月面ラジオ { 36: 天文台(3) }
あらすじ:(1) 30代のおばさんが、宇宙飛行士になった初恋の人を追いかけて月までストーカーに行きます。(2) 月で働くことになった月美は、砂漠の僻地に閉じ込められました。これから脱走します。
◇
◇
部屋は想像したよりも広々としていて、砂漠側の壁は一面ガラスばりだった。
ガラスの壁は斜めに立てかける設計で、今にもこちらに倒れてきそうだ。
「宇宙に家を建てて、そこにガラス張りの部屋がないのは罪だ」と言わんばかりにガラスを見てきたわけだけど、この部屋はこれまで見たもののなかで一番見事かもしれない。
部屋は、地平線から昇って三日目の太陽に照らされ、遠くには月面空港へ降り立つ船が見えた。
住み込みの管理人のためというよりも、むしろ気鋭の若手芸術家が借りるアパルトマンの一室というのが第一印象だった。
真ん中にデザインソファーとコーヒータンブラーのための袖机がある。
キッチンも冷蔵庫もあって快適そうだし、ゴミ箱だって近づくだけで勝手にフタが開くやつだ。
部屋の奥に書斎のような一角があり、旧式のタワー型コンピュータと大きなディスプレイ二台がデスクに並んでいた。
ガラスの壁面には棚がしつらえてあって、尖った葉っぱの植物の鉢がずらりだ。
部屋にずんぐりむっくりした男がいた。
ちょうど真ん中にある鉢にジョウロで水をやっているところだった。
ドアの開く音に気づき、こちらをふり向いた。
男は月美を見て、何も言わないまま顎の先だけをクイッと動かして中に入れと合図をした。
月美はゆっくりと三歩だけ前に進んだ。
背中で扉の閉まる音がした。
男はそのまま水やりを続けた。
すべての鉢に水を注ぎ切ると、ジョウロを手にしたまま月美の前にやってきた。
まるで生まれる前からひげが生えていたのではと思えるほど板についたヒゲモジャ赤ら顔白人だった。
顔が丸く、ひとなつっこそうな顔をしているけれど、眼光はするどく、話しかけづらい。
なんとなく、クマのようである。
ハッパリアスはアノルド爺さんと呼んでいたけど、たぶん二人の年齢はそれほどかわらないはずだ。
もしかしたらまだ四十代なのでは、と月美は思った。
「ええと、西大寺月美です。いつも、その、お世話になってます、アノルドさん……」
我ながらおかしな挨拶だと月美は思った。
半ばお酒の勢いでここまで来たものの、ふと我に返ると何を言っていいのかよくわからなかった。
「アノルドでいい。」
男は言った。
「それから、ええと、どうもはじめまして……」
「こちとら『はじめまして』のつもりはないんだけどな? そうだろ? え?」
「なんのことだかさっぱり。」
そうだろと言われても心当たりはない。
月美は粗茶二号と顔を見合わせた。
粗茶もわからないといった風だった。
「声をかけようとしても、あんた、逃げるように隠れてしまうじゃないか。この前だって、展望室で見かけたけど、なぜか椅子の下にもぐりこんでいた。」
「そうか、あのときの……あれ、あんただったのか。」
「教授から隠れているうちに、知らず知らず管理人さんも避けていたんだね。」
粗茶二号が指摘した。
どうりで気づかないわけだ、と月美は思った。
「お願いがあるんだ。」
月美は切り出した。
「天文台がみたい。」
「なぜあんなところを?」
アノルドは首をかしげた。
「この施設は古い。すでに半分が機能停止状態だ。天文台だってとうの昔に解体された。たいしたもんは残っていないぞ?」
「何もなくたっていい。とにかくいきたいんだ。ちょっとの間だけでいいから鍵をあけてほしい。」
「行きたきゃいけばいい。俺の許可などいらん。あそこは始めっから開きっぱなしだ。」
「わかった。ありがとう。」
そう言うと、月美は一目散かけだした。
◇
胸の高まりを感じながら、天文台へと続く階段を月美は登った。
天文台があると聞き、いてもたってもいられなくなってここまで来た。
天文台……
それも使われなくなった天文台は、かつて月美が掛け値なしで大切にした場所だ。
それと、再三感じた月面ラボに対する既視感の正体もわかるような気がした。
天文台に来れば、その答えがあるような気がしてならないのだ。
もちろん根拠なんてどこにもない。
月美は天文台の扉を開けた。
何もない空っぽの広間があらわれた。
とたんに郷愁だの期待だのはなくなった。
あまりに殺風景で気持ちが急にしぼんでしまったのだ。
「もう何も残っていないぞ」というアノルドの言葉はまさにその通りだった。
天文台の中にはなにも残されていなかった。
ドームの天井と床だけだ。
机ひとつなく、鉛筆すら落ちていない。
台座の上にあったはずの望遠鏡もなく、その台座すら取り払われていた。
いったいここには、どんな望遠鏡があったのだろう?
月美には想像もつかない。
月美は硬い床の上をとぼとぼと歩いた。
私はここに何をしに来たんだろう。
そんなふうに思いながら歩くしかなかった。
お祭りが終わったあと、夜道をひとりで歩いている気分だった。
あるいは誰も見咎めない石器時代の史跡を歩いているような。
あるいは引っ越しを終えて家財一切を引き払ったあとの家を歩いているような。
お祭りに参加したわけでもなく、古代を生きたわけでもなく、ましてや他人の家だというのに、月美はそこを歩いている。
月美の体がブルッとふるえた。
月美は宇宙に来て初めて肌寒さというものを感じたかもしれない。
なにもない所ほど空気が冷たくなるのはなぜだなのだろう。
「もういいや……」
月美は呟いた。
「寒いし帰ろう。」
きびすを返した。
その時ふと何かが視界のはしに映った。
それは、ほんの一瞬だけど、網膜に像を結んだ。
正体はわからず、気に留める価値もないと、なんとなしに無視してしまった。
けれどその像がどうも頭にこびりついて離れない。
見えないはずの何かが横を通り過ぎた気分だ。
像のシルエットは、まるでパズルのピースのように月美のキオクの隙間に収まる形をしていた。
もっと言えば、月美はそれを知っていて、探し求めていた……
そんな気がしてならない。
月美は立ち止まった。
像が頭の中で確かな形を得て、重さを持った瞬間だった。
たった今、その正体がわかってしまったのだ。
「うそだろ?」
月美はふり返った。
「なんでこんな所に?」
うすぐらく目を慣らすのに時間がかかったものの、どうして最初に気づかなかったのか?
見逃していたのが不思議になるほど、天文台の片すみに堂々とそれはあった。
ただの望遠鏡だった。
天文台に置く豪華なものではなく、個人が所有するような言ってしまえばチャチなものだ。
プラスチック素材の大きな筒が台の上に乗っていて、全体が色あせ古ぼけている。
黒いフタで閉ざされた筒は、見るモノもないというのに、呆然自失の様で天を仰いでいた。
その中には、半ば狂気につかれた子安くんがひと夏かけて磨き上げた反射鏡が残っているだろう。
「手作り望遠鏡……」
月美、彦丸、子安くんの三人がこどものころに作った望遠鏡だった。
いまにしてみればなんて不格好なのだろう。
肌寒さが消え、急に夏になった。
あたりは色鮮やかになり、ここはもう月面ラボでなかった。
月美はいつのまにか故郷の天文台にいた。
天井のスリットから日差しがこぼれていた。
炭酸水のように空気にしみこむ蝉の声を鳥の高い声が貫いていく。
木の床に虫よけの香りが混じって懐かしい。
風だって吹いていた。
部屋の片すみには、ソファーでくつろぐ彦丸と、何かの部品を布で磨く子安くんがいた。
その傍らには、夜まで待ちぼうけの手作り望遠鏡が控えている。
月美はやがてくる夜が待ち遠しい一方で、ずっとこの景色の中にいたいとも思った。
光り輝く夏の天文台だった。
鼓動が遥か高鳴り、ほんの一瞬の幻に胸を裂かれた。
思い出の望遠鏡がどうしてここにという疑問は、驚くほど早く霧散してしまった。
月美は確信していた。
これは月面ラボにあって当たり前のものなのだと。
「天文台再生計画だ。」
ここは、こどもの彦丸が故郷で作ろうとして頓挫した施設で、おとなになって月の上で実現したところなのだ。
開放的なカフェテリア、心地よい居住空間、地下の図書室、ハーブを栽培できる屋内菜園、サイクリング場や映写室……
これらすべては、あの廃墟の天文台に彦丸がつくりたかったものだ。
だからこの場所に見覚えがあったんだ。
来たことなんて絶対にないのに、ここが懐かしくて仕方なかった。
彦丸の計画を……
あいつの作ったもの、作ろうとしていたものを私は知っていたからだ。
彦丸は、手作り望遠鏡を地球から取りよせてこの天文台に置いたらしい。
たとえ使われなくとも自分たちの作った望遠鏡を置くことで、天文台再生計画は人知れず完遂した。
完璧主義者の彦丸らしいと月美は思った。
かつて十五歳だったあいつは、無重力と低重力の建築工学を学んで月に巨大な施設を建てると宣言した。
そしてほんとうに建ててしまったのだ。
やると決めたことは果たして時空を超えてでもやり遂げるあの強さはいったいどこから来るのだろう?
この歳になっても彦丸に感心するばかりだ。
困難だからこそ挑み、やると決めたからやりとげる。
古代の哲人のようでもあるし、獲物に食らいついたら決して離れない獣のようでもある。
大きな仕事をするための力だ。
幼いころからあいつにはその力があったし、事実こうしてやってのけたわけだ。
月美はそれが嬉しかったし、他人のことながら誇らしかった。
でも悔しかった。
やっとそばまで来たのに、あいつのいる場所は遥か遠いと実感させられる。
距離のことじゃない。
自分は、彦丸のとなりに立つのにふさわしいのかと、そんなことばかり考えてしまう。
そんな自信はない。
私はまだあの山の上の廃墟にたたずんだまま昔の思い出にひたっているだけだ。
あいつのように結果をだすことができない。
前に進むことができない。
自分ひとりの力じゃ月面都市に行くこともできない。
それがほんとうに悔しかった。
それでも、今はただただ、あの人に会いたかった。
◇
搬出路も兼ねた大きな扉の前で、月美はふかく息を吸ってゆっくり吐いた。
ここは以前にも来たことがあり、扉の向こうに何があるのか承知していたし、入るのがイヤというわけでもない。
けれど、それでもまだちょっぴり覚悟が必要だった。
そのための深呼吸だ。
月美は屋内菜園の扉をあけた。
積みかさなった植物の世界が眼前に広がった。
重厚なその緑に熱い陽光が降りそそいでいた。
押しよせる草いきれに月美はむせ返りそうだった。
部屋にはたくさんの棚があり、そのすべてに鉢が並んでいた。
鉢は電車のレールのように細長く、透明だった。
鉢の中に水が流れて川のようであり、水に根を張る植物の苗が行列をなしていた。
苗の棚は、はるか頭上の天井まで数十段と続いていた。
資料館の棚に、本ではなく植物をしこたまつぎ込めばこうなる、という具合だった。
これらはマニーが丹精込めて育てているパクチーの苗だ。
てんこもり過ぎて、草というより茂みだし、その茂みが天井に到達し、しかも部屋の奥までも続いているから森のようでもある。
緑は癒やしの色、故郷を思い出す色として月世界でもっぱら重宝されているのだけど、パクチーの森となるとさすがに面食らう。
ひとつひとつは爽やかな草の香りだとしても、これだけ集まると爽やかをとおりこして、尋常じゃない匂いになるのだ。
ここは月面ラボの屋内菜園だ。
かつては植物研究のための部屋だったけど、いまではマニーのパクチー御殿と呼ばれている。
月美は菜園に入ってマニーを探した。
緑に挟まれた通路を進み、奥の角を曲がったところでマニーの姿を見つけた。
マニーは、天窓から差しこむ陽に包まれて苗の世話をしていた。
メガネのレンズに滴る汗そこのけで、根っこやら葉やらを入念に調べ、収穫時期を見計らっているようだ。
その真剣な眼差しは、大切な演説の前に自分の靴をみがく人のようでもあった。
ボサボサの髪の毛、メガネ、白衣と、科学者然としたマニーだけど、生まれはタイの農家だそうで、植物の世話もたまらなく好きらしい。
マニーが月美に気づいた。
「やあ。急にどっか行っちゃうから心配したんだよ?」
「ごめん。もう大丈夫だから。」
「その様子じゃ、酔いはさめたようだね。」
マニーがパクチーの苗から手を離した。
「で、いったいなんのよう?」
「ここから出たいんだ。脱出のしかたを教えてほしい。」
「前にも言ったと思うけどそんなの知らないよ。」
「いや、マニーは知っているはずだ。」
「どうしてそんなふうに思うんだ?」
「ビールを定期的に仕入れているんだろ?」
月美は言った。
「入ってくるなら出ていくこともできるはずだ。この大量のパクチーはどこに消えるんだ。」
「私たちの胃袋じゃないかな? それともその後のことを聞いているのかな?」
マニーが言った。
「食べ切れるわけないだろう?」
月美は言った。
「たぶん、マニーたちはこれを月面都市に持っていっているはずなんだ。そこでレストランか何かに売り払って……ビールはその代金で買っているんだろう?」
マニーは「やれやれ」とため息をついた。
「秘密を知る人間は少ないほうがいいだけどね。」
「どうしても行きたいんだ。たのむから教えてくれ。」
「管理人のアノルドじいさんに頼むと脱出の手引きをしてもらえるんだ。」
マニーはついに観念して言った。
「手引きと言っても、月面マグレブの手配を頼むだけだけど。」
聞けば、毎週日曜の朝になると、ハッパリアスが箱いっぱいに収穫したパクチーを持って、マグレブで月面都市に向かうそうだ。
マニーの親戚が経営しているタイ料理レストランにパクチーを卸し、その代金で帰りがけにビールを買って戻ってくる。
もちろんアノルドへの手土産も忘れずに。
「なぜホークショットにばれないんだ?」
月美はたずねた。
「知らないよ。知らないし、どうでもいいことだろ?」
「たしかに。」
そう言うと、月美は一目散かけだした。