奥出雲・再会の旅 上
いつもお読みいただき、ありがたうございます。玉川可奈子です。
大型連休が始まり、そしてアツといふ間に終はりました。九連休だつた方もゐれば、全く休みのない方もをられるでせう。しかし、この程度の連休で大型ならば、毎日の勤務は大型連勤なのではないでせうか。働くことは大切ですが、働き過ぎはよくありません。働いた分、休むのも健康のためには大切なことです。
そして、この連休の最中に、一つ齢を重ねました。私は少し前まで四十代になるのがたまらなく嫌でした。しかし、最近になつてそのことを許せるやうになりました。それは、四十代の深さや趣きが自分から滲み出てゐることに気付いたからでした。
今回は、久し振りに島根県まで行つてきました。令和五年の志に書きましたが、奥出雲おろち号といふトロッコ列車に乗る旅に出ました。長めですが、どうか最後までお付き合ひください。
スサノオ号との再会
「何が何でも定時に上がる!」
たとへいかなる指示があらうとも、定時で帰る。その強い一念のもと、五月一日「も」さつさと帰りました。仕事より、私生活(プライヴェート)が大切なのは当然です。仕事如きに縛られたくありません(誤解を招きさうですが、私は勤務時間内は真面目に働いてゐるつもりです。時間外労働や年中仕事のことを考へてゐるやうな奴隷的発想が嫌ひなだけです)。
そして、鶯谷駅近くの陽だまりの泉 萩の湯でサウナに入り、二十時過ぎに東京駅に着きました。
今回の旅のはじまりは、「瀬戸内の旅」以来、
「もう乗るまい」
と決めてゐた夜行バスです。スサノオ号・出雲大社行きです。
東京駅のバス乗り場に着くと、早くもラーメン二郎並みの行列ができてゐました。
検札を済ませ、車内に入ると三列シートの窓側です。進行方向の右側、階段の近くで、横に席がないので、隣を気にする必要がありません。
定時に出発し、車内で出発前に間違つてアップしてしまつたnoteの記事の訂正をしてゐたら二十一時になつてゐました。
早くも鼾をかいてゐるおぢさんがゐます。私も安心してきたのか、少し眠くなりました。気がかりなのは、明日の朝、八時までに松江駅前に着くかどうかです。もし、遅れたら目当ての列車には乗れません。定刻では七時二十二分には着く予定で、一応、多少の遅れは想定してゐます。
鮎沢PAに二十一時四十六分に到着し、しばらく休憩となりました。外に出てバスの写真を撮りましたが、エアロキングとセレガくらゐしか知らない私には車種がわかりませんでした。
ところで、出雲に行くのは何時以来でせう。確か、二年前に初めて適応障害になつた時だつたと記憶してゐます。本物の整体師として尊敬するせのお整体に行き、人生のヒントを求めに行つた時ですね。
師は私に、
「今の仕事を辞めて、本格的に文学の道に行けば道も人脈もつと広がる」
と述べてゐました。このためだけに出雲へ行きましたが、とても有益でした。ちなみに、この時、往復でスサノオ号に乗りましたが、行きはスカスカで乗客は私だけでした。
※以下のnoteは参考です。
二十時二分。バスは鮎沢PAを発車しました。発車前に運転手が、
「東名高速は渋滞の影響で、二十分程の遅れが見込まれます」
といふ不吉なアナウンスを行ひました。かういふのは嫌ひです。
そして、その一分後に車内は徐々に減灯され、青い灯りになりました。明日の到着時間が無事であることを信じ、私も寝ることにしました。
深夜二時頃、目が覚めるとバスが停車してゐたので渋滞かと思つたら、甲南PAでした。安心して、また寝ました。
翌朝…。五時過ぎに目を覚ましました。iPhoneの地図で位置を確認したところ、バスは岡山県内を走行してゐます。「くめ」と表示されてゐます。『古今和歌集』にある、
美作や 久米のさら山 さらさらに わが名は立てじ 萬世までに
の「くめ」でせうか。
それにしても、寒い。そして頭が痛い。それなりに防寒してきましたが、ダメでした。やられました。それでも前回の旅ほどではなく、どうにかなりさうです。
五時四十八分頃、蒜山高原SAでしばら休憩となりました。小さな紙コップ一杯の白湯を飲み、あたたかい缶コーヒーを買ひました。
天気はとても良く、佐久良東雄先生の次のお歌を思ひ出します。
朝日陰 豊栄のぼる 日の本の 大和の国の 春のあけぼの
六時五分頃、バスは出発しました。寒い中、車窓を眺めてゐました。山並みが美しく、見てゐて飽きません。太陽がまさに天に昇らんとしてをり、まさに「あけぼの」です。
鳥取県に入り、米子の街が近付くと、懐かしい感じがしてきます。
そして、定刻より早く松江駅前に着きました。八重垣神社や松江護國神社など、行きたいところはありますが、けふは時間がありません。備後落合駅までのきつぷと食料を購入し、ホームに行きました。
山陰本線との再会
七時三十六分、出雲横田駅から来た快速列車が四番線ホームに入線してきました。好きです好きです心から愛してゐますキハ120系です。しかし、塗装が赤一色で、ダサい…。
この列車は、松江駅で折り返して宍道駅行きになります。私は、進行方向右手の座席に座りました。
発車を待つてゐる間、国鉄色の特急やくも、快速アクアライナーで運用してゐたキハ126系、キハ47系など、ひつきりなしに入線しては発車して行きました。
今回の旅は、まさに「再会」がキィワードなやうな気がします。スサノオ号、キハ120系、島根県、山陰本線、木次線、そして奥出雲おろち号…。
七時五十八分、定刻に列車は松江駅を出発しました。しばらく行くと、宍道湖が見えてきます。よく晴れてゐて、雲一つない中を列車は走り抜け、一瞬だけ嫁島が見えたかと思ふと、すぐに乃木駅に着きました。
それから、清少納言が『枕草子』に記した玉造の湯がある玉造温泉駅、来待駅を経て宍道駅に着きました。
ところで、けふサンライズ出雲に乗つて島根県に来た人は幸運でせう。何故なら、この美しい宍道湖を目覚めと共に堪能できるからです。宍道湖の穏やかな湖面を見てゐたら、昨日までのザワメキを忘れてゐました。
私はかつて、一年だけ島根県出雲市に住んでをり、現地の某私立学校で教鞭をとつてゐました。そこでは、様々なハラスメントや理不尽を経験しました。部活動といふ不条理なシステム、進学コースといふ無駄な努力。そして、他所者に対する排他性。さうしたことから島根県、特に出雲市には良い思ひ出がないのですが、この宍道湖の景色はさうした悪しき中でも好きなものの一つでした。
この列車の終点である宍道駅に着きました。次の木次駅行きの列車の発車まで四十分以上時間があつたので、一旦外に出て宍道湖まで歩きました。
遠くに飛行場が見え、ちやうど飛行機が着陸した時でした。
木次線との再会
宍道駅では再びキハ120系に乗ります。今度は、木次線ラッピングの施された車両です。車内はロングシートですが、私は気になりません。
発車十分くらゐ前に扉が開き、車内に人が乗りました。乗客の九割方が、これから奥出雲おろち号に乗ると思はれる人(カメラを下げてゐる、カバンが大きい)でした。ロングシートの八割が埋まつたところで、木次方面へと走り出しました。
木次線の車窓は、ラファエル・フォン・ケーベル博士がいはれた「純粋な日本」を感じられるものです。瓦屋根の家、鯉のぼり、田んぼ…。特に田んぼは、カブトエビやホウネンエビがゐないか気になるところです。
多くの乗客が、身体をねじり車窓を楽しんでゐました。
しばらく走ると、列車は雲南市に入ります。雲南市は、吉田くんではなく、かつて運命を感じた人が今、住んでゐます。その人とは同じ誕生日(一つ違ひ)、同じ銭湯好き、同じ健康マニアでワクチンを接種してゐません。思ひを歌に託して伝へたのですが、届かきませんでした。その人は気がついたら実家に帰つてをり、そして雲南市に移住してゐました。
その人との「再会」は、ないでせう。
加茂中駅は、加茂岩倉遺跡の近くであり、私は荒神谷遺跡は行つたことがあるのですが、こちらはありません。いつか行つてみたいものです(なほ、私は古代史については皇學館大学名誉教授である故・田中卓先生の説に依拠してゐます)。
程なくして、木次駅に到着しました。到着した二番線ホームでは、鎧武者の格好をした地元の人が迎へてくれました。そして、今回乗る奥出雲おろち号も待機してゐます。にはかに気分が高鳴ります。
奥出雲おろち号との再会
私が奥出雲おろち号に乗るのは三回目でせうか。懐かしく、それでゐて格好良い車両に感動です。ホームに入線する姿に、胸を打たれました。一通り撮影し、車内に乗り込むと、子供連れた家族連れ、ツアー客、旅人、多くの人を乗せてゐました。車内放送によると満席ださうです。私の隣にも、家族連れが乗つてきました。
定刻の十時八分に、奥出雲おろち号は木次駅を出発しました。ホームでは鎧武者、寅さんのコスプレ、そして駅員さんらが手を振つて見送りしてくれました。
見てのとほりのトロッコ列車なので、天つ風を遮るものがありません。雲一つない風が心地よく、むしろ寒いくらゐです。
倉木麻衣さんの「風のららら」のやうな、素敵な感じです。
最初の停車駅の日登駅では、ホームで幼稚園児が先生と一緒に手を振つてゐました。その姿に心の中ぬくぬくです。車窓には、藤の花が今を盛りと咲いてをり、見る者を楽しませてくれます。
八雲たつ 出雲の奥の まがな道に 今を盛りと 咲ける藤かも 可奈子
下久野駅から、全長二二四一メートルの下久野トンネルを越えると雲南市から奥出雲町に入ります。
出雲八代駅では、地元の人が車内にゐる子供に鯉のぼりを渡してゐました。
次の出雲三成駅は、かつて勤めてゐた高校で共に学んだ二人の生徒の出身地です。彼らは野球部で、小学校の頃からバッテリーを組んでゐました。そのうちの俊足巧打のキャッチャーの子(キャプテン)は、日本史の授業で私に「楠木正成のことを何故尊敬してゐるのですか?」と聞いてきた子です。元気にやつてゐるでせうか。この時のことは、「湊川神社参拝記」に紹介しました。
また、このあたりは、仁田米や仁田牛の産地であり、車内では仁田牛弁当を売るおぢさんが現れました。隣のボックス席の人が食べてをり、覗いたら美味しさうでした。
ゴツゴツした岩の目立つ川沿ひを、列車は南へ南へと進みます。
次の亀嵩駅は、松本清張の小説『砂の器』で有名になつた駅です。しかし、私はそのことよりも、この駅で売られてゐるそば弁当(要予約)の方が大事です。事前に予約してゐました。
ホームで窓越しに受け渡しをし、お弁当を受け取りました。普通盛りが七百五十円で、大盛が千円です。風に飛ばされないやうに注意しながら食べてみたら、これまた美味しいけど、美味しい。長万部駅のおそばよりも美味しいかも知れませんね。
地元の人たちの仕事の折り、カメラを構へた人らが、手を振つて私どもを迎へてくれるのは嬉しいものです。
出雲横田駅は雲州そろばんの生産地として知られてゐます。駅舎が妙に立派でした。
次の八川駅では駅到着前に日登駅同様、近くの幼稚園の子らが手を振つてゐました。
木次線の車窓は、さびれてはゐますが生活感がわづかながらに残つてゐます。そして、その生活感がなんとなく懐かしいものです。
次の出雲坂根駅に着くと、たくさんの人がカメラを構へて奥出雲おろち号を迎へてくれました。この駅は、延命水と三段式スイッチバックで知られてゐます。延命水はかつて駅のホームにありましたが、今では場所を変へて駅舎の隣にあります。美味しい水です。近くにゐた乗務員さんとお話ししたところ、駅舎の管理は自治体がされてゐるさうです。
出雲なる 坂根の駅に 出づる水 わが病をし 癒しけらしも 可奈子
三段式スイッチバックは、木次線のハイライトともいふべきところです。いよいよ奥出雲おろち号は、山深い中国山地を超えて行きます。スイッチバックのたびにカメラを構へる乗客。そして、列車は徐々に高いところへと登つて行きます。さつき走つてゐた線路が、駅舎が、下にあるのを見下ろすと、登つてゐることを実感します。
写真でお楽しみください。
三井野大橋を下に見てゐたと思つてゐたら、いつの間に上から眺めてゐるといふ体験はまさに木次線のクライマックスです。三井野大橋と奥出雲おろちループは八岐大蛇をイメージしたさうです。
出雲といひ、おろちといひ、私は神代のことを思はざるを得ません。素戔嗚尊が辛苦(たしなみ)してこの地に降り立たれ、八岐大蛇を退治し、奇稲田姫と須賀の地で住まはれた。その時に素戔嗚尊が詠まれたのが、
八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を
です。この八雲の神詠は、和歌(やまとうた)の極致であり、私の理想とするものです。
ちはやぶる 神代のことも 思はるる 出雲の奥の まがな道かも 可奈子
三井野原駅で、ツアー客が降りて行きました。駅前に観光バスが停まつてゐました。そして、広島県に入り、油木駅を経て終点の備後落合駅に着きました。
本来なら、ここから芸備線に乗る予定ですが、代行タクシーになつてをり、折り返しの奥出雲おろち号に乗ります。
芸備線の備後落合駅から新見駅間はわが国が誇る?最大の過疎路線の一つで、久し振りに乗りたかつたのですが、落石による被害の影響で運休になつてゐます。残念です。
備後落合駅は私の好きな駅です。山間の小駅といふべき駅で、駅前に民家があるにはありますが、商店の類は全くありません。かつてはおでんうどんといふ名物があつたさうですが、今は名残さへありません。
往時を偲ばせる遺構もあり、面白くあります。
一応、秘境駅の一つです。しかし、往時を偲ばせる設備が随所に見られます。駅には、奥出雲おろち号の乗客相手の売店がありました。私はそこでタオルと缶コーヒーを買ひました。
再び奥出雲おろち号に乗り込みました。恐らく、これが最後の乗車となることでせう。帰りはスハフ12 801に乗りました。こちらはトロッコではなく簡易リクライニンシートの座席車です。来た道を、ただ眺めてゐました。
こちらの席は静かで、風も入つてこないので落ち着きます。
出雲坂根駅で、再び延命水をいただき、延命神社といふ小さな祠に祈りました。ちやうど、キハ120系と奥出雲おろち号が並んでゐるところを写真に収めることができ、満足です。
亀嵩駅で、行きに気が付かなかつた妙な看板がありました。「和泉式部終焉の地」がこのあたりなのださうです。彼女の「百人一首」に収められた歌は、
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの 逢あふこともがな
ですが、奇しくもこの歌は「いまひとたびの」と「再会」を願つた歌です。彼女もまた恋多き人。似たやうな境遇に、にはかに親近感が湧きました。
出雲三成駅で、しばらく停車時間があつたので、最後の写真撮影を行ひました。一通り撮影した後、車内で読書をしてゐたら、車掌が慌ただしく動きまはつてゐます。車内放送は聞き取れませんでしたが、何かあつたやうです。列車は十八分遅れて出雲三成駅を出発しました。接続列車の接続を車掌に確認したら、恐らく大丈夫とのことでした。
下久野駅で、警察と消防の方がをられました。何かあつたのでせう。遅れた原因かも知れません。
三時間の乗車を終へ、木次駅に戻りました。木次駅到着は約十七分遅れでした。木次駅からわづかの乗り換へ時間で、再びキハ120系に乗りました。
キハ120系とは、これでしばらくのお別れですが、奥出雲おろち号とは永遠の別れになるかも知れません。車内の様子、車窓、思ひ残すことがないように、写真にとどめましたが、この素敵な車両との別れは寂しいものです。とはいへ、むしろ
「けふまでよく走つてくれてありがたう」
といふ気持ちの方が大きいです。車掌の話しでは、十一月頃とのことですが、公式に発表があるまではわからないとのことでした。
わが命し 真幸くあらば たづさへて またここに来む ときのあらなむ 可奈子
西陽傾く雲南の街をキハ120系は軽快に駆け抜けます。途中、車窓には自動車の運転手に対し「パパやめて 脇見、携帯 飛ばしすぎ」の看板がありました。いかにこの一帯が車社会化してゐるかの証拠であり、同時に運転手のモラルの低下の証明でせう。巣鴨に行くと子供の絵に「おじいちゃん、信号無視しないで」といふやうに書かせてゐますが、子供や孫に注意される親は情けないですね。
無事に宍道駅に戻つてきました。途中、田んぼがある度にカブトエビがゐないか車内から見てみるのですが、さすがに無理でした。チャップマンのストレートをホームランにする動体視力がないと厳しいかも知れませんね。
スーパーおきとの再会
宍道駅から、特急スーパーおき4号に乗り、鳥取駅へ向かひます。実は、この車両も再会です。二両編成で、およそ特急らしからぬ風貌ですが、速い。そして、その特急らしからぬ風貌が私は好きなのです。先頭がとんがつたいかにも特急らしい特急よりも、パツと見普通列車な特急といふところが斬新です。ただし、コンセントもWi-Fiもありません。
三分遅れでやつてきたスーパーおき4号に乗りました。進行方向左側には宍道湖が見えてゐます。沈む夕陽と穏やかな湖面、とりどりにあはれなり。
松江駅から、本日の未場区間に入ります。列車はしばらく大橋川沿ひを走ります。遠くに、江島大橋も見えてきました。東松江駅から中海が見えてきます。『万葉集』に意宇の海と詠まれたところです。
後ろの席に、中年のカツプルが乗つてきて、酒盛りをはじめて五月蝿くなりました。しかも、臭い。困つたものです。
安来駅で数名の乗客がありました。駅には、山中鹿之介の「我に七難八苦を与へたまへ」の看板がありますが、マゾ過ぎると思ふのは私だけでせうか。
米子駅では客の入れ替へがあり、たくさんの乗客がありました。そのほとんどが自由席に乗つたやうで、指定席車はそれほど混雑してゐません。米子駅を出ると、車窓右手に大山が見えてきました。雲がなく、山容がとても美しい。
夕暮れの山陰路をスーパーおき4号は軽快に走り抜け、倉吉駅に十八時九分に到着しました。ここでも、多少の乗降がありました。後ろの中年カツプルも静かにしてをり、落ち着いて、車窓を眺めてゐました。
末恒駅を通過して、右手に湖山池が見えてくると、鳥取大学前駅に停車します。鳥取駅もあと少しです。
約二時間の乗車で鳥取駅に着きました。
駅近くの寂れた商店街にあつたラーメン屋(らーめん道場 太鼓判)で牛骨ラーメンをいただきました。
そして。日の丸温泉に入りました。ここの湯は緑かかつた湯で、少し塩気があります。とてもあたたまる湯でした。学生の時に、一度来た気がします。
二十時前に、スーパーホテル鳥取駅北口にチェックインしました。
さすがに疲れたので、すぐに寝ました。次回は、鳥取から東京に帰るまでのお話です。どうかお楽しみに。
そして、最後までお読みいただき、ありがたうございました。(続)
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