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月面ラジオ {47 : 月面都市の建設現場 }

あらすじ:月美の想い人・青野彦丸は、月で宇宙船を作っている。

{ 第1章, 前回: 第46章 }


朝食を終え彦丸は庭を歩いた。
熱帯植物のあいだを縫って庭の奥に行くと、森に隠された基地の入り口のような金属扉があった。
マンションのエントランスホールに繋がるエレベーターの扉だった。
青野邸には玄関がない。
フロアまるごとが彦丸たちの邸宅なので必要ないのだ。
しいて言うならば、このエレベーターが玄関だった。

椰子の葉の下でエレベーターを待ちながら、彦丸はユエのことを考えていた。

ユエはもう自立している。
天下のルナスケープ社で働いているし、大学で勉強もしている。
学費はユエが自分で払っているし、生活費とマンションの賃料、果てはコンシェルジュとドアマンへのチップだって負担している。
でもまさか「娘の教育方針に口を出すな」と娘に言われる日がやってくるなんて。
たまに父親ヅラするとこのざまだ。

ユエもアルジャーノンも十代なのにもう自分の足だけで歩いている。
明日もし彦丸が死んだとしても、ふたりが生活に困ることは絶対にないだろう。
これまで教育なんて上等なものを施してきたつもりはないけれど、立派に育ってくれてほこらしい限りだ。

ただユエに関しては心配事も多い。
おなじ年代の友だちがいないのは仕方ないにしても、まさかひとりも友だちができないとは。
人間嫌いというよりも、見下している。
ユエは、尊敬するに値しないと思った人間に対してとことん横柄なのだ。

もしエリンが生きていたら、どうなっていただろう。
きっと、ユエのよき理解者、話し相手、友だちになってくれただろう。
ユエも違う性格になっていたかもしれない。
ユエだけじゃない。
彦丸たち三人、血のつながりを伴わないこの家族関係だって違っていたはずだ。
ユエの……
いや、ユエとアルジャーノンの母親になるはずだったエリンが生きていたなら……
そんなこと考えたってしかたないけれど、彦丸はよくそんな風に考えるのだった。

彦丸も歳をとった。
以前はそんなことなかったのに、近ごろはよく昔のことを思い返す。
エリンと再会したのは、彦丸が月にやってきてしばらく経ってのころだった。
そのころの月は依然開発中で、月面都市は完成していなかった。
もう二十年近く前のことだ……

重い扉を開けて外に出た。
月面都市のドーム中腹にある通路だった。
腰あたりまでの簡素な手すりから乗り出して、彦丸は下をのぞきこんだ。
むかしダムのふちに立って滝壺を見下ろしたことがあるけれど、ちょうどそれくらいの高さだった。

「来るたびに景色が変わっているな。先週、あんなところに工場はなかったはずだ。」

かつて荒れ地だった月面に工業地帯ができあがりつつあった。
それは建設しているというよりも、一枚の油絵を書き上げるようなおそるべき早さだった。
城塞のようなダンプトラックが、月の砂をコンクリート工場へ運んでいた。
空港の建設予定地でもある宇宙船発着場では、重機がたくさんの貨物コンテナをおろしている最中だ。
完成したばかりの月面マグレブは、化学工場や発電プラントに通勤する人たちを輸送している。

マグレブの路線はこれから拡張され、アポロ船着陸地点に建設される博物館と月面都市とをつなぐ予定だ。
路線の地盤はすでに整備が始まっていて、土砂を削り取られた月が暗い地肌をあらわにしていた。
荒れ地の中でそこだけ色が変わり、大地に定規を当てたような線が遠くまで伸びている。

彦丸が月に来てから一年が経っていた。

彦丸が立っているのは、月面都市のドーム中腹あたりにある通路だった。
外壁を点検するときに使用するもので、とても長い。
通路は大きく弧を描いて彼方まで伸びていき、やがてドームの影に隠れて見えなくなる。
遠方を走る船が水平線の下に消えてしまうように。

その通路の向こうで人が歩いていることに彦丸は気がついた。
誰だろう? 
点検作業員じゃないはずだ。
いまは作業員がひとりもいない時間帯で、その点検スケジュールは彦丸が作ったのだから間違いない。
きっと僕と同じような人なのだろう。
同じような人というのは、「誰もいなくなる時間と場所をスケジュール表から見つけ、そこでサボるような人」という意味だ。

建設現場ではみんな同じ宇宙服を来ているため、かなり近づいてもらわないと誰だかわからない。
正体不明の人物は、ノッシノッシとゆっくり歩きながら彦丸のところまでやってきた。
ヘルメットの中に人懐っこそうなヒゲモジャの顔が見えた。
男は軽く手を挙げて挨拶をするような素振りを見せた。

彦丸は首をかしげた。
何かしゃべっているようだけど、男の声が聞こえてこないのだ。
次第に身振り手振りでまくしたててきたけど、彦丸はチンプンカンプンだった。

「おい、マイクのスイッチが入っていないぞ。」

ここは宇宙空間だ。
マイクと無線通信がなければ、ベートーヴェンの第九を熱唱したところで誰の耳にも届かない。
それでも、男は手足をバタバタさせながらしゃべっていた。
彦丸に何かを伝えたいようだ。
腕いっぱいに大きな円を描き、それを下から押し上げた。

「太陽、かな? 太陽がのぼり……」

それから今度は反対に押し下げるのだった。

「太陽が沈む……」

男は両手の親指を立てて自分をさした。

「俺は……」

最後に、体の前で腕を交差してから、両腕を地面と平行になるように外いっぱいに広げた。

「水平線だ。」

だめだ、わけがわからない。
きっとマイクがイカれてるんだろう。
僕に声が届かないだけなら、別の手があるはずだ。

「スピーカーはこわれていないだろ? 僕の声が聞こえるなら右手をあげてくれ。」

男は右手をあげようとした。
よかった、と思ったのもつかの間、男はそのまま腕をブンブンと振り回した。
聞こえているのかどうか、ますますわからなくなった。

「聞こえているんだろ? なら左手を上げてくれよ。」

しかし男はとたんに屈伸運動を始めるのだった。
彦丸はだんだんとイライラしはじめた。
たいして意味のないことだけど、ヘルメット同士をカチ合わせて、間近でがなりたててやろうと立ち上がった。
そのとき、ふと気づいた。

「あんた、もしかして、はじめから何もしゃべっていないだろう?」

直後、爆発したような笑い声がきこえた。
彦丸はおどろいて飛びあがりそうになった。

「すごいぞ!」
 男の野太い声がヘルメットの中で響いた。
「一分以内に見抜いたやつは初めてだ!」

「あんた、いったいなんなんだ?」
 彦丸は眉をひそめた。

「俺はグルアーニー。」
 男がヘルメットの中でニカッと笑った。
「ただのヒマ人だ。」

「俺のことはグルでもアーンでも好きなほうで呼べばいい。」
 グルアーニーが彦丸の隣に腰掛けながら言った。
「見てみろよ、おい。すげぇ景色だ。俺が最初に来たとき、ここはただの荒れ地だったはずだ。あっという間に風景が変わっちまう。地球では、月面の環境保護を訴える運動が始まっているらしいな。」

なれなれしいヤツだと彦丸は思った。
昨日の話の続きを友だちとするくらいの気軽さだ。
ここが宇宙空間でなければ、ジャケットの内ポケットに潜ませたバーボンをこっそり分けてくれただろう。

彦丸もグルアーニーの隣に座った。
男が二人して並び、手すりの向こうに足を投げ出してプラプラさせていた。

「何をしていたんだ?」
 グルアーニーは尋ねた。

「家の下見だよ。」
 彦丸は答えた。

「家なんてどこにあるんだ?」

彦丸は工業地帯のはるか向こうを指した。
宇宙服はぶ厚いので、指一本を残して丸めるなんてなかなかできず、少し不格好な形だったけど、それでも地平線の先を彦丸は指し示した。
そこには、月面ラボと呼ばれる研究施設郡があった。
ここからでは、どの建ものも角砂糖くらいにしか見えない。

いきなり、ヘルメットのプレートに文字が映った。
「ルナリア月面地質学研究所」と表示され、そこから白い矢印が伸びて、研究所のひとつを指した。

このヘルメットは本当にすごい。
彦丸が興味をもったことについて進んで教えてくれる。
まるで魔法だ。

「研究所ねぇ……」
 グルアーニーは、うなるように言った。
「あそこを買い上げるつもりか? 確かに月面都市が完成すれば、外部の施設はほとんど用済みになる。企業や個人が手に入れるのも不可能じゃないだろう。だが、どうしてあんなのがほしいんだ。」

「月でやるべきことがある。とても大きなことだ。そのための拠点がほしいんだ。」

「何をやるつもりだ?」

「船さ。」
 彦丸は言った。
「大きな船をつくるんだ。誰も到達できなかった所まで行ける巨大な船を。」

「地球に帰る気はないのか?」

「ない。」

「面白そうだ。おれにも一枚かませろよ。」

「君と組んで僕になんの得があるんだ?」

「下見をするんだろ? 今からバギーを出してあのラボを案内してやる。」

彦丸はおどろいた。
一瞬、グルアーニーの言っていることがわからず、固まったほどだ。

「研究所の関係者……なのか?」

「そう見えるか?」

「いや。」
 彦丸は首をふった。
「ならどうしてそんなことができるんだ? そもそもバギーに乗って月をドライブだなんてできるわけないだろ?」

「俺ならできる。」
 グルアーニーは、さも自信ありげだ。
「おまえさんも知ってのとおり、月ってのは『あれをするな、これをするな』の管理社会だ。月面都市では車の運転すらできないだろう。なぜなら人が勝手気ままに行動すると大事故が起きかねない。」

「ここは宇宙だからね。当然だと思うけど。」

「俺はその管理の外にいる。なぜならその管理の仕組みをつくっているのがこの俺だからだ。」

彦丸はふたたび首をふった。
興味深い話ではあるけれど、とても信じられなかった。

「不可能だ。」

「お前がそう思っているだけだ。」

「どうやってその管理の外に出るんだ?」
 彦丸はたずねた。

「おまえは何かを企む時、いちいちその方法を他人に説明したりするのか?」

予想もしない返しに彦丸はキョトンとした。
でも、嫌いじゃない答えだった。

「ないね……」
 彦丸はニヤリとした。
「おもしろそうだ。運転は僕にさせてくれよ。車の免許は持ってないけど大丈夫かな?」

「いいぜ。どうせ俺も持ってないしな。まぁ、交通事故なんてそうそう起こらんだろ。車どころか、歩行者すら月にはいないんだ。」

彦丸はグルアーニーと握手を交わした。
これが、後にすべての電脳秘書の祖と呼ばれる「ハルル」を開発した伝説のエンジニアとの出会いだった。

これまで車の運転さえしたことがないものだから、どういうのが安全運転で、どういうのが危険運転なのか彦丸には皆目検討もつかなかった。
でも、ふたりともまだ無事なわけだし、もうすこしだけアクセルを踏み込んでもバチは当たらないだろう。
バギーの金属メッシュのタイヤが、地雷でも踏みつけたかのような砂ケムリをあげた。
丘を登るたびに車体がフワッと浮かび、そのたびにグルアーニーが車体にしがみつくのを彦丸は横目でみながら、月に来てからこんなに楽しいことはないと思った。

彦丸は上機嫌だった。
歩いて行くには少々遠い月面ラボも、このバギーならすぐに着いてしまうだろう。
対してグルアーニーは、なかなかどうしてご機嫌とはいかないようだ。
ヘルメットの中でグルアーニーのうなるような声が聞こえた。

「言っておきたいことがあるんだが……」

「なんだ?」

「いま俺たちの命と頭を守ってくれているこのヘルメットを開発したのは俺なんだ。」

「へぇ!」
 彦丸は感心してうなった。
「グル、さっき君はソフトウェアのエンジニアだって言ってたけど、ヘルメットも作れるのか?」

「正確には、ヘルメットの動作を制御するソフトの開発だな。」
 グルアーニーは言い直した。
「月の施設や地名がディスプレイに表示されるだろ? ああいうのを作っているんだ。」

「月面で作業をするとき、自動で作業ガイダンスや指示書が表示されてとても助かるんだけど、あれも君のおかげってことか?」

「そのとおりだ。」
 グルアーニーはうなずきながら、自分のヘルメットを指でコツコツと叩いた。
「こいつは試作段階で作られた検証機のでひとつで、世界にひとつしかない記念のユニットだ。大事なヘルメットにゲロをぶちまけたくない。前置きは長くなったが、言いたいことはそんなに難しくない。安全運転でたのむ。」

「わかった。」
 彦丸は言った。
「ところでブレーキってどうやってかけるんだ?」

は?

グルアーニーがすっ頓狂な声をあげた瞬間だった。
彦丸たちのお尻が急に持ちあがり、足と頭の位置が入れ替わった。
彦丸たちの乗ったバギーがひっくり返ったのだ。

ふたり同時に悲鳴をあげた。
スピーカからはグルアーニーの声が響き、ヘルメットの中では自分の声が反響した。
グルアーニーのヘルメットでは反対のことが起きているだろう。

バギーは、竹で編んだカゴのようにコロコロと坂を転がっていった。
彦丸たちは為す術がなかった。
まるでボールの中にいるような気分だった。

バギーは丘のふもとまで転がった。
最後に引きずられるように転がると、やがて止まった。
舞い散った月の砂もゆっくりと地面に戻っていった。

車体は見事にひっくり返っていた。
彦丸たちも、シートベルトで座席に縛り付けられて逆さ吊りの状態だ。
彦丸の頭はまだグルグル回っていた。
グルアーニーのうめき声もしばらく鳴り止まなかった。

二人はシートベルトをはずし、車体のフレームの隙間からなんとか這い出た。
グルアーニーはうめきながら立ち上がり、宇宙服についた月の砂を払った。

「やれやれ。死ぬかと思ったぜ。」

「ケガがなくてよかった。」
 彦丸も立ち上がった。
 砂まみれのバギーが目の前に転がっていた。
「こいつはどうすればいいんだ?」

「ひっくり返すしかないだろう。」

そう言うと、グルアーニーは屈んでバギーの車体の下に手を潜らせた。
彦丸も同じようにした。

「このバギーは軽すぎるね。」
 彦丸は踏ん張りながら車体を持ち上げて言った。
「簡単にひっくり返るよ。」

「重いとひっくり返っても元に戻せないだろ?」
 グルアーニーは答えた。
「それと、ひっくり返ったのはお前の運転が下手だからだ。さっさと元に戻すぞ! せーのっ!」

二人が同時に力を入れると、バギーの車体が反転し、元の通りになった。
シートから砂埃を叩き落としているときに、ふいにヘルメットの中で電子音がなっていることに気がついた。

「なんだ? ヘルメットに反応が……」
 彦丸は顔を上げた。

ヘルメットには、

付近に野外作業者一名
要注意

という警告が出ていた。

「近くにだれかいる。」
 彦丸は言った。
「だれだろう?」

「ラボの連中だろう。調べてみろ。名前がわかるはずだ。」

彦丸はヘルメットの警告する先を見た。
すぐにその人物の名が表示された。
彦丸は固まった。

「どうした?」
 グルアーニーが彦丸の様子に気づいた。

「エリンだ……」
 彦丸は言った。
「エリン・エバンズ……」

「ああそうだな。だが俺も英語くらいなら読めるんだ。いちいち声にしてくれなくていい。さぁ、さっさとバギーに乗るんだ。」

グルアーニーは運転席に陣取りながら言った。
その席を譲る気はもうなさそうだ。

「僕の知り合いなんだ。」
 彦丸は言った。

「は?」

「すぐ戻る。」

そう言うと、彦丸は一目散かけ出した。

彦丸が現場に駆けつけると、そこに人影はなかった。
代わりにテントが一枚張ってあった。

「テント……?」

月面用のテントだった。
かなり珍しい代物だ。
月面でフィールドワークを行う研究者たちがこういうものを使っていると聞いたことがある。
テントの中は完璧に気密が保たれていて、宇宙服を脱いで食事をしたり仮眠をとったりできるそうだ。

無線を近距離専用のオープンチャネルに切り替えた。

「誰かいますか?」

しばらく立ったままでいると、テントから宇宙服を来た女の人が出てきた。

彼女がこちらを見た。
ヘルメット越しでもわかる大きなメガネと印象的な赤毛の髪……
間違えようがない。
エリンだ。

「ひさしぶりね、彦丸。」
 エリンが言った。
「いかがかしら? 死にたいほど憧れた月世界は。」

七年ぶりの再会だった。
僕はもう大人になっていた。
これよりさらに三年後、僕は彼女に結婚を申しこむことになる。


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