式典には必ず彦丸も出席すると気づいたのは、自分の部屋にもどって寝ようとした時だった。月美は、しばらく眠れぬ夜が続いた。