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私の表現が写真に変わった時のこと#01

幼い頃はあまり文字や言葉で感情を伝えることが得意ではなかった。

「きれい」や「たのしい」と言った言葉では表現出来ない感覚、自分のボキャブラリーの範囲では伝えきれない感情を常に持っていた。

そこで自分の感情を表現する手段として「絵を描くこと」を自然と選択していた。


美術の高校へ入学

美術の時間だけを生きがいにしていた私は美術の専門高校へ入学した。

「やりたい」が「やらなければいけない」に変わる瞬間、描くたびに評価で決まる絵の世界に息が詰まりそうになりながらもずっと描くことが好きだった。

小学生の時からデザイナーになることが夢だったが、高校2年の専攻からは絵画を選択した。

大学に入ってデザインを学んだら、もう絵を描かなくなってしまうかもしれないと思ったからだ。

そして初めての油絵。
輪郭でモノを捉えるのではなく、色を重ね光を描く感覚がものすごく心地よかった。

日本画も経験し、その感覚は明らかになった。

「輪郭線が描きたくない」と。



カメラとの出会い

ずっと写真を撮ることには興味があった。
ただ、写真は何かを「記録するもの」という感覚しかなかった。

絵画を学び、ある程度描くスキルを身につけていくと、空想のものではなく目の前のモチーフを描くことが主となり「忠実に描くこと」よりも「わたしの目で見てきたもの」を描きたいと考えるようになった。

そこで、絵の素材として写真を撮るようになり、ずっと貯めてきたお金で初めてカメラを買った。


“描く”から“写す”へ

「次はこの景色を絵にしよう」

そんな事ばかり考えながら撮影し、絵を描いた。

そしてある程度カメラの操作も手慣れ、馴染んだ時ふと自分で気づいたことがあった

「絵じゃなくても、描きたいイメージが写真で表現できる...」

絵の素材として撮影を始めた写真は、いつしか表現へと移っていた。


“  ” にしかできないこと

それでも私は完全に絵を描くことはやめなかった。

「絵にしか表現できないこと」「写真でしか表現できないこと」それぞれの表現があると気づいたからだ。
それは双方を愛し、経験したからでた結論だと思う。


“記録写真”と“表現の写真”

写真に“表現”という意識を持つようになったものの、記録写真と表現が混在している事に違和感を感じていた。

しかし、よく考えてみると私は絵で描いてきたものも記録(真実)の先にある感情を形にしたものであり、架空のものはあまり描かない傾向にあった。

大学生の時に自分の写真表現を模索してる時に自分の写真を分析したことがある。(一部添付)

これまで撮ってきた写真を振り返り俯瞰してみると、自分の目で見たものや人を通して自分を表現しているのだという考えに行き着いた。


その後、私はこれまで経験してきた“絵画”と、後から表現へと繋がった“写真”の境界を模索していくのである。


続く。


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