四十九日。法要の不思議。
おばばの四十九日であった。
どうせ実家のことだからそこまでかっちりしていないだろうと・・・
私は普段着で数珠だけ持って、読経の時間ギリギリに行こうとしたりしていた。
(無事、事前に気づいて礼服を着て御供物も持って行くことに成功した)
親戚が集まる。
お坊さんが来て読経。
お墓へお参りにいく。(納骨は済んでいる)
お寺へ行く。
みんなで食事をする。(御斎)
家に集まってお茶して、解散。
今回私は、家族に言われて実家に行っただけで呑気なものだった。
親戚が集まるのは楽しいし、食事も美味しくてよかった。(←
もっと興味を持ちなさい!手伝いなさい!
と言われても仕方ないくらい呑気だったけれど、まあ仕方ないと思ってもらうしかない。
だけど本来家族は、おばばが亡くなってから今まで、そしてこれからも、おばばに関する手続きや法要を何度もしていくことになる。
それなのに私は何にも知らないなあ・・・と。
お葬式や法事で毎回不思議に思う。
私の両親が亡くなった時も同じようにやるんだろうか。
やり方を覚える気はさらさらないので(そもそも忘れっぽい)、その時々で対応するんだろう。
多分どこかで、めんどくさいな、という気持ちがある。
お寺との付き合いも両親の代までだろう。
四十九日まではまだしも、一周忌や三回忌など、自分だったらまともにやれるのだろうか・・・?
(普通に忘れそう)
なんかこう、うまく言えないけど、父親が亡くなったら、母親が亡くなったら、もっとこう、両親にも、自分たちにもしっくりくる法要のやり方がしてみたい。
(こう言うこと書くと、両親はおちおち死んじゃおれん、ってなるだろうか。 長女に任せておいたらヤバいことになるぞ、普通でいいのに余計なこと考えるな、みたいな。笑)
これは私が普段から、自分にとって意味があるかないか、で、行動指針を決めているからなんだと思う。
四十九日までの7日ごとに極楽浄土に行けるかどうかの裁きを受ける、とか。
閻魔大王とか、三途の川とか。
戒名とか、魂入れとか。
仏教の法要に関する常識的なことが、どうしてもピンとこなくて自分に浸透しない。
それよりも、般若心経の意味とか、禅の考え方とか、仏教としての生活の心得とか、そちらの方が興味がある。
経本を読むのは楽しい。
(お経のあとに解説文などがあるので)
仏教に関して学びたいことは多い。
それは「自分の生き方」の話だから興味があるのかもしれない。
葬儀や供養は「他人の死」の扱い方であり、その方法が自分にとってしっくり来ていないから興味がわかないのかもしれない。
いや、法要を興味あるとかないとかで考えるものではないのだろうけど。笑
でも正直な話。
みんなで集まって、食事をして、故人を偲ぶ時間は愛おしい。
そういうのを何か、その時に納得できる形で。
40年生きていても、私は、人の死の扱い方をわかっていない。
そしてまた、次の誰かの時にも、不思議だな、、、と思うのだろう。
みんなはどうしているんだろう。
ふと思った、暑い暑い夏の四十九日。
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