初めの読書メモ:「野蛮から生存の開発論:越境する援助のデザイン」

一番最初のnote投稿には何を書こうか、いろいろ考えたが今の自分が考えることの支柱を形成するのに大きく影響を与えてくれた佐藤仁先生の著、「野蛮から生存の開発論」(2016)について書こうと思う。

開発とは野蛮を文明に移行させるための手段なのだろうか。タイトルからも想像つくように、本書は「開発とは何か」という問いを中心テーマとしている。開発を取り巻くあらゆる議論を、研究者の視点と開発実務者の視点の両輪を携えた筆者が開発を「人間ドラマ」や「不可解なパズル」と見立てて解説し、開発を問い直すにあたって考慮すべきポイントをその潮流の歴史的変遷や実際のプロジェクト、日本の開発経験を例に幾つも提示してくれる。それらは開発課題に対処するための処方箋ではなく、どちらかというと読者の「私」という自己に対する振り返り(reflection)を促し、自分と世界の関わり方と立ち位置(positionality)を考えさせられる内容となっているように思う。開発とは何か、そしてこれからどこに向かっていくべきか、の答えは提示しない。寧ろ「〜するべき」という価値、規範論ありきの「行動論」ばかりが先行しやすいことの危うさを指摘している。それよりも、まずは開発を考えることを楽しもう、いったんこれまでの価値や規範を手放し、違う視点から見るなどして立ち止まって考えてみることは面白い、と提案する。

だいぶ抽象的な書き出しになってしまったが、そんな本書から私の視点で先ずは2つ論点をピックアップ:

1)「いまや二つの対立軸(野蛮vs文明)は一つに融解し、生存と呼ぶべき共通の課題群を生み出しつつある」

ここで筆者が言わんとしていることを例えを用いて言うならば、MDGsが途上国の開発課題に対して先進国が援助を行う構図を基盤としていたのに対し、SDGsでは気候変動やグローバル規模の格差拡大など、途上国、先進国の隔てなく地球規模の課題に向き合おうとするように変化したことがある。そうした時代になったことがこの「融解」現象のわかりやすい一例と言える。
地球規模のサステナビリティを問う時代になった、とは言っても長らく続いた段階的、直線的発展史観(低開発→開発)に基づく二項対立な枠組みからは、我々はまだ抜け出し切れないでいると筆者は指摘する。しかしここを抜け出さないと、いつまでたっても開発を「仕掛ける側」と「仕掛けられる側」で考えるという図式が存在してしまう。そのことによる弊害が過去の失敗を生んでいることは開発の歴史を辿ると明白である。これは例えば日本国内の「地域おこし」等の文脈で考えてみるとイメージがつきやすいかもしれない。持ち込む側がよかれと思ってしたことでも、持ち込まれる側にとって必ずしも良い結果を生むものでないことがあるという失敗談はあらゆる次元の摩擦によって引き起こされている。こうした想定外のドラマ含め、「開発」を考えることは面白いと筆者はいう。では、どうしたら二項対立の枠組みから抜け出せるのか。筆者は「ゾミア」と呼ばれる、国家に所属することを拒み、自らの生存戦略として「野蛮」でい続けることを選んだ山の民の人々の話を例に、開発が(野蛮→文明)のように直線的に存在するのではなく、野蛮と文明は互いに影響し合いながら形成される別次元の世界と見ることができる、と提示する。

ゾミアのような人々がなぜ生存戦略としてそのような行動を選んできたのか、という「内発性」にスポットライトをあてることに、二項対立を超えたこれからの開発を考えるヒントがあると考える筆者のメッセージ。この視点は鶴見和子が提唱する「内発的発展論」に通じているように思う。開発を問い直すことの意義があらゆる地域コミュニティ単位で起き、givenな開発ではなく、それぞれが自分たち自身が「大切にしたいこと」を参照軸を用いながら見出しそれを育むこと。その内発的なプロセスを学び合うことが開発研究を行う楽しみであり醍醐味だと考えると、本当にそうだなと思わされる。地球規模のサステナビリティを問う、「生存」を問う時代になったからこそ、二項対立に囚われない「内発的発展」が改めて検討される分岐点に今さしかかっているように思えてならない。

2)「問題の本質は貧しいとされる人々を「貧しくない人々や領域」と接続する方法である」

上のような内発的発展論の話をすると必ずあるのが「そうは言っても、貧しい人々に自分の豊かさを自分で考えなさい、というのは無責任だ」とする立場である。つまり現実問題、開発や援助を「持ち込む側」と「持ち込まれる側」の構図が存在することはそこにニーズがあるからであり否定すべきものでないとする立場である。ここでまた立場の対立軸が再生産されては行き詰まってしまう。本書はここにも考えるヒントをくれる。それぞれの立場は否定しない。その代り、「接続する方法を考えてみよう」と提案する。そもそも開発が英語の語義Developの通り「封を開いていく:de+envelope」行為であるとするならば、何もない更地にビル建設を持ち込むことというイメージよりも、すでに在るものを見極める潜在性の顕在化を促すことが開発の本質であると筆者は考える。そこに在るものを見極めるために有用なのは、外界との接続機会を増やすことであり、開発を持ち込む人々にできるのはこの機会設計ではないかと筆者は読者に投げかける。私はこのアプローチに大変共感したし、はじめてこの文書を読んだ時に視界がひらけたような感覚を伴った。このアプローチに共感するのはなぜだろうと考えると、そこには開発の対象となる人々や地域をこれまでのように「貧しい」と決めつけるのではなく、ベースとして人やそれぞれの地域のたくましさを尊重するまなざしが内包されているからだと気づいた。

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さて、筆者はこのように「接続すること」を提案するものの、それをどのように行ったら良いかの具体策について本書では言及しない。ここで私たちがこのハバタクラボでやっていきたいこと、トランスローカル論の構築とトランスローカルラーニングという方法論の意味が見出されるように思う。内発的な発展を可能とする土壌"enabling environment"をつくる仕掛けとしてのトランスローカルラーニング、とした時に、それが本書が提案する「接続すること」の一つの具体的方法論と言えるのではないかと思う。ここの考えに至る思考プロセスの詳細はまた別途記述していきたい。

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これは私の考えだが、疑ったことのなかった価値前提、知らず知らずに身につけていたまなざし、これらに気付いた時はじめて、自分にとって「開発」とは何か、つまり「豊かさ」とは何か、を考える旅の出発点に立つように思う。と同時に、その旅路が限りなく終わりのない、ものすごく体力のいるコースであることに気付き唖然とする。でもそのスタートラインに立つことを「ようこそ!」と歓迎し、意気揚々と旅に送り出してくれたのが本書である。

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