「魂のふるえる活動」って何だろう
「魂のふるえる活動」
「泣けるような仕事」
って何だろう?
資本主義社会とは少しずれたところにある、自分の内面から湧き出てくる「衝動」
そんな活動を、自分はしたことがあるだろうか?
と、ふと思った。
今日は、コミュニティの「かかみがはら暮らし委員会」で定期的にやっている、Zoomでの「メンバー対談」があった。
ゲストは矢田勝美さん。
(20分くらいからがアツいから見て)
イラストレーターとしての商売と別に、「魂がふるえる」パフォーマーとしての活動をもっとやっていきたいと語る矢田さん。
人は誰でも、表現者であり、活動家であり、クリエーターである。
気づいていないかもしれないけれど、目に見える作品は作れないけど、私だって表現者なのだ、きっと。
話しながら、自分を深掘りしていく作業は面白い。
ゲストがいるのに、結局いつも対談は「自分との対話」となることが多い。
それはとても有意義な時間だ。
ある仕事に手をつけてから、何年後かにまたその作品と出会い直すことがある。
その仕事は「誰かに、何かに、与えられた」巡り合わせの仕事である。
やる中で鳥肌が立つような瞬間があり、そこで「自分を徹底的に消し去る」ことで結果的に「泣けるような仕事」になるという。
作品は、それ自体が知らないところで長く生き続ける。
作り上げた時からずっと未来にふと、また違った出会いを見せることがある。
「未来からのダウンロード」をしている仕事だからだ。
そんな巡り合わせで、魂がふるえるような活動ができるなんて幸せだなあ・・・と思う。
けれどこれは偶然なんかじゃなく、自分の中でいつも望んでいて、求めていて、キャッチするタイミングをいつも見計っているからだろう。
「きっと出会える」と信じて、目を凝らしている。
それは商売と商売の間にある、余白の使い方なのかもしれないな、と思った。
私の魂のふるえる活動って何だろう?
自分では気づかなかったけれど、もしかしたら・・・
今やっているコミュニティ「かかみがはら暮らし委員会」の委員長をやる!と手をあげたのは、その表れなのかもしれない。
コミュニティ作りは仕事でもなければ、趣味とも違う。
と言っても表現や活動というよりは、「自分がいる意味」を見つける場所、みたいなものなのかもしれないなと思った。
福祉のような感覚も多少あるかもしれないけれど、私は「私が楽しいとあなたも楽しい」を実践してみたくて、コミュニティを作っている。
でもこれは、単に「私が楽しくてみんなも楽しかったらいいな」程度のことではない。
「私が楽しいことにより、みんなも楽しいと思える社会とはどんなものなのか」という、理想を追求したいという壮大な実験でもある。
これには、常識的な社会では生きづらいであろう人物との出会いがそうさせた。
誰でもが「生きててよかった」「存在するだけで価値がある」って思える社会っていいな、と、思っている。
それを、実際にそう思っている自分が、目に見える形で表現していくことが、誰かのためにもなるのでは、と思っている。
そしてそれは、今は私じゃないとできないことでもあるけれど、やっていくうちに「誰にでもできること」になりうるのではないか、という期待も込めて。
その活動そのものが、「魂がふるえる」活動なんだろう。
私が書くこと、話すことで、伝えることが誰かの幸せのきっかけになればいいな。
それは私の存在意義の証明でもある。
だから一生懸命になれる。
目に見える作品を作ることはできない。
私がやっていることは空気みたいなものだなあとたまに唖然とすることもある。
けれど、それが私だ、と胸を張って言えるように。
今は、目の前の活動に没頭しながら、未来のいつかにそれが「泣けるような仕事」だったんだ、と気づくことがあるかもしれない。
それを少し意識して、生きたい。
矢田さん、良い機会をありがとう!
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