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月面ラジオ { 28: "月面都市(2)" }

あらすじ:(1) 30代のおばさんが、宇宙飛行士になった初恋の人を追いかけて月までストーカーに行きます。(2) ついに月までやってきました。これから就職先の会社に向かいます。

{ 第1章, 前回: 第27章 }

車輪のない車に月美は初めて乗った。
電磁の力でうごく超電導式のタクシーだ。
地面から浮かびあがり、アスファルトとの摩擦から開放された車体は、なめらかに走っていた。
びた一文ほどの振動さえなく、慣れるまでむしろそれが心地悪かった。

運転手のいない車に乗ったのも初めてだ。
前列にシートはあるけれど、誰も座っていない。
月美が乗りこむと、タクシーはひとりでに出発した。
ハンドルやアクセルといった見慣れたギミックさえなかった。

行き先すら訊かれなかった。
それなのに車のフロントガラスに半透明の地図が映しだされ、青い点と緑色の矢印でタクシーの現在位置とルナスケープ本社までの道のりが示されていた。
月美の新しい秘書が、すでに行き先を伝えたということなのだろう。

「月面都市では、人の運転は禁止されているんだ。」
 粗茶二号が言った。
「ぜんぶ自動運転さ。」

粗茶二号はとなりの席にプカプカと浮いていた。
このかわいらしいお茶くみロボットから、四十台中年の声が発せられることに月美は慣れそうになかった。

「これがほんとの自動車ってわけだな。」
 月美は言った。
「だけど信号のない交差点に突っこむのはいただけないな。横からも車が来るから生きた心地がしないよ。ぶつからないのはわかってるんだけどね。」

「人が運転しているよりずっと安全だよ。月の交通事情に慣れちゃったら、地球の横断歩道なんて怖くて渡れないよ。」

「そういうもんかね……」

すぐとなりの車線を逆走していく車をたまに見かけるけど(たぶんその時々に合わせて交通量を調整しているのだろう)、これも月に住んでいれば当たり前の光景になるのだろうか? 

なるのだろう。
走行したままコマのように旋回して車体の向きを変える車もあったけど、もうそんなに驚かなかった。
月美は超伝導体のチェスの駒を宙に浮かべて博物館で公開講座をしていたけれど、考えてみれば、そのナイトやポーンが車になったというだけの話だ。

月美だって科学者じゃないか。
月がちょっと未来寄りだからといって、いちいち驚くわけにはいかないだろ? 
まあ確かに、移動式ケバブ屋台の車がタクシーに並走してきて、トルコ人のおっさんが車内キッチンでローストした羊のモモ肉をカッティング・ナイフの背で叩きながら月美にケバブサンドを売りつけてきたのにはまだちょっぴり驚く余地はあったかもしれないが……

「おいしそうなケバブだね、月美ちゃん。」
 芽衣が言った。

「なかなかだよ。芽衣もひと口食べてみるか?」
 月美は言った。
「ん?」

月美はケバブサンドから顔をあげた。
芽衣が粗茶二号を膝にかかえて隣に座っていた。

「芽衣!」
 月美は叫んだ。
「いつの間に! どうやってタクシーに乗ってきたんだ?」

「落ち着いて、月美ちゃん。これ、仮想空間だから。ただの映像通信だから。」

「そうか。」
 月美は言った。
「なかなか慣れないもんだな。月に来てからびっくりしっぱなしだよ。」

「相変わらずだね、月美ちゃんは。」

芽衣はクスクス笑っていた。
久しぶりにその笑顔を見て、月美の表情もほころんだ。
地球にいたころと同じようにチェックのださいシャツを着ている。

「ごめんね、空港まで迎えに行けなくて。」
 芽衣が言った。

「かまわないさ。大学が忙しんだろ? 顔を見れただけでもうれしいよ。」

「まあね。講義や実習漬けの毎日で、ほんとにお漬物になっちゃいそう。でも楽しいよ。優秀な生徒ばかりなの。先生だって『今すれちがったの、じつはノーベル賞の受賞者だよ』なんてこともザラだし。それにね、ファビニャンもいるの。」

「ファビニャン? 前に紹介してくれたあのブラジル人か?」

「そう。彼も私とおなじ時期に月面大学に来たの。すごい偶然でしょ? 約束通り、私たちは月で初めて顔をあわせたの。」

「へえ。」

「はじめてのデートは『静かな海』にある植物園に行ったんだ。地球じゃ考えられないほど星がキレイだった。」

これまでお目にかかったことのないうっとり顔で芽衣が宣った。

「そいつぁステキだな。」

月美は、まるで親のカタキようにケバブサンドを噛みちぎった。

「おい、そんなことよりも、芽衣、こいつはなんだ?」
 月美は芽衣の膝の上にいるロボットを指した。

「プレゼントだけど?」
 最高の思い出をそんなこと呼ばわりされて芽衣はふてくされた様子だった。
「私と子安くんからの。お気に召したかしら?」

「最高だよ。」
 粗茶二号が言った。

「まったくだ。」
 月美は言った。
「どうやったらこいつの声を変えられるんだ?」

芽衣は「う〜ん」とうなった。

「私にはわからないな!」

「芽衣!」
 月美は声をあげた。
「ほんとは知ってるんだろ? ちょっといじわるじゃないか?」

「だって月美ちゃん、私の話、聞いてくれないんだもん。自分だけ幸せになれないから悔しいんでしょ?」

「なん……だとこのやろう!」
 月美はきれて芽衣に殴りかかろうとした。

ふたりがギャアギャア騒いでいると、粗茶二号が申し訳なさそうに間に入ってきた。

「月美さん……お取り込み中のようだけどアルジャーノンって人から電話だよ。つなごうか?」

「あら、私は退席したほうがいいかな?」

「まだ話は終わってないぞ、芽衣。」
 月美は言った。
「そのままでいいよ。粗茶、つないでくれ。」

「了解。」

短く刈りこまれた黒髪の後頭部が見えた。
アルジャーノンが、月美の仮想空間にあらわれたのだ。
タクシーの前列の席に座っていた。

「お? キャブに乗ってるってことは……」
 アルジャーノンがこちらを向いた。
「もう月に到着したようだね。」

「よう、アルジャーノン。なんで私を置いて先に帰っちゃうんだよ?」

「長ったらしい入国審査には付き合ってられないからね。僕は月在住だから審査はすぐに終わる。ところで、うしろにいるのは誰だい?」

「見えるのか?」
 月美が言った。

「芽衣です。」
 芽衣が言った。
「月美の家族です。」

「よろしく。アルジャーノンだ。」

アルジャーノンが前の座席から乗り出し手を差し出した。
ふたりは握手を交わした。

「これって映像だろ? いったいどうなってんだ?」
 月美は言った。

「そんなことより、月美。」
 アルジャーノンがこちらに向き直った。
「月へようこそ。」

「おめでとう、月美ちゃん。」
 芽衣も言った。

「ありがとう。こんなにもうれしいことはないよ。」

今にも泣きだしそうな月美を乗せ、タクシーは月面都市のハイウェイを行った。

やがて荘厳なビジネス市街が空を覆いはじめた。
それがいよいよ目の前に迫ると、タクシーはビルの腹のあたりへと進み、そのまま中に入ってしまった。

月面都市のハイウェイは、ビルを貫通していた。
まるでトンネルを連続して抜けるように、タクシーはビルの中を出たり入ったりしている。

ハイウェイだけじゃない。
ビルの吹き抜けに一般車道があり、トラムも駅から駅へと発着していた。
トラムは、ビルのあいだの鉄橋をわたって人々を運ぶ二階建てのバスのような乗り物だ。

道の下に道があり、道の上にも道があり、立体的に交差している。
土地不足が避けられない月面において運命的ともいえる都市設計なのだろう。

「ビルの中にも街があるんだな……」

レストランの前に並ぶ行列、せわしない銀行のオフィス、トラムの駅舎がビルの中にあった。
そのすぐ隣にエレベータやエスカレーターという本来ビルにあって然るべきものもあった。

三人は話に花を咲かせた。
月の鉱山採掘における環境問題について、あるいは発展をつづける月面都市と地球の経済的関係について、あるいは人類の未来について三人は話した。

その話題はいまいち盛り上がらなかったので、やっぱりゲームについて話すことにした。
月面都市では、仮想空間の中でビルの上を駆けぬける「摩天楼パルクール」がすごく人気らしい。
外を眺めると、ときたまビルとビルの間をジャンプする競技者の姿が月美にも見えた。
幻影だとはわかっていても肝の冷える光景だった。

アルジャーノンと芽衣は年齢が近いせいか話があうようだった。
正確な年齢はしらないけど、アルジャーノンと月美よりかは近いはずだ。
でもオリンポス山にはひとつ目の巨人が住むというアルジャーノンの未確認生物雑学には、さすがの芽衣も面食らっていた。

月美はケバブサンドの他に、タコスとピザを即時配達してもらった。
月美がピザを食べ終わったころ、そろそろ次の講義が始まるからと言って芽衣は仮想空間から退席した。
粗茶二号と前の座席でいっしょに踊っていたトム猫さん(芽衣の電脳秘書だ)もいなくなった。
アルジャーノンも用事があるからと言って姿を消した。
タクシーがビルの前に停まった。

「ついたよ。」
 粗茶二号が言った。

さすがは最大手の宇宙船メーカーといったところか。
タワービルの立ち並ぶビジネス市街にあって、一番大きな建物まるまる一棟がルナスケープの社屋だった。

「これがルナスケープか。」

月美はピザの箱をゴミ箱に捨てながら言った。
こちらに倒れてこないのが不思議なほどの圧倒的ビルだった。

「私もついにエリートの仲間入りってわけだな。そうだろ?」

「ちがいないね。」
 粗茶二号はうなずいた。

しかしルナスケープ本社は真に月美の来るべき場所ではなかった。
もっと言えば月面都市ですらなかった。


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