20210304の日記

昨日は雛祭りだった。

俳句をはじめてから、季節の流れや行事などに対して「俳句があるから客観的に深く捉えられる」ようになった。わたしは昔から、状況が変化することや特別な日について、とても苦手意識がある。しかしその「苦手」が「これは楽しむものではなくて経るものなのだ、経験とは楽しいことばかりではないだろう」と学ぶべきものとなった。これは俳句を始めて助かったことのひとつである。

季語とは、もとい、季節にまつわるいろいろな事象は、美しい。しかしあかるく愉しむものばかりではない。時にそれは厳しく、さみしく、それもまた美しく映る。それが季語であり、俳句という文学を高めている理由であると思う。

わたしにとって季節の行事は、前回の日記に書いた誕生日とおなじように、気持ちが妙に高ぶり、結果、テンションの下がる日となってしまう。上手くいかずにたいてい泣いている。

わたしの春の句に「春の服だいたい泣いている記憶」というのがある。だいたい泣いている記憶である。

さて雛祭りだったのだが、朝からいつものように体調が優れず、頭痛薬をのんだ。ふせってばかりいられない。今日はちらし寿司とから揚げとおすましをつくる。

薬はなんとか効いて、でも身体はぼおっとしている。ごはんを鍋で炊いたけれど、炊き上がりがなんだか固い気がする。寿司飯にするからいいことにする。おすましをつくる。味見をして、ベストだとその時は思った。漬けておいたから揚げを揚げる。醬油が多かったのか、二度揚げしたときに黒い焦げ目がたくさんついてしまう。きっと美味しいだろうけど、見た目があまりよくない。

スーパーに売っていた、サイコロ状に切ってあるお刺身セットを買って、固い目の寿司飯(お酢をしてもやはり固い)にいくらと一緒に散りばめる。見た目はとてもよい。安心する。から揚げ、わたしがこげたこげたと騒いだものだから、揚げ物が苦手なはずの父が「から揚げ美味しそうやん」と気を遣って嘘ぶる。から揚げは確かに美味しかった。でもおすましは妹に「薄いー」と低評価をいただく。

夕食を終えて、ツイッターをひらくと、俳句の友人たちがすてきな雛飾りやちらし寿司を見せてくれた。ああ、いいなあ、すてきだな。つぎの雛祭りこそは穏やかに迎えて、寿司飯もふっくら炊き上げてみたいと思う。

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