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青の少女

 白いキャンバスに黒い鉛筆が乗る。僕が手を動かすたびに黒の面積が広がり、形を成していく。思い通りの線が描けなかったら、パンのかけらや練り消しで軽く消していく。
 僕の目の前に胸像が浮き上がる。
 デッサンのモデルは白いのに、キャンバスに映り込む同じ形をした僕の描いた胸像は程よく灰色になっている。
 僕の他にも部員は大勢いて、それぞれイラストレーターを目指していたり、漫画家を目指していたり、珍しく画家を目指していたり、夢はそれぞれだが今は僕と同じ絵を描いている。

「まるで写真をそのまま写しているようだ」
 僕の後ろで顧問の先生が言う。
「蒼井さん、みんなに見せていいかね?」
 僕に対して言っているのではない。蒼井……、僕と同級生で同じ部員の女生徒だ。無口で大人しく、いわゆる優等生と言われる部類で、生徒会長でありながら美術部の部員。頭もいい上に絵を描く才能はピカイチ。一言で言うなれば完璧。
 顧問は贔屓をしているわけではない。手にしているキャンバスは確かに忠実に胸像を表している。色味にしろ形にしろ質感にしろ……。本当に完璧だ。顧問の舌は回る回る。その絵を褒め称えている。
「まるでAIのようだ」
 悪気ではないのだろう。もちろん、完璧すぎて怖いほどで。褒め言葉として言ったというのはわかる。僕も同意見ではあったが、その言葉は彼女に少なからず傷をつけた。ずっと黙っていた彼女は席を立って逃げ出すように室内を出てしまった。

「AI、ね。わかるよ、完璧なのは。細部まで再現された絵。綺麗な絵、なんでもできるしなんでも描ける。でも、……辛いよ。私は心もあるし、手もある。忠実な絵は……感情を描けない……」
 あの後、僕は幼馴染だからというただそれだけの理由で彼女の元へ向かうように言われた。
 いつも心を落ち着かせる時は図書館にいる彼女は、僕の予想通り、図書館の椅子に座って窓の外を見ていた。
 僕の姿を見ると、苦笑いを浮かべて言葉を発した。
 最近は彼女に悩みや苦痛があるように感じる。優等生故の悩みだろうか。僕にはわからないし解決もできないと思う。
「感情を描くなんて難しいよ、それこそ。特にデッサンなら忠実こそ正解だよ」
 僕は当たり前だと思うことを言う。デッサンは描き手が見ているものをそのまま描くことが定義だ。どんな形をしているか、どんな質感か、光や影は? どんな色をしている? そういったことに感情は不要だ。
「完璧こそ正解……。それはわかるの、うん。正解は正解なの。でも、それを肯定されるたびに私自身が否定されたように感じるの」
 分からなかった。彼女の悩みが。彼女の立場にならないと分からないのだろうか。僕の意思が伝わるように首を傾ける。
「うん、なんて言えばいいんだろう……」
 こんな彼女は初めて見る。なんでも完璧にこなす彼女は褒められるたびに嬉しくて楽しいという笑顔で応えてくれていた。周りから肯定されることに喜びを感じている少女だった。
 だが、今の彼女はそれさえも拒絶したくなっている。もしかすると、彼女が彼女自身を否定しているのかもしれない。
 僕はふとある案を思いつく。
「抽象画……」
「え?」
 キョトンとした顔の彼女に続けて言う。
「抽象画って描いたことある?」
「ない、けど……。毎回風景画とか模写が多いし……」
「抽象画だったら感情をそのままキャンバスに乗せるのが正解だ。厳密には少し違うかもしれないけど、感情ってそもそも抽象的概念だから……」
「そっか……。今まで見ているものだけしか描いたことがない……。いっそ目を瞑って、感情のままに描けば私を表現できる!」
 少し光が宿った彼女の目に、僕も頷く。

 部室に戻ると、もうすでに部員は何人か帰っており、絵を練習している人がちらほらいるだけだ。顧問も帰ったらしい。
 イーゼルを組み立て、新しいキャンバスを立てる。
 彼女は少し緊張した面持ちでキャンバスの前に立ち、目を瞑って鉛筆を滑らせ始めた。

 ものの見事に風景画が出来上がった。
 何も見ていないのに、どこから出てきたのか、目を瞑っているのにほぼ正確に……どこかの街の風景が出来上がっていた。
「どう!?」
 満足しているのか、鼻息荒く僕に振り向く彼女。
「いやあ、どう、と言われても……。その、これ、風景画だよね? そのまま完璧な街の風景だよ」
「……」
 自身でも気づいたのか、自身が描いた絵を見てため息をつく。
「目を瞑ってもこうなんて……頭の中では街を思い浮かべたのは確かなの。それがそのまま……」
 彼女は興奮が冷め、そのまま落ち込んでいくモードに入ってしまう。
 そこでふと、また思いついた。少々強引だが、彼女のためになるかもしれない。

 僕は壁一面に白い紙を貼る。
 突然の行動に蒼井のみならず、他の部員もざわつき始める。何かイベントか? と集まってきた。
 絵の具をたっぷり入れたバケツを数個床に置き、大きな筆を脇に抱える。筆の毛先にたっぷりと絵の具を吸い込ませて、一息つく__。
 一気に白い大きなキャンバスに向かって大きく振る!!
 青い一筋が引き裂くように現れた。続けて同じ行動を数回する。横にも斜めにも、抉られるように青い傷が出来上がる。
「感情そのままに、ぶつけてみろ。結構気持ちいいぞ!」
 一瞬、沈黙が訪れたが、ノリのいい部員が次々と僕と同じようにぶつけていく。
「何が赤点だ、ただの紙で決めてんじゃねぇぇええっ!!」
 怒り。
「私の絵、誰にも見てもらえない、なんで……」
 悲しみ。
「好きな人ができたの、すごく毎日がキラキラしてる!」
 喜び。
「なんかよくわかんねえけど、ぶちまけるぜ!!」
 楽しみ。

 正直、こういう展開は予想外で、顔や制服に絵の具を撒き散らしている部員を苦笑しながら見ていると、隣に立った蒼井は意を決したように、僕の持つ大きな絵筆を取って青い絵の具を含ませる。そして__。
「私だって感情あるわぁぁあああ!!」
 優等生の行動に一同は驚いて固まるが、一斉に大笑いが包まれる。

 その後のコンクールで彼女は優秀賞を獲得。
 僕は彼女がそれを描いている様子を見たことがある。
 バケツを持ち、白いキャンバスに向かって、青い絵の具を一振りしただけで終わった。
 何か吹っ切れたような、自由を得たような、そういう表情をして、心底楽しそうだ。


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