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承認欲求は承認していい

昨日も『嫌われる勇気』読書会、皆さんからたくさんの意見が寄せられて楽しい時間を過ごしました。

今回、いちばん話題に挙がったもの、それは「承認欲求」についてでした。

アドラー心理学では、他者から承認を求めることを否定します。(P.132)

こんなことが書かれているもんですから、驚きますよね。


そもそも承認欲求って・・・


承認欲求って、人間には生まれ持って備わっているものだろう、承認されないなんて辛すぎる、承認してあげないと人は育たない、など様々な意見がありました。当然のことながら、そう感じますよね。私だって全く承認されないままの自分でいることは耐えられないもの。


私の記憶では、この本が出版されて話題になった頃から「承認欲求」という言葉が流行り出し、あちこちで目にするようになりました。はたしてアドラーは本当に承認欲求そのものを否定したのか?


答えは「NO」だと私は考えています。アドラー心理学は、自分も仲間も受容し信頼して、ともに協力することを是としています。これって、言い換えれば自分も他者も承認するっていうこととほぼ同じ。だから承認がダメなんて言っていないんですよね。


この本は全体的にそうなのですが、表現が極端でショッキング(そこが面白い)なので、その奥にあるものを深読みしないといけないいのです。では、どう読むのか?


いっそのこと言い換えてみる


私としては「言い換え」をおすすめしました。つまり、「承認欲求」ではなく「評価欲求」に言い換えてみる。

承認と評価、これは似て非なるものです。

承認・・・ありのままに、正当であり良きものとして認めること
評価・・・値踏みして、優劣や良し悪しを決めること

アドラー心理学が否定するのは、他者の「評価」に自分をゆだねること。つまり他者のものさし(判断基準)におびえ、常に他者の顔色を見ながら、誰かのおめがねに叶うように振舞うこと。

これはとても不自由で依存的な生き方であり、何よりも精神的に自立していない状態であることゆえ、この生き方に警笛をならしているのです。


人は誰しも、そこに存在しているだけで十分に価値があり尊いもの。これは他者から評価される筋合いのないもの、絶対的な価値です。誰しもみな、自分でこのことを自己承認し、同時に相手の価値も承認することが健全な生き方の基本であると、アドラー心理学では説いています。

他者からの評価の良し悪しは、その人の価値とは別次元のこと。他者からの評価は時に気まぐれなもの、その人の主観や、限定的なある一部分の能力の評定にすぎないもの。

自分は●●ができないから価値がない、▲▲を持ってないから価値がない、なんてことは一切ないのです。どんな自分でもありのままに承認すればよいのであり、自分を承認したいと願うことは大事な感覚です。

それと同時に、他者をも承認する。承認しながら子どもを育てる。友情や愛情を育む。自分の承認欲求も、他者の承認欲求も承認してしまえばいいのではないでしょうか?


そんなことを考えた今回の読書会でした。

参考文献: 『嫌われる勇気』岸見一郎・古賀史健 ダイヤモンド社




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