月面ラジオ { 15: "月美の青春の終わり" }
あらすじ:30代のおばさんが、宇宙飛行士になった初恋の人を追いかけて月までストーカーに行きます。
◇
◇
さて。
高校生がひとりいなくなったのでひと騒ぎ起こった。
彦丸の停学はあけたはずなのに、しばらくたっても登校する気配がなく、高校の教師たちが心配しはじめたのだ。
あたりまえだろう。
孫が失踪して、知らぬ存ぜぬで押し通すおじいさんの方がおかしい。
まもなく彦丸は行方不明あつかいとなった。
公式的に。
それは当然の成り行きと言えた。
月美もたくさんの人から事情をきかれた。
彦丸とやり取りしたメールを提出するハメにもなった。
こうなった時点で彦丸の逃避行も終わりを告げた。
彦丸の所在地(地名どころか東経と北緯の正確な座標で示されている)がばれてしまい、現地に教師のひとりが派遣され、彦丸はその場で御用となった。
彦丸の捕まった場所はパキスタンだった。
彦丸はフンザという山奥の地に行っていたそうだ。
絶景で有名なフンザで夜空の写真を撮っていたのだろう。
大騒ぎになった張本人とその祖父は、関係者各位からこっぴどく叱られ、あらゆる文句を言われた。
けれどふたりとも平謝りもせず、とくに気にした様子を見せなかったことで周囲を驚かせた。
ふたりからすれば、周りが勝手にさわぎ、勝手に関係者になろうとしただけのことらしい。
とにもかくにも彦丸は帰国したわけだ。
彦丸とまた会える。
でも月美はすなおに喜べる状況でもなかった。
月美の受験がいよいよ近づいていたからだ。
これまでの成績ではつゆほども手の届かない難関校への挑戦だ。
毎日毎日部屋に閉じこもり、無味乾燥とした文字列を眺め、解答かどうかもわからない何かを頭の中からひねり出していた。
そのほとんどが期待された答えとはちがうことに、月美はだんだんとイラ立ちを覚え始めた。
イラ立ちはやがて、月美の胃腸を根こそぎ持っていきそうなほど大きくなった。
月美はこんなにも一生けんめいになったことはなかった。
一生けんめいになるほど、自分が無意味なことをしているのではと不安になるのが問題だった。
受かる気がしないのだ。
まるで一日中首を絞められているような気分だった。
月美はノイローゼになっていた。
◇
「せめて雪がふってくれればいいのに。」
今朝お母さんがそう言っていたことを月美は思い出した。
「夕方から雨がふる」という天気予報を聞いてのひとことだった。
その日はたしかに夕方から雨がふった。
冬の雨は冷たいし、濡れるとみじめだ。
お母さんの言うとおり、いっそ雪の方がすがすがしいだろう。
でも月美は雪より雨が好きだった。
雨が降るからこそ味わえるひと時もあるのだから。
たとえば、誰かといっしょに雨宿りをして、その間ずっとおしゃべりをする。
そんなどこにでもあるようなひと時だ。
「つい最近まで、暑い国にいたんだ。だからこの雨はこたえるね。」
びしょ濡れになりながら彦丸は言った。
「そう……」
月美はとなりの少年を見上げながらぼんやりとうなずいた。
急な雨から民家の軒先に避難していたら、彦丸がとつぜん走ってやってきたのだ。
ほんとうは折りたたみの傘をカバンから取り出そうとしていたけれど、月美はあわててそれをしまった。
久しぶりに彦丸を見た。
すこし会わない間にまた背がのびて、二ヶ月ぶりに袖を通した制服は窮屈そうだ。
雨の染みこんだ袖を気にしながら彦丸は言った。
「最近、どの服も縮んでいくんだ。これ以上縮んだら、制服が脱げなくなるよ。」
民家の軒先には枯れた植木鉢とエアコンの室外機が並んでいた。
植木鉢は室外機の上にも置いてあって、それと同じように月美たちも肩を寄せあっていた。
雨よけは、ほんの少し道側に突きでているだけだ。
だから窓の格子に背中をぴったりと合わせないと雨よけにはならなかった。
壁に貼ってある旅行会社のポスターと、赤錆だらけの郵便ポストだけが、まだ濡れずに済んでいた。
家に人はいるのだろうか、と月美は思った。
近所ではあるけれど、どんな人が住んでいるのか知らなかった。
枯れた植木鉢のような家なのだから、誰も住んでいないのかもしれない。
どちらでもよかった。
家からイジワルな人が出てきて、月美たちを追い出しさえしなければ。
「雨はきらい?」
月美はたずねた。
「まあね。星を観測したい時は特に。」
「私は好きだな。星空も好きだけど、雨の降る空も好き。雨宿りだって場合によっては……」
月美は、となりをチラチラとみながら言った。
「楽しいものだと思う。」
「そんな風に考えたことはなかったな……」
彦丸は言った。
「そういえば、去年もこんな風に雨宿りをしたよな。雨にうたれながら山道を歩いた。途中で土砂降りになって、木の下に避難したんだ。登山用のレインコートは意外と暖かかったな。月美も覚えているだろ?」
「うん。」
月美はうなずいた。
彦丸がとりとめのない話をするなんてめずらしい、と思いながら。
その日のことはよく覚えている。
手作り天体望遠鏡の限界精度をはかるために月美、彦丸、子安くんの三人で山登りをした時のことだ。
おととしの秋の暮れ、むしろ冬の始まりとも言えるつめたい登山だった。
その日は雨にふられ、強行軍をするはめになった。
今思えば正規の登山ルートじゃなかったし(他人の歩いた道はつまらないと彦丸が言い出したせいだ)、じつは遭難しかけていたような気もするが(彦丸はずっと順調だと言い張っていた)、それでも楽しかったことに変わりはない。
道中の森で雨が降り、大きな木を見つけてその下で雨宿りをした。
濡れた森は寒く、秋の暮れであることも相まって、いつの間にか静かだった。
天頂の木の葉は幾層幾層とつみ重なり、しかも森の奥までつづき、森の色をさらに濃くしていた。
疲労困憊の子安くんが木の根元でうずくまるかたわらで、彦丸は珍しい野鳥が隠れていまいかと、辺りの木々を見上げていた。
木の下で昼食を済ませることにした。
三人とも、あと十分もすれば餓死するのではと思えるほどお腹がすいていた。
朝起して三人で作ったおむすびがおいしかった。
ひじき梅、乾燥卵そぼろふりかけ、七味唐辛子焼きおにぎり、それにネギ味噌炙りなどが月美たちの自信作だ。
おむすびは、三人が彦丸のおじいさんの手を借りずに作ることができる唯一まともな食事なので、気合の入れ方がちがう。
目的地についたら、急いでテントを作って避難した。
レインコートから開放され、暖かい毛布にくるまると、月美はそのままドサッとテントに倒れこんだ。
テントは三人それぞれ別だ。
以前はひとつの大きなテント泊まることもあったけれど、誰がテントを運ぶかでケンカをするようになったので、使うのをやめてしまった。
そのかわり、三つともそばに設置し、入口を向かい合わせてお互いの様子が見えるようにしておくのが三人の独特な慣習になった。
虫がたくさん湧いて入ってこない限り、月美たちは入り口を開けっぱなしにしておくようにした。
プライバシーを確保したければ、その時だけ入り口を閉めればいい。
その日はずっと雨でとくにやることもなく、三人ともテントの中でヒマを持て余していた。
だから、他の二人が思い思いの時間を過ごしている様子を眺めながら、三人とも思い思いの時間を過ごしていた。
月美は晴れるように祈りながら山が濡れるのを眺めていた。
彦丸は寝袋に入って本を読みながらテントを打つ雨音に耳を傾けていた。
子安くんはというと……古いラジオを取り出して分解していたけれど、どうして今そんなことをしなくちゃならないのか月美は理解する気も起きなかった。
夜になって雨がやみ、しかも晴れたのはまさに奇跡だった。
寒い季節だった。
森は静かで恐ろしかった。
樹々の黒い影は月美に死を連想させた。
でも星空は奇跡のような輝きだった。
死の夜の下には、天を仰ぐ月美たちしかいなかった。
「楽しかった。でも今年は行かなかったな。」
月美は声にならない声でつぶやいた。
彦丸は聞こえていないようだった。
行かなかったというのは正確じゃない。
彦丸と子安くんは、キャンプの計画くらいはしていただろう。
でも月美が受験勉強で大変なので、気を使って延期してくれたのだ。
もちろん気を使ったのは子安くんのほうで、彦丸にそんな発想はなかったはずだ。
いま月美のとなりにいる少年は、勝手気ままに外国まで出かけて行方不明になるくらいなのだから。
またキャンプに出かけたい。
そして三人で星を見るのだ。
暑い盛りの夏でも、寒さを極めた冬でも、なんでもいいから。
このうんざりするような受験勉強を投げすてて、彦丸と子安くんと自由の旅に出かけられたらどんなにステキだろう?
そう思わない日はない。
「ねぇ、どうして家出なんてしたの?」
月美はたずねた。
「地球にいる間に片づけておきたい用事があったんだ。」
「用事?」
「そう、用事。これもそのうちのひとつさ。」
彦丸が青い小箱を手渡した。
箱は宝石入れのようにも見えた。
「もしかして……」
受け取りながら月美はハッなった。
「プロポーズ?」
「ちがう。」
彦丸は首を横にふった。
「そう。残念。」
月美は箱をあけた。
箱の中にはとても小さな砂時計が入っていた。
月美がいままでお目にかかった中でも一番小さく、小指の先くらいしかなかった。
砂時計の赤ちゃんのようだ。
「これを……私に?」
「もちろん。レゴリスの砂時計だよ。」
「レゴリス……月の砂ってこと? ほんものなの?」
「たぶん本物だよ。月面開発がはじまって、月の鉱物は手に入りやすくなった。ただ、本物の証明となると壊して中の成分を調べる必要があるね。」
月美はあわてて手を握り、もらったばかりのプレゼントを隠した。
「僕は子安じゃないよ。」
彦丸はたしなめるようにいった。
「幸いなれ、なんでも分解する癖はついてない。よく見てごらん。時計の中の砂粒がきらめいているだろ?」
月美は砂時計を指でつまみ、顔の前に持ってきて中を覗いた。
確かに粒ひとつひとつが、荒々しい光を放っていた。
「月には雨も風もないんだ。」
彦丸は言った。
「風雨にさらされない砂は、肌に突き刺さるほど尖る。しかもすごく小さい。だから光を乱反射して砂とは思えないほど輝くんだ。」
「宝石の砂ね。」
月美は言った。
「これでジュール・ベルヌとおんなじだ。」
彦丸が言った。
「八十日間世界一周のこと?」
「小説のことじゃないよ。」
彦丸が言った。
「ジュール・ベルヌ自身の物語だ。」
どいういうことだろうと、月美は首を傾げながら彦丸の言葉を待った。
「ジュールは、フランスからインドを目指して家出したことがあるんだ。インド行きの船に見習い水夫として潜り込んだんだ。結局、国を出ないうちに父親に捕まってしまったらしいけど、その行動力は見習うべきだと思ったね。これはジュールがたった十一歳のころの話なんだ。」
信じられないだろう、とばかりに彦丸は息巻いた。
「たったひとつの目的……そのために大海を渡ろうとしたジュールはどんな気持ちだったんだろう? 奴隷の背骨が支える貿易港を背にし、世界指折りの豊かな故郷を捨てたんだ。そして旅に出た。当時はスエズ運河もなかったからアフリカ大陸を迂回する大航路のはずだ。『空飛ぶ舟』、『二万里もぐれる潜水艦』、『月まで届く大砲』……ジュールの想像の中にはすでにそういうものがあったのか? それとも家出がきっかけで産まれたのか? 僕はそれが知りたかったんだ。」
「まさかそれが旅に出た理由?」
「きっかけのひとつではあるね。でも、たとえジュール・ベルヌの本に出会わなくたって僕は旅に出たと思う。ちなみにジュールがインドを目指した理由は、女性への贈り物を買いに行きたかったからなんだ。」
洪水のような感謝や喜びとともに、申し訳ないという思いが月美の中でこみ上げてきた。
「ごめんなさい、私のせいで。私がメールを人に見せなければ……黙っていれば彦丸は、捕まらなかったのに。」
「月美のせいじゃないさ。」
彦丸は首をふった。
「ジュールは出発前に捕まったけど、僕はインドまでたどり着いた。家出の記録更新さ。それに、ちょうど潮時だった。どんなに楽しい旅もいつかは終わるんだ。じゃないと次の旅には出られないからね。」
「次?」
「月美……僕は決めたよ。アメリカに戻る。」
落雷のような宣言だった。
「あそこは宇宙に一番近い国だ。宇宙開発にとりくんでいる大学や企業がたくさんある。宇宙関連の奨学制度も豊富で、企業が学生を補助してくれるんだ。僕は奨学金を獲得して、大学で低重力建築工学を学ぶつもりだ。そして月をめざす。」
「そんな……」
月美は気が遠くなって死にそうだった。
途方もない話にまったくついていけない。
「いつ行ってしまうの?」
「可能な限り早くだ。」
月美は、残された時間がとても短いことを自覚した。
彦丸はアメリカに行き、大学も向こうで進学するつもりだ。
だとしたら、ふたり一緒に過ごせるのは、あと一年くらいなのかもしれない。
彦丸が行ってしまう。
あんなに激しかった雨なのに、その勢いもやがて衰えた。
ふと見ると、遠くの空で雲がとぎれ、光がさしていた。
雨のふりしきる街はやがて煌めく黄金色となった。
月美はどうかこの雨がやまないで欲しいと祈った。
ただただ、いまこの瞬間が永遠に続きますように。