経営者で、母な私が、うつになった話
「うつ病ですね」
そう言われたのが、昨年の春だったか。
豪雪地の見上げるほどの雪が溶け、山じゅうが息を吹き返し、緑湧く輝かしい雪国の4月。私は自分が立ち上げた会社の5期目の決算と、大きな融資の支払いを終えた頃、突如動けなくなってしまった。
動けないのに、涙は勝手にほろほろ出てくる。気心知れた4人が集まった役員会議でも、何か事件が起きたわけでもないのに、ぽたぽた涙が落ちてゆく。こはいかに。
その役員会議の帰り道、役員の一人でもある夫が言った。
「病院に行こう」。
それは、大学を卒業し、そのまま移住・就農して12年目のことだった。
その道中、農園を株式会社にして7年、加工所を建てて2年目。
確かにがんばりすぎていたかもしれない…。
加工所の竣工2ヶ月前に、第三子を出産した。
その前の1年は、今までの商品も体制も一新させ、同時に加工所建設のための資金調達に奔走していた。
産後は赤ちゃんを連れながら、完成した加工所に通い、干し芋加工に来る元気なスタッフたちと、初めてだらけの工場運営。
初めてだらけなので、スタッフから何か聞かれても「いや、私も分からん!分からんから、やってみよう!」ばかり言っていた。
そして休憩室から子の泣き声が聞こえれば、乳携えて授乳に勤しんだ。
「産休?ナニソレ美味しいの?」な働きマンと化していた。
そしてまた春が来て、農作業シーズンが始まり、冬が来て、工場の稼働。
異変が起きたのは、2シーズン目が終わった頃だった。
新潟という米の産地ゆえんか、
年に1〜2回「収穫期払い」という名目でドカンと大きな収入があるような農業の特性上、農協融資の返済は毎月ではなく、年に1回ごとだった。
これはよく考えてみれば、ディープインパクトだ。
ご利用は計画的によろしく、貯蓄は計画的にしておかないと、年に一回発生する数百万の支払いは、致死量だ。ゴフッ。
毎月血眼になって現金調達に奔走していたオンデーズ田中社長の小説「破天荒フェニックス」が思い出される。
「資金ショートするぞおおおお!!!」
まさに同じ光景が我々にも起きていた。ショートハイだ。
毎年3月下旬にさしかかると、足りない金額がリアルな数字として現れる。
青ざめた私たちは、毎日血管を浮かばせながら、いろんな手を駆使して、時には頭を下げ、時には売り歩き、支払いに向けての現金を必死にかき集める。
返済日当日、通帳から無事にごそっとたくさんの0が減り、支払いという巨大な玉を渾身の1発で撃ち返せたことが分かると、久々の平穏が訪れる。
見えない敵は去り、はあ…今年も乗り切った…。
そしてまたいつもの日々が……ところが現実はそうはいかなかった。
体が動かない。
おかしい。
なにか、人間たらしめる根本のようなものが、作動していない。
思い当たる予兆はあった。
普段から、猛烈に仕事をし、帰宅すると家ではすっかり燃え尽きて無感情だった。3人のこどもたちが金切り声を挙げようが、私はいつも無の境地にいる修行僧だった。わずかに残った気力で淡々と家事をやっつけていた。
それがとうとう、その気力さえ無くなってしまったようだ。
喉から声を出すことも、疲れる。
食べることも、疲れる。
あれ……重力って、こんなに強かったっけか……。
ああ、なんか私って自分の仕事も暮らしも、全然主導権ないなぁ…こんな日々がこの先もずっと続くのか……
て、ちょっと待て。
これ、バーンアウトじゃないか?
自分をメンヘラだと自嘲しながらも、自覚はあるので「起業家のバーンアウトはよくあることだ」と界隈で聞くからこそ、起業家向けのマインドフルネス、セルフマネジメント、みっちり学んできたじゃないか。
本もたくさん読んできたじゃないか。
あれはどーなった。
そう思うも束の間、毎日涙がほろほろ落ち、「死にたい私」が訪れた。
「まー、経営者さんは、走りながら、治すしかありませんね」
うつ病と診断されてから、地域で結構大きめの病院に移ってからの先生の言葉はちょっとした絶望だった。しかし、妙に納得もした。
基本的には鬱に対して、投薬治療をしながら、ストレスの原因となるものを取り除く、つまり会社員の場合は会社を休職する、退職するといった対応らしい。
それに対して、会社から手当も出る場合もあるだろう。
しかし、経営者が鬱になったら?
しかもまだまだこれからのスタートアップの会社だとしたら。
さらにはまだ1歳のお子がいるとしたら。
急に日本中の、いや世界中の今を生きる社長たちが神に思えた。
八百万の神どころの騒ぎじゃない数だ。そして彼らの踏ん張りは只事ではない。
若い男性の先生が「診断書いりますか」とボソリ聞くので「いや…‥」と答えた。「(そんなんもらっても、提出先、私やし)」と心の中でツッコんだ。
そしてまた、先ほどの先生の言葉を反芻した。
走りながら治す。
果たしてかけうる迷惑と仕事を最小限にしながら、治すことなんてできるのか?
返済にまだまだ追われる我が社、今のマストな仕事たちをどうする?7歳、3歳、1歳のやんちゃキッズは?あー同居してる義父母には、鬱と知られたくない……。
いろんな思いがひとしきり去来したあとに、
「てか、立ち止まらないで治すの、しんど」と我に帰った。
多分このとき、私はスナギツネのような目をしていただろう。
この世界が尊くなった。眩しい。
「世界は誰かの仕事でできている」とCMで聞いたことがあるが、みんな、なぜちゃんと毎日役割を全うしながら生きてられるんだ…。
仕事、家事、家のこと、地域のこと、なんでもいい。すごすぎるだろ。尊い。この世界を作ってる全世界の「誰か」、本当にあなたたちは素晴らしい!!
いわゆる働き盛りなのに、家事も仕事も地域活動もままならない私は、
なにもできそうもない私は、いや、なにもしたくない私は、生まれる世界を間違ったんじゃない?
けれど明日はやって来る。
やって来るが、どの延長線上の未来も、しんどい。
「ねぇ幸治くん」
病院から帰宅した私は、事務所で仕事をしている夫の背中に、おもむろに声をかけた。
「幸治くんは、私といると不幸になる気がする」
夫は振り向いて「ほう」と言った顔をした。
「なにもできない私にお金ばかりかかるし、毎日イライラしたり泣いたりして、明るい家庭にできないし、同居してる家族ともうまくやりたくない。
でも、私が死ねば、私の生命保険で会社の借金返せるし、死別だったら幸治くんはバツイチっていう傷がつかず、もっといい人と再婚できる可能性があるから、それがいいと思う。
優秀な幸治くんには、ちゃんと幸治くんを支えてくれる素敵でマトモな女性に結婚してもらった方がいい」
大真面目に、私は自分で結構まともな提案をしたつもりで、夫の前で仁王立ちになった。一瞬困ったような、悲しい顔をした夫は、「かなちゃん」と少し怒ったような低い声で言ったあと、ぎゅうっと苦しいほどに私を抱きしめた。
「なにもできなくていいから。かなちゃんがいない人生は、ありえないから」
夫のちょっと分厚めな胸に顔が埋もれて苦しかった。息ができなくて、でもこのまま温もりの中で死ねるなら本望だった。
けど、生きたい体は無意識に顔を横にして、頬を夫の胸につけたまま、ひとしきり泣いた。
生きるってしんどいな。
ーそうして、働きながら治療をする日々が始まった。
ちなみに、ひとしきり泣いたあと「あとね、」と夫は私の目をまっすぐ見た。
「かなちゃん、生命保険、かけてないし。そもそも自殺は保険金出ないから」と真顔で言われた。
なんちゅうポンコツ。
「ふ」と笑いが漏れた。
あれから一年とちょっと。
走りながら治療する過程で、いろんな賞をいただいたり、新しい商品ができたり、クラファンしたり、大渇水でてんやわんやしたり…
なんだかんだ生きている。
なんだかんだ、やれている。
経営者はみんな、傷だらけの戦士なんかな。
経営者はみんな、負傷から復帰して、また立ち上がった戦士なんかな。
失敗は成功の過程、ならばそうだな、うつとともに生きるのだ。学ぶのだ。自分をもっと知って、もっと新たな自分に出会うのだ。
この自分と、生きるのだ。
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