月面ラジオ { 38: 月面大学(2) }
あらすじ:初恋の人を追いかけ、月で働くことになった月美は、砂漠の僻地に閉じ込められ、脱走しました。
◇
◇
仮想空間ではなく、こうしてじかに会うのは久しぶりだけど、芽衣がやたらと成長していることに月美は気づいた。
低重力の月にいるだけで身長はいくらか伸びるけど、それにも増して大きくなっている。
髪ものびていた。
スーツの代わりに悲惨なチェックのシャツを着ていることをのぞけば、幼いころの私があこがれていた姉の姿だと思った。
「成長したな。」
月美は言った。
「半年で五つくらい歳をとったんじゃないか?」
「ええ、いやだなそれ。」
芽衣がうめいた。
「五年たったら、おばあちゃんになっちゃうね。」
月面大学のロゴマークの入ったマグカップを持って芽衣がキッチンの奥から戻ってきた。
芽衣は、両手のマグをテーブルに置いた。
紅茶がなみなみとそそがれている。
まだ熱かったけど、月美は両手でカップを抱えて口元にはこんだ。
「この部屋、ちょっと暗いな。」
月美は言った。
芽衣が指をぱちんとならした。
するとカーテンがひとりでにひらき、ガラス張りの壁があらわれた。
人工太陽の光が部屋に取りこまれ、天井の灯りが消えた。
月面大学の学生寮は、広大な芝生に面していた。
寝転んで食事をしている学生もいれば、三人チームでフットボールをしている者もいた。
庭の向こう、敷地の外には人工の森林が続き、その果てには地底洞窟の崖があった。
崖からは、月の氷鉱山から採掘した水が滝となり、白い線を引くように森林へと降りそそいでいた。
建物が塔のようにそびえ、しかも押し合いへし合いしている都市部とくらべ、大学区は例外的に建物の背がひくい。
芝生の庭があるし、地球の自然を再現した森林環境とも隣あっている。
大きい建モノもあるけれど、せいぜい五階建ての図書館くらいのもので、これはせまい月面都市にあってたいへん贅沢なものだった。
この広々とした景観は、学び舎に住む者たちの特権といえた。
「わるいな、急におしかけて。」
月美は言った。
「ファビニャンもいたってのに……」
「いいよ。どうせ、次は別々の講義だったし。」
「その講義はだいじょうぶなのか?」
「だいじょうぶ。あとでアーカイブされた講義を仮想空間で受講できるから。」
「たいしたもんだ。」
芽衣は月美の質問に答えるけど、自分からなにもたずねなかった。
そして黙って月美を見ていた。
月美が紅茶を飲み干したころ、芽衣はやっと自分のマグカップに手を伸ばした。
おかわりを要求しようかと迷っていると、月美はふとあるものに気がついた。
芽衣の机(スパナやネジの入った箱があるので、きっと芽衣のだろう)に、宇宙船の模型が浮かんでいた。
仮想空間の広告ではなく、じっさいに触れる本物の模型だった。
机の上で電磁浮揚させているのだろう。
「こいつが木土往還宇宙船ってやつか?」
月美は尋ねた。
「うん。そうだよ。」
芽衣は答えた。
「自分で造ったんだ。月だとなんでもすぐ浮いちゃうんだね。模型どころか、本物の車まで!」
「そういえば往還船クルーの募集がもうはじまってるんだよな?」
「そうだよ。私も申し込んだんだ。」
芽衣は言った。
「へぇ、そうなんだ。」
なんとなしに月美は相槌を打った。
とある夜長に「この船に乗るんだ」と芽衣は語ったことがあった。
「月美ちゃん、私じゃ受からないと思ってるでしょ?」
「そんなわけないだろ。」
月美は慌てて言った。
「でも芽衣はまだ学生だろ? たいへんな選考だってのに、それこそ成績は大丈夫なのか?」
「大学は往還船クルーへの挑戦を認めているわ。選考の対策をレポートすれば、ちゃんと成績として認められるの。それに、私、一次選考ならもう通過してる。」
「へぇ! すごいじゃないか。」
「選考といっても書類審査だけどね。月面大学の人間なら無条件で合格なの、じつは。本当にたいへんなのはこれから。」
「帰ってくるまでに十年かかるんだろ? ほんとにそんな遠くまで行きたいのか?」
「外惑星は私の目標よ。」
芽衣は言った。
「木星にも土星にも私が人類で最初にたどりつくの。その席は誰にも譲りたくない。」
「結婚は?」
月美は言った。
「男ができないまま三十過ぎまでずっと宇宙にいつづけるのか。」
「かまわない。」
芽衣は言った。
「あと十年結婚しなくたって、今の月美ちゃんよりまだ年下だしね。」
「痛いところをつかれたね!」
粗茶二号が言った。
まったくだ、と月美は思った。
ほんとうにまったくなんて痛々しいんだ。
芽衣と話していると、切なくて心が痛くなる。
結婚のことじゃない。
芽衣も、ここの学生たちも、それからあのユエという女も、月にいる若者はみんな私よりも先を歩いているようだ。
なんだか自分だけ場違いなとこにいるみたいで、なさけなくなる。
私はさっきなんて言った?
仕事がうまくいなかくて逃げてきたんだ、だ。
よくもまあこの子の前でそんなことが言えたもんだ。
恥ずかしくて、どこかに隠れたい気分だった。
「どうしたの月美ちゃん?」
芽衣は言った。
「なんでもないよ。」
月美は答えた。
「どうしたの、月美ちゃん?」
また芽衣が言った。
今度は念を押すように、すこし大きな声で。
心から月美を心配しているようだ。
「ホームシックなの? そんなの、誰だってなることじゃない。ひとりで悩まないでカウンセリングに行ったほうがいいよ?」
「そういうわけじゃないんだ。」
月美は首をふった。
「まさか例のあの人と会ったの?」
「いやそうじゃなくて……」
月美は言った。
「言っただろ、仕事がうまくいってないって。だから月面ラボを出てきたんだ。気分転換ってわけじゃないけどさ、あいつのつくった街を見たいんだ。それに、万が一にもあいつとすれ違うようなことがあったら、私はたまらなく嬉しいと思う。」
「会いに行かないの? その……偶然にすれ違うんじゃなくて、もっと積極的にさ。」
「もちろん会いたいさ。」
月美はうなずいた。
「会っていっぱいお話したい。でも……」
「でも?」
「ダメなんだよ。」
月美は首をふった。
「私はまだ月で何もやり遂げていない。私はあいつの隣に立っても恥ずかしくない人間になりたいんだ……お?」
月美は芽衣の顔をのぞきこんだ。
「だったらなんでこんな所にいるんだ、って顔をしてるな? わかってるよ。自分が甘ったれているってことはね。私はおまえやユエとは違うんだって最近つくづく思うよ。」
「ユエ?」
「ああ、そうだった。まだ話してなかったよな? この前、すごいヤツに会ったんだ。会ったというか道案内させちゃったんだけど。」
月美は、ユエとの出会いを芽衣に聞かせた。
ルナスケープのエントランスで途方に暮れていた月美をルナ・エスケープまでユエが案内してくれたことを。
「ユエ? もちろん知ってるわ。」
芽衣は、少し興奮しながらすでに空っぽになったマグカップを両手でにぎった。
「有名人じゃない。月で工学やっててユエを知らない人はいないわ。」
「月面都市にはユエみたいなのがたくさんいるんだろ? せっかく月に来たってのに自信なくしちゃうよ。」
「いちいち誰かと比較してたらきりないわ。」
芽衣が怒ったような口調で言った。
「月は特別な人たちが集まるところなの。ご近所さんがノーベル賞の受賞者だったなんてザラよ。受賞してないだけで、それと同等の人たちだってわんさか。」
「私も月美ちゃんもまだまだ月の端っこに指を引っかけただけ。」
芽衣は続けた。
「結果が残せなかったらすぐ地球に降ろされちゃう。」
芽衣と自分がおなじ場所にいるだなんて月美には思えなかった。
芽衣が指でぶら下がっているのなら、私はいったいどこにいるのだろうか。
六畳一間のアパートからまだ月を見上げているような気がする。
「でも、月美ちゃんの気持ちは私にもわかる。」
芽衣は言った。
「ほんとにショックだもの。私より四つも歳下なのに、一流の技術者だなんて。」
「ん?」
月美は首をかしげた。
「私が言っているユエってのは、ルナスケープで人工知能の開発をしているユエだ。学生のユエじゃないよ。」
「カン違いじゃないわ。私が言っているのもそのユエよ。あの子まだ十九よ。月面大学では最年少の学生だし、学生しながらルナスケープでも働いているの。」
「うそだろ。」
月美は言った。
「いま宇宙に来てから一番おどろいているんだけど? あいつどうみても三十歳くらいだろ。」
「月美ちゃん、知らなかったの? ユエは『ルナリアの子』よ。月生まれの月育ち。それも第一号。見た目は大人だけど、それは低重力で育ったせい。月生まれの人は体が大きくなるし、成長も普通よりずっと早いの。」
「低重力だと頭も早熟なのか?」
「そんなわけないでしょ? トマトじゃないんだから。」
芽衣が言った。
「そういう才能があったし、一生懸命勉強してきたのよ。それに、月はユエの才能を育てる最適の環境だった。彼女にソフトウェア工学を仕込んだのは、人工知能をデザインした伝説のエンジニアよ。彼女自身、友だち以上に人工知能とふれ合ってきた。月には同じ年代のこどもなんてひとりもいなかったから。まあ、そんなこんなで今はルナスケープで働いて、せっせと人工知能の開発に勤しんでいる。その先生はもう月にいないらしいけどね。」
「ずいぶん詳しいんだな。」
「とうぜん。」
芽衣が言った。
「あの子も私と同じエンジニア枠で、木土往還宇宙船のクルーに応募しているの。今のところユエが一番のライバルね。あっちは確定枠だけど負けたくないわ。」
「なあ、芽衣はともかく、ユエはなんで木星や土星なんだ?」
月美は言った。
「私はユエのことなんて知らないし、これは単なるカンだけど、あいつ、星だの冒険だのに興味を持つような人間じゃないぞ。」
「私が知るわけないじゃん。」
芽衣が言った。
もっともだ、と月美は思った。
「でもやっぱりユエは外の世界に行きたいんじゃないかな。だって彼女、木星と土星以外、他に行けるとこないんだもの。」
「ああ、そうか……」
月美は思い出した。
「ルナリアの子」は月でしか生きられないということを。
地球におりると肺や内臓がつぶれてしまうからだ。
月美だって重力六倍の星に行けば、歩くことすらできずに死んでしまう。
ユエは月の砂ぼこり以外に何も見たことないはずだ。
月面都市にあるのは人工の空と森だけで、本物の自然を見たことがないのだ。
はるか昔の人の残した建築や街だって見たことがない。
穏やかな風も、激しい雨も、生い茂る樹々も、流れる河も。
あの海も。
中世の街並みも、太古の遺跡も。
ユエにとって月は庭みたいなものだけど、同時に牢獄なのかもしれない。
月以外どこにも住むところがないのだ。
あいつは月で生まれ、たぶん月で死ぬ。
もし自分がユエだったら?
月面都市はあこがれだったけど、地球に帰れないとなると私はどう思うだろうか?
マニーのみていた映画の主人公のように「頼むから帰らせてくれ」と泣いてしまうかもしれない。
ほんの数ヶ月缶詰にされただけでもウンザリなのだから、そんな風に懇願したところで不思議ではない。
ユエの境遇に同情すると、月美はとたんに落ちこんでしまった。
「私たちがしんみりしててもしょうがない。」
芽衣は言った。
「月美ちゃん、おたがいやり遂げましょう。月美ちゃんは仕事を成功させる。私は往還船クルーに合格する。打倒ユエ・アオノよ!」
「アオノ? あいつの名前は、ユエ・チンイェだ。」
心臓が早鐘を打つのを感じながらも、月美は努めて冷静に言った。
「あいつ自身がそう名乗ったんだから間違いないよ。」
「そっちは中国語よ。ユエという名前にあわせてファミリーネームの『青野』を中国語で読んだだけだと思う。」
芽衣は言った。
「あの子の父親は、青野彦丸という人よ。もとは宇宙建築専門のコンストラクション・マネージャーで、無重力と低重力工学のスペシャリストね。月美ちゃんの行きたい宇宙水族館も、その人が造ったんだよ。今はムーンスケープ社で、大型船を建造している。それに執行役員のひとりだし、個人投資家の中では筆頭株主よ。補足すると、宇宙滞在時間の最長記録保持者でもある。宇宙に来てから一度も地球にもどってないらしいの。イカれてるわね。ん? どうしたの月美ちゃん?」
月美の青ざめた顔を見て、芽衣はおどろきの声をあげた。
「ねぇ大丈夫? お医者さん呼ぶ?」
「いや、大丈夫だ。」
「でも……」
「ほんとに大丈夫だ。心配いらないよ。」
月美は、自分ではとても穏やかだと思っている声で芽衣を静止した。
でも声は震えていた。
「アオノねぇ……」
月美は深く息を吐いた。
「ユエ・アオノ……こっちのほうがずっと発音しやすいじゃないか。」