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「期待しない」で苛立ちは減るが寂しさが身に染みる|Jan.06

33歳のわたしは、かつてほど自分に期待しなくなっていた。

20代の終わりまで、付き合っていた人や友人や同僚。たくさんの出会いと別れがあって、わたしは自分が誰かから優先順位の上位で扱われるような人間ではないなと感じる出来事もあった。

おかげですっかり自意識をある程度飼いならせるようになった今。

自分を可愛がれるのは究極的に言えば自分しかいない。

自分にも他人にも期待をしないと、心を持っていかれることもさほど多くなくて生きやすいなあと思うけど、何でもかんでも期待値を下げてしまうのは人として生きる上であまりにも達観しすぎているというか、淡白すぎる気もするし、逆に人に対しても自分に対してもある程度期待してあげないと生きづらい部分も出てくる気がし始めている。加減は難しいものである。

期待しすぎない生き方に味気なさを感じているのも事実で、何がそう感じさせるのか?と自分を振り返ってみたところ、ふとした瞬間どこからともなく気配を感じてしまう「寂しさ」がわたしに期待する生き方に戻っておいでよとささやき続けている気がしてならない。

自分の見た目や女性として、いち社会人として、ビジネスマンとして評価されたかった20代の頃の自分は何処かへ行ってしまったけれど、わたしにはかつての形ではないにしても何かしら自意識があるわけで、その自意識の軸はいまどこにあるのか?をもう少し言語化してみたいと思っている。

先述したとおり、見た目にある程度無頓着になtれるので、女性としてからは完全に重心を外している。

ならば、職業人としてはどうか?
社会人としてはどうなのか?
今の私には配偶者も恋人らしき人も守るべきものも特にないので、自意識の軸は完全に人としてか仕事人としての二軸しかない。


とはいえ、自分期待されてるな!と思うシーンもさほど多くなくなっているいまはとっても身軽で最高だ。けれども、やっぱりいつもどこかでうっすら冷たさを感じる秋の風のように、寂しさが身に染みる日々がちょっとだけかなしい気持ちも連れてきてしまう。


これからは少し、前向きになれる「期待」とは何か、それはどういうことなのかを考えていきたい。

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カナエナカ
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