悔やみを越えて、生を愛すということ
三浦春馬さんの死から1週間。
この1週間、私は朝起きたら一番に彼のことを思いだし、変わらぬ仕事や日常を送りながら、時間が出来ると彼の作品や映像、言葉に耽った。
前置きをしておくと、私はテレビや映画で彼をたまたま見掛ける一視聴者であり、その活動のほとんどを知らなかった。
それなのに、彼の死になぜこれまで心をもっていかれるのか、自分でもよくわからない。多くの人がきっとそうであるように。
彼を知れば知るほど、
「だれかに本音を、胸のうちを明かせなかったんだろうか?」という悔やみは、彼が守りたかったものや周囲との関わり方を否定しているような気がして。
「芸能界を辞めて"普通"の生活を送っていればよかったのかもしれない」という悔やみは、彼の表現者として費やした時間やエネルギー、類い稀なる努力、エンターテイメントへの眼差しを否定しているような気がして。
この記事はそんな人がいたら、少し気持ちを前向きにさせてくれるかもしれない。
彼の最後の舞台を観劇した方の記事。
https://bunshun.jp/articles/-/39154
2020年の7月18日に起きたことは、彼が30年生きた日々のたった1日でしかない。~中略~死は逆算して生を定義するものではなく、生の最後の一部として片隅に置かれるべきものなのだ。
私は、彼の生き様を、30年間の生を肯定したかったんだと思う。
今私は、亡くなった人としてではなく、一人の表現者として、彼の生んだ数々の作品をエンタメを楽しませていただいている。
本当に、素敵だし立派だしかっこいいし魅力的だし美しいし強いし儚い。どんな形容詞でも形容しきれない人だ。
気づくきっかけは最悪だけど、私はあなたと出会えてよかった。
私には今回のことがあってはじめに思い浮かんだ人がいる。
大学のときの友人で、彼女は中学生のときから彼を応援していた。
私はというと、当時も正直ただのイケメン俳優くらいにしか思っていなかったのけど、彼とファン、そしてアミューズのスタッフや仲間の関係性だったり、彼の俳優以外の活動についてや、"ハンサムライブ"という凄いネーミングのショーのことを時折話してくれたのを覚えている。
当時公演されていたキンキーブーツの舞台のことを語っていたキラキラした眼はとても印象的だ。
私はずっと彼女のことが心配だけれど、なんと声をかけていいかわからない。
彼女に限らず彼のファンは、今まで彼が次々と生みだす新たな表情、表現に驚かされ何度でも魅了され、励まされ、時にそのエネルギーに心配になりながら、見守り続けていたんだと思うと、突然その楽しみが途絶えてしまったんだと思うと、心がまた締め付けられる。
まだまだ、人それぞれ、時間がかかると思う。
無理に背けようとしなくていい。
彼が命を投じて生きてきた、幾つもの「人生」をゆっくり味わったらいい。
だけど、人は死というものが具体化されてしまうと、想像以上に死が近くなってしまうことがある。
だから、何か手や足や頭を動かすことに集中することや、人と話すことは意識したほうがいいです。
どうか、みなさんの明日が今日より穏やかな日になりますように。
私は彼のおかげで考えたいテーマが今ひとつあるので、また近いうちに。