月面ラジオ {50 : ロニーの苦悩 }
あらすじ1:月美の想い人・青野彦丸は、月で宇宙船を作っている。彦丸の養子のユエは、大学生でありながら、月の大企業「ルナスケープ」でエンジニアとして働いていた。
あらすじ2:彦丸のアルバムの写真に写っていた少女が、なぜか気になるユエだった。
◇
◇
ルナスケープのカフェテリアでロニーの声が鳴った。
「ちょっとまって! 事情はわかるけど、いくらなんでも急すぎます。それなりの人が必要なら、それなりに時間をかけないと。」
アーベル課長の眉がお山のように釣り上がったのを見て、「しまった」とロニーは思った。彼女に反論しようものなら、それがただの言い訳であっても、至極まっとうな理由であってもはね返される。それどころか一方的にまくしたてられて、話を打ち切られてしまうのだ。
「事情がわかっているならなんとかしてちょうだい。木土往還宇宙船の建設スケジュールを遅らせるわけにはいかない。史上最大のプロジェクトが集大成に入っている。あなたもわかっているでしょ?」
課長の年齢はわからないけど、ロニーより少なくとも二十歳上なのはまちがいない。歴戦のマネージャー経験がなせる技なのか、あるいは生まれつきのものなのか、彼女の表情にはいつも我を通すだけの力があった。他人と話すとき、アーベルはその青い瞳を相手から決してそらさないし、渓谷のようなほうれい線だって迫力満点だ。
ただ、宇宙に長くいるせいか、働き詰めのせいか、最初に会ったときよりも「薄く」なった印象だ。ボブカットの金髪はところどころ白が混じり始めていた。肌には血の気がなく、頬の肉も減ったと、仮想空間越しでもわかる。白い大きな歯だけがそのままで、笑ってもいないのに、やけに目立っていた。それでも、アーベル課長のエネルギーが弱くなったと感じることは微塵もない。
課長の言いたいことはわかるけど、ロニーも押し通されるわけにはいかなかった。俺にだってスケジュールという事情があるのだ。
「それはわかっ……」
「とにかく我々に必要な人材を見つけること。それがあなたの使命よ。いい? かならず見つけるの! 以上!」
「ちょっとまって!」
ロニーはアーベル課長がいたはずのところに向かって叫んだが遅かった。ロニーが口を開く前に課長は仮想空間から消えていた。
「うそだろ……」
空っぽになった席を見つめながら、ロニーは愕然とした。まさか言うだけ言ってさっさと退散してしまうとは。
「まったく!」
ロニーは背もたれにドッサリたおれこみ、天を仰ぎながら叫んだ。それから特大のため息を天井にむかって吐きつけた。
「俺のクライアントときたら、こんなのばかりだよ。まぁ、文句を言ってもしかたないけどさ……」
ロニーは窓側の席に移動することにした。せっかくアーベル課長の顔が消えたのだから、代わりに月面都市のごきげんな景観でも眺めようじゃないか。
人工の空は、今日も今日とて晴れ渡っていた。通りにはレストランと街路樹が並んでいて、ロニーのいるフロアからなら、マロニエの並木を見下ろすことができた。ついさっきまで清閑な通りだったのに、いつのまにかにぎわっていた。ルナスケープのエントランスホールだって、いつも国際線ターミナルのように賑やかだけど、外の並木道もそれに負けず劣らずの喧騒だ。レストランのご主人が、自身で傑作と信じて疑わないランチの仕込みを終えたころだろう。オフィスで働いている人たちや観光客たちが、ぜひご相伴にあずかろうと集まりだしていた。早めの昼食をとるつもりなのか、ルナスケープの同僚たちの姿が並木のすき間から見えた。
バーガー・レストランのビューフェ・コーナーに行って、たらふくのビーフバーガーをこしらえるはどうだろうか? マロニエの木の下でホット・ドッグやケバブをかじってもいい。そういえば、ニューヨークで話題のオランダ料理のレストランが、ここらで支店をひらいたと話題になっていた。人気の店は、どこももう混みはじめているだろう。
ロニーもそろそろ腹に何かを掻きこみたかった。すっかり冷めたコーヒーを見つめながら、これから何を食べるべきか考えた。
いや考えるまでもない。レストラン「フライ・ハウス」の店頭で売っているプーティンに決まっているじゃないか。揚げたてのポテトに溶けたチーズと秘伝のグレービーソースをグチャグチャにかけたスナックが、昨日食べたばかりだというのにもう恋しい。
火急の案件をたのまれたような気もするけれど、その施策のために集中力を遺憾なく発揮できるかといえば、その自信はなくなっていた。胃がギュッと握りこぶしほどに縮んでいるのは確実だし、熱いポテトを待ちきれないせいか胃液だって滲んでいるようだ。脳の代わりに内蔵が思考をはじめると、食べることしか考えられなくなる。誰だって経験したことがあるだろう。
ほんの数分歩くだけでフライヤーから揚げたばかりのプーティンを手にとれる。そう思えば、空腹は夢ごこちに等しかった。
もう我慢できない。理性なんてものは胃液で溶かしてしまえ。腹が空っぽだと、いい仕事はできないのだ。腹ごしらえこそが肝心だ。
そう自分に言い聞かせてロニーが立ち上がろうとしとき、エレベーターが通りすぎていった。カフェテリアのすぐ下には、シャトル・エレベーターの発着場があった。だから大型のエレベーターがロケットのようにこのカフェテリアをかすめていくのだ。
ロニーは驚いて顔を上げた。驚いたけど、エレベーターに対してではなかった。確かに、「象の一家の輸送装置」とも呼べそうな巨大エレベーターが天に登っていく様は一見の価値ありだけど、彼にとってそれはすでに見慣れた光景だ。
ロニーが驚いたのは、目の前にユエがいたからだ。ユエはめずらしくニコニコと笑っていた。イヤな予感がした。これは単なるカンだけど、ロニーがいま一番会ってはいけない人間がいるとしたら、それはユエだろう。
◇
「何をしているの?」
ロニーのかたわらに立ってユエは尋ねた。
「仕事だよ。」
ロニーは、当たり前だとばかりに答えた。
「ヒマそうでよかった。」
ユエはさらりと言った。
「お願いしたいことがあるの。この女がだれか調べてほしい。あなたの超能力があればすぐわかるでしょ?」
いろいろと言いたいことはあったけど、とりあえず話を最後まできくことにした。アーベル課長とおなじように、ユエも口を挟むとろくなことにならないのだ。
ユエがロニーに写真を手渡した。渡すといっても、ロニーの仮想空間に画像を転送しただけだ。
ロニーは写真を眺めた。三人の若者がならんでいる写真だった。ふたりの青年とその間に女の子がひとり……
「写真のメタデータは?」
「ないわ。アルバムに貼ってあった写真をスキャンしただけだから。」
「ふ〜ん。場所と時期の特定は難しくなさそうだ。左に写っているのは彦丸だろ? 年齢から推測して二十五年ほど前の写真かな。旅行中ってわけでもなさそうだから故郷で撮影したんだろう。彼の昔の交友関係を当たれば、特定できると思う。けど、いったいなんでこの女の子のことが気になるんだ?」
「理由はない。というよりわからないの。どういうわけかこの女のことが気になる。」
「どこかで会ったんじゃないのか?」
「心当たりがない。彦丸も、地球にいたころの知り合いは月にいないって言っていたし。」
「いや、たぶん会ったことがあるはずだ。ふと思い出したんだけど、俺もこの女の人のことを知っているような気がする。」
「どういうこと?」
ユエは顔をしかめた。
「けっこう前のことだけど覚えているかな? ユエはこのエントランスホールでこの人とおしゃべりしていたはずだよ。ほら、君を月面ラボまで案内させた女の人さ。その日も俺はこのカフェで仕事をしていて、君とその人が話しているのを目撃しているんだ。」
ユエがハッとなって顔を上げた。
「ハルル、その女の顔うつせる? たしか名刺交換をしたと思うんだけど。」
「いえ、ユエが一方的に渡しただけで、その方の名刺は受け取っていません。ただ、お会いしたときの映像が残っているので、顔を映すのは可能です。」
ユエとロニーの仮想空間に女の顔が映し出された。長い黒髪の女だった。白いシャツの襟部分と首から上だけが目の前に浮かんでいた。
写真の少女と黒髪の女、ふたつの顔をユエは見比べた。
「ほんとだ! 確かに面影がある……かも……二十年のうちにだいぶスれたみたいだけど……うん、きっと同一人物ね。」
「顔がわかったんだ。公開情報もすぐに見つけられる。」
ロニーがそう言うと、顔の横に彼女のプロフィール文が現れた。
「なになに……西大寺月美。超伝導体と電磁誘導の応用研究をしている専門家。元大学職員で、東京の博物館で学芸員も務めていた。へぇ、たいしたもんだ。いまは月でエンジニアとして働いている、と。おっ、やっぱりそうだ! 彦丸と同郷だってさ。」
「ロニー、あなたってほんとうに超能力者ね。」
ユエは感心しきっていた。
「ハルルだって見抜けなかったわ。」
「どういたしまして。」
ロニーはうやうやしく頭を下げた。
「そろそろ仕事に戻っていいかな? ヒマでヒマでしょうがないんだ。」
「だめよ。」
「は?」
「この女のことをもっと調べておいて。今なにをやっているのか? なんで月にきたのか? いろいろ知りたいわ。」
「ふぅ……」
ロニーはイスに沈みこみ、息を吐いた。
それからユエの顔を見上げた。
「俺は一生きみにこき使われるのかな?」
「まさか! あと一年の辛抱よ。」
ユエが元気づけるように言った。
「一年経てば、木土往還プロジェクトのクルーの訓練がはじまる。私はそっちにかかりっきりになるわ。」
「あと一年か。他人の仕事の斡旋ばかりしてないで、自分の身の振り方も考えなくちゃな。転職すれば、あと一年も我慢しなくてすむだろ?」
「そんなこと言わないで。」
ユエは寂しそうにしながらロニーの肩に手を置いた。
「転職先からあなたを呼びつけるのは、さすがの私もちょっぴり気が引けるわ。」
「冗談だよ。」
ロニーは身震いしながら言った。
「心配しないで。」
「そう、よかった。またあとでね。」
ユエはにこりと笑うと、パッと姿を消した。仮想空間から退室したのだ。来たときと同じで、去るときも唐突なユエだった。
「やれやれ。」
ユエが消えたのをしっかり確認してから、ロニーは本日三度目のため息をついた。
嵐が去った。いつもどおり引っ掻き回すだけ引っ掻き回して立ち去ってしまった。本来ならこんな話を引き受ける必要はないし、引き受けたくもない。でもそうはいかない事情があるのも事実だった。
ユエには恩があった。ロニーはもともとルナスケープの人事部にいた。人材発掘や身辺調査を行う専門家だった。そのときに得た技術と知識を活かして、今は人工知能を使って企業と人材をマッチングする研究を社内ベンチャーという形でやっている。ロニーの才能を見出し、独立して研究ができるよう支援してくれたのがユエなのだ。なによりも、ハルルという最高の知能リソースをロニーが優先的に利用できるのは彼女のおかげだ。
ただ、いくら恩が多くても、それ以上に迷惑をかけられるのだからたまったものじゃない。はてさて、どうするべきかとロニーは悩んだ。
ユエとアーベル課長、どちらの仕事を先にやるか決めなくちゃならない。残念なことに……いや、今回に限っては幸運なことかもしれないが、ロニーの体はひとつだけなのだ。仕事の要請を優先するか、ユエの個人的な依頼を優先するか? はたまた当初の目論見どおりフライ・ハウスのプーティンを食べに行くか? 考えるまでもない。仕事の続きだ(もちろんプーティンを食べながら仕事をするという意味だ)。気まぐれなユエのことだ。なんとなく気になるだけの女のことなんて明日になったら忘れているだろうさ。
とはいえアーベル課長の要求もそれはそれで厄介だ。「早々に人材の補強が必要だから探してくれ」というけれど、いくらなんでも昨日の今日で条件のそろう人が見つかるわけない。世界中の実力者が集う月といえど、このご時世はずっと人材難なのだ。電磁誘導の専門家で高い知識と技術力を要した人物なんて、そうそう都合よく……
「いるじゃないか!」
ロニーは声をあげた! 周りのテーブルにいた人たちがいっせいにこちらを見たけど気にしない!
ロニーは、月美の顔とプロフィールをふたたび映した。
西大寺月美
超伝導体と電磁誘導の応用研究をしている専門家。ルナ・エスケープで働いている。
いったいなんなんだ、このめぐり合わせは? たしかアルの会社じゃないか? しかも、しかもだよ。我が社の訪問予定者の名簿を調べてみれば、そっくりそのまま同じ名前があるじゃないか。
「月美、君は明日ルナスケープにやってくるのかい? ほんとにいったいなんのめぐり合わせだ。」