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感動の前の、静けさ

まだ18:30なのに。

高速道路の両脇に広がる黄金色の田んぼは、稲刈りがまばらに進み、あちこちに軽トラとコンバインが見られた。フロントガラスの向こうでは、伸びやかに寝転がる山並みが少しずつ影を落としている。
景色が、静かに夕暮れに混ざり合い、溶けてゆく。

日が落ちるのが早くなったな。
高速道路を走る車のハンドルを握りながら、急に切ない気持ちになった。
稲刈りが始まると、とたんに季節が冬に向かって転がり始めているのを感じる。こうなると、雪の季節まであっという間だ。
1月行って、2月逃げて、3月去る、と言うが、
私にとっては9月に目を閉じたら、次に目を開いた瞬間は年末になってしまっているくらい、早く感じる。


「はやく、雪ふらないかな〜」
と3歳になったばかりの息子が言った。


雪の静けさが好きだ。
雪は音を吸収するらしい。
だからあの全ての覆い尽くす圧倒的な雪の中に立つと、この世界にひとりぼっちのように感じるんだ。それは悪いことではなくて、そのひとりぼっち感が私は大好きだった。


最近、静けさがあるから、人は感動できる、と思う。

移住する前のこと、農業の師匠がこんなことを言った。
「ここはなあんもないから、その人となりがよく見える。」

その言葉は今も私の心の中に残っている。



なぜならば、今までずっと見た目や学歴や、分かりやすい何かで自分を計られてきて、今目の前にいる「わたし」を誰も見ていないと感じてきたからだ。
「痩せたら可愛いのに」みたいな言葉が、意外とずっと私の中で傷として残っている。


静けさとは、内観の先にある状態に感じる。
静けさがないと、内観はできない。
自分の外側ばかりに目がいって、自分の体や心を観察できていない状態だ。それは翻って、自分の人生に集中できていない、ということなんだろうな。

静けさを得られて初めて、「感情」が安堵して戻ってくる。
それはとても不思議な感覚で、頭と心が一致してなかったり、忙しすぎたりすると、周囲も自分も嵐のようで賑やかだ。その賑やかさとは、パリピのような陽気なものではなくて、蝿の大群が自分の内側にも肌のすぐそばでも羽音を響かせているような状態だ。

これってとっても苦しい。


「静けさ」のための小さなスペースが心の中にできると、そこからさざなみのように少しずつ感情が戻ってきて、次第に自分の内から発せられる声が聞こえるようになって、そして、何か小さなことを感じることができたり、気づくことができたり、感動できたりするようになる。静けさがないときは、何も楽しくないし、ただただ疲弊している。


人間には静けさが必要だし、感動の前にも、静けさが必要なのだ。
イメージでは、心の中の、ふかふかの羽毛みたいな、音もなく羽が舞う、柔やかいベッドのような。そこにふわんと飛び込んで、広げた両腕の間にゆっくり羽が落ち切ったあと、あの雪原のような静寂がやってくる。


そんな静けさを、私は言葉を通じて提供できたらな、とふと思った。


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かなやん(佐藤可奈子)
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