私の正しさは、私で完結
読書会、はじまりはじまり!
またまた始まった『嫌われる勇気』の読書会。今回は12名で読み進めています。顔ぶれが違うと出てくる意見も毎回ちがう。主催しながら「お~そこがひっかかるのね」と、私も新たな気づきと深い思索を得ています。
noteへの投稿もご無沙汰してましたが、読書会をきっかけにまた書いていこうと思いました。
正義感はやっかいだ
人は、対人関係のなかで「わたしは正しいのだ」と確信した瞬間、すでに権力争いに足を踏み入れているのです。(P.107)
これは本当にその通りで、この「正しさvs正しさ」という争いは、世界でも身近なところでもしょっちゅう起こっています。
「わたしは正しい」という確信が「この人は間違っている」という思い込みにつながり、最終的に「だからわたしは勝たねばならない」と勝ち負けを争ってしまう。これは完全なる権力争いでしょう。(P.107)
皆、自分なりに「良し」・「べき」とする価値観や考えを持っていて、それが他者と異なるとき、自分の中から正義感がムクムクと沸き起こってくる。そして相手と戦おうとしてしまう。「正しい」を振りかざして「間違っている」相手を屈服させて勝利をおさめようとしてしまうんですよね。
この争いはやっかいです。果てしなく不毛な戦いになるからです。仮に一時的に勝利を収めても、相手はまた戦いを挑んでくることが予想されます。
夫婦喧嘩や親子喧嘩でよくある「そういえばあの時も」「お前はいつもこうだ」と相手の非を過去から引っ張り出してきて、相手を責めるパターンは間違いなく火に油を注いてしまい、関係性を悪化させます。
処方箋として
アドラー心理学は、この「権力争い」に警鐘を鳴らします。なぜなら、アドラーは「周囲の人は敵ではなく、自分の仲間である」という感覚を持つことは、健全さの条件として考えたからです。
私たちには色々な「違い」がある。「違っていること=間違っていること」とすぐに捉えない。そもそも白黒で物事を見るのではなく、色違いの物事が双方にあるなんだなととらえてみる。
そして自分が間違ったと気づいたのであれば、それを認めて「ごめんなさい」と言うことは「負け」でもなければ「恥」でもない。だからちゃんと謝る。負けを認めたくない、恥をかきたくないとこだわるから泥沼の争いになってしまうのだから。
では、自分にも非はなくて、相手が自分を「負けさせよう」と仕向けてきたらどうするか??
その答えは「争いから降りる」、つまりその戦いの場から「さいなら!」と立ち去ることです。休戦ですね。
そもそも主張の正しさは、勝ち負けとは関係ありません。あなたが正しいと思うのなら、他の人がどんな意見であれ、そこで完結するべき話です。(P.107)
正しいか正しくないか、もう決めなくていい。これは「負け」ではなく和平のための立派な選択の「逃げ」です。逃げ足は速いほうが、傷を負わなくて済みます。
叡智として
以前に、心理学の先生からこんな言葉を教えてもらったことを思い出しました。
フランスの哲学者、ヴォルテールの言葉です。
ほんとにそうですね。反対意見でも、それを主張する権利を守るという姿勢で「完結」すれば無駄に争わなくて済むのかもしれません。
今日はここまで。最後までお付き合いいただきありがとうございました。
参考文献: 『嫌われる勇気』岸見一郎・古賀史健 ダイヤモンド社